あした、シュークリーム日和。 第三話


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 次の日学校に行くと、あたしの机が水浸しだった。
 ……なんでまたこんな、面倒くさいことを……
 漏れかけたため息を何とかかんとか呑み込んで。鞄は廊下のロッカーにぶちこんで。のっそりとあたしは掃除用具入れに向かう。雑巾を引っ張り出した。
 耳障りなクスクス笑いが聞こえる。
 ひとりだけ、誰だか判った。笑い声の主。入学式の日から二週間くらいは仲が良かった女子。いつのまにか、敵に回っていたけど。
 そんなもんかな、と思う。
 ターゲットはいつだってくるくる変わる。そういう世界で、だから別に彼女に特別怒りなんてわかなかった。
 のそのそとした動きで、机を拭く。
 怒りとか、悲しみとか、くやしさとか。
 こういうことをする奴らは、あたしがそういう感情を抱くことを期待しているんだと思う。だったらなおさら、そんなの、抱くわけがなかった。ただ、面倒くさいだけだ。
「加納さん」
 ふと、声が聞こえて。
 顔を上げると、奏人とは違う意味で面倒くさい人が立っていた。
「……おはよ、いんちょ」
「これ……」
 こわばった顔の委員長がなんだかもうひたすら面倒で、あたしは小さく笑って見せた。
「局地的に雨漏りしたご様子で」
「そん……っ」
「いいからあっち行ってよ。言ったでしょ、昨日」
 関わらないでって。
 最後のセリフは音に出さず、唇だけで告げた。軽くにらみ上げる。ちょうど、奏人にやるみたいに。
 委員長は奏人とは違った。
 視線が絡んだのは一瞬で、すぐに彼女はどこかへ駆けていってしまった。
 ――それでいいんだよ、委員長。
 なんて、思ったのはほんの数秒だった。
 机周りの大洪水はなかなかの水量で、一回雑巾絞ってこなきゃかな、と立ち上がったときだった。
 あたしの前に、頬を紅潮させた委員長が立ちふさがった。手にはなにやら、長い棒を携えて。
「ゆ、ゆずりは、ちゃん」
 上ずった声で、言ってきた。
「モップ、持ってきました!」
 ……どうしよう。
 バカがここにもいた。



 その日一日、何故か判らないし判りたくもない気もするけれど、委員長こと柏木遥はあたしにくっついていた。
「……あのさ」
「はい?」
 お昼。
 いつもどおり教室で、ひとりでお弁当を広げているあたしの前で、何故か委員長がお弁当を広げて座っていた。
 いかん。頭痛がする。
「……なんで、って聞いても答えないよね?」
「え? 答えますよ?」
 心外な、と言う表情で委員長は目をぱちくりさせ、
「一緒にごはん食べたいからですよ?」
 ……答えにならない答えを告げる。
 正直なところ、この手のバカといえば代表者奏人がいるわけだけども、上手くあしらえた記憶がなかったりする。どうもあたしは、この手の人種に弱いらしい。
 どうしたらいいのか判らないまま、無言で玉子焼きを口に運ぶ。
 そうする間にも、外野からのざわめきが耳に入っていた。
 ……だから、さ。こういうのがあるから、あたしになんて近づくべきじゃないのに。言ったって、どうせ変わらないんだろうと、あたしはため息だけついて、お弁当を消化するのに専念した。



