あした、シュークリーム日和。 第五話


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 ――バイバイ、奏人。
 ――バイバイ、遥。
 ああ、夢だ――って、判った。夢を見ているんだあたしって、すぐ判った。いわゆる明晰夢ってヤツ。判っているのに、あたしは夢の中で動けなかった。
 暗い、ただただぼんやりした闇の中で、奏人と遥が立っていた。ふたりは揃って、戸惑ったような悲しそうな顔をしていた。でも、あたしが告げた言葉に少ししてからふたりは頷いて、バラバラに歩き出していく。あたしから離れていく。
 どうせ夢なんだから、って思った。どうせ夢なんだから、待って、くらい叫べばいいのにって。
 でも、出来なくて、気づいたらあたしは独りだった。
 ぼんやりした闇の中で独りで立っていた。どこからか、悪意のざわめきがまとわりついてくる中で、あたしは独りだった。
 いないじゃない。
 八つ当たり気味に、思う。いないじゃない。あたし、独りじゃない。誰も見守ってくれていないじゃない。神さまなんて、いないじゃないか。
 ね、ほら。
 あたしの言ったとおりだ。
「……無意味だよね」
 目が覚めて、あたしは天井を見上げたまま