 夕方。なんとか委員長をまいたあたしは帰路に着いた。
 いつものバス停で降りる。ここから右に行けば商店街。左に行けば入り組んだ路地。あたしの家は商店街を抜けていくほうが近い。
 ただ、高校に入ってからは遠回りして帰っていた。商店街は、見知った顔に会いそうであんまり近づきたくなかった。理由は自分でも良く判らないけど、見知った顔に会うのがなんだかしんどかったから。
 だから、商店街に足を踏み入れるのは、お使いを頼まれたときとか、郷屋のあのシュークリームが恋しくなったときか、どっちかだった。
 さて。今日はどうするか。
 小腹は別にそんなにすいてない。ただ、口は甘いものを欲している。
 ……でもなあ。こないだ食べたばっかしだし、太るかな。
 なんて、バス停でしばらく考え込む。その頭上から、
「ゆずちゃん?」
 ……またか。
 思わずがっくりうなだれて、仕方なしに振り返る。
 制服姿の奏人が、目をぱちくりさせて立っていた。
「……なんか最近、遭遇率が急に上がった気がするんですけど、ストーカー?」
「え? 違うよ、僕もいま帰り道。おなじバスだったよ、気づかなかった?」
「……気づかなかった。っていうか、だったら帰りゃいいじゃん。なんで立ってるの」
「ゆずちゃんこそ。帰らないの?」
 心底不思議そうに問われて、思わず言葉につまる。
 実は、遭遇率はこっちが減らしていた感もある。奏人も商店街を通って帰るのが通学路で、あたしがそっちを避けてたんだからそうなるだろう。あと考えられるのは……
「あんた部活やってる?」
「うん。やってるよ、社会部。今はテスト前で休みだけど」
「おっけ、把握した」
 頷く。部活やってないあたしと部活やってる奏人じゃ、普段はかぶらないんだろう。この時期は、残念ながらかぶるわけだけど。
「ゆずちゃん、なんか悩み?」
「あんたとの遭遇率を下げる方法をちょっと」
「えー」
「えー、じゃない。あたし帰る」
「あ、待って待ってゆずちゃん。郷屋、おごるから。一緒に帰ろう」
 ……う。
 この野郎。物で釣ろうってか。生意気な。
 瞬間的にそんな言葉が脳裏を横切るけど、あたしはものすごく不服な顔をしたまま、こく、と頷いていた。
 だって郷屋のシュークリーム、美味しいんだもん……。



 疲れた体を包むように、やさしい甘みの二層のクリームが染み渡っていく。クリームは舌の上でさらっとなくなって、その少し後から鼻腔を抜けていくバニラビーンズの香りがたまらない。
「美味しい?」
 こく。
「良かった」
 郷屋のシュークリームってのは、幸福の代名詞だとあたしは思う。
 結局、促されるままいつもの場所に来て、いつものように並んで、シュークリームを頬張っていた。いかん。あたしって自主性がないのかもしれない。
 地元から少し離れた高校へ行ったのは、幸いだったのかな、と思う。
 少なくとも、こういう場所を学校の連中に見られることはたぶんないから。奏人がターゲットになるようなこともたぶんないから。
 甘い食べ物って、心のどこかを緩ませる機能が備わっている。いつの間にか、あたしはボンヤリ空を見上げたまま口を開いていた。
「ねぇ、奏人」
「なあに?」
「いる?」
 なにが、とは聞かなかった。でも、奏人はそれで判ったみたいだった。
「いるよ。いつもいる。いつもいて、見守ってくれてる」
「見てるだけなんだ」
「だめかな」
「神さまなんでしょ?」
 シュークリームを食べ終えた指を、ちょっとだけ舐めて。
 あたしは鮮やかな青と緑が重なり合う空を見上げた。白い線が、一直線に空に溶けていく。飛行機雲。こんな田舎でも、当たり前に見られる光景。
「神さまだったら、助けてくれたっていいじゃない」
「うーん」
「見てるだけなんて、ずいぶんケチだよね。昔から思ってたけど」
 あたしの言葉に、奏人はちょっと苦笑した。
「ケチかな」
「ケチだよ」
「でも、見てるだけって、すごいことだよ」
「誰でも出来るよ」
「そうでもないよ」
 やわらかい言葉のクセに、でも奏人ははっきりとノーを言ってくる。なんとなく、釈然としなくて、あたしは言葉を切って空を見つめることに専念した。
 風。陽射し。せせらぎの音。夏の景色は、いつもあたしの傍にあったものだ。だけど、それは自然の恵み、ってヤツであって、決して神さまのおかげなんかじゃない。
 神さまは何もしない。職務怠慢なナマケモノだ。
「ただ見てるだけ、だけど、誰にでも出来ることじゃないと思うんだ、ゆずちゃん」
「どうして?」
「見守るのは、タイヘンだよ。きっと、悲しいこととか、理不尽なこととか、いっぱい知っていて、でも、全部呑み込んで見守るのって、きっとつらいよ」
 悲しいこと。理不尽なこと。そんなの。
 ――あたしだって知ってる。
「ゆずちゃんは」
 奏人の声が、少しだけいつもと違う気がした。どこか不安そうな、硬い声だった。視線を、奏人にやる。ちょっとトロそうな面立ちは、声そのままの表情を貼り付けていた。
「なにか、助けて貰いたいことがあるの?」

 タスケテモライタイコトガアルノ?

 ぎゅうっと、心臓を素手で掴まれた気がした。同時に、一瞬白くなった視界の中に、フラッシュみたいに蘇る景色があった。死ね! と書かれたメモ用紙。水浸しの机。誰もが避けていく休憩時間。それから、おさげに眼鏡の女の子。
 ――ばかばかしい。
 胸中で毒づいて、あたしはその幻影を追い払う。
 そんなの、助けて欲しいわけじゃない。助けられるようなことでもない。そんな大げさなことじゃないから。だってあの程度、誰だって経験してることでしょう。持ち回りでターゲットが変わるだけの、そんなくだらないゲームみたいなものだ。
 あたしは、傷ついてなんていない。
 助けて欲しいなんて、考えてない。
「……ないよ」
「……そっか」
 絞り出した声に、奏人が感づかなかったわけがない。でも、奏人は何も言わなかった。なんだかそれが、悔しくて、あたしはそのまま、言葉を続けていた。
「奏人は、あるの?」
「あるよ」
 あっさりと。
 奏人は泣き笑いみたいな顔のまま、頷いた。
「ある。あったよ。ゆずちゃんがよく知ってるはず」
「あたし?」
「あの時助けてくれたのは、ゆずちゃんだったからね」
 言われて、あたしは眉根を寄せた。
 いつのことだろう。思い出せない。
 あたしの様子がおかしかったのか、奏人は表情から泣き出しそうな部分を消して、確かに笑った。
「覚えてないならいいんだ」
「……不服」
「ゆずちゃんにとっては、大したことじゃなかったってことだよ。僕にとっては特別だけど」
 特別、か。
「そのとき、あんた恨まなかったの? 神さまのこと」
「うん。見守るだけだった、ってのは確かだけど、でも、いてくれたから」
 微笑んで、そっと奏人は立ち上がった。
 川原を歩いて、しゃがみこむ。腕まくりした手を水の中に入れて、それからゆっくり抜いた。手のひらは空を向いたおわん形になっていた。――まるで何かをすくったように。
「奏人?」
「ゆずちゃん、おいでよ」
 呼ばれて。
 あたしはちょっと躊躇した後、よたよたとした動きで川原を歩いていった。奏人の傍による。奏人はあたしの手をとって、そっと、自分のおわん形の手を上にのせた。
 ふ――と。
 あたたかさが、手のひらに伝わる。
「え……?」
「いま、ゆずちゃんの手の上にいるんだよ。水神さま」
 告げられて。
 どうしたらいいのか判らなくて、あたしはその場で硬直してしまった。
 目を凝らしても、見えやしない。
 だって、いないはずだから。神さまなんて、いないんだから。いたとしても職務怠慢なナマケモノでしかないはずだし、見る必要なんてないんだ。
 でも。
 思っていても、なんだかその手をさかさまにして振り払うことが出来ない。
「ゆずちゃんが、神さまなんて信じないって言っても、いつも傍にいてくれているんだ」
 そんなの。
 どうでも、いいよ。
 目に見えない存在が、いつも傍にいてくれたって、それは結局空気や風や雨や空や、そういったものと同義でしかないでしょう。それによって助けてくれもしない神さまに、何の価値があるの。
 暗い感情が、胸をよぎったとき、あたしの手はすっと落ちていた。もしいたなら。神さまは手のひらから、滑り落ちたはずだった。
「ゆずちゃん?」
「もういい」
 低く告げて、あたしは元来た岩場へと歩を進めた。鞄を持ち上げて、奏人に背を向けたまま、言う。
「バイバイ、奏人」


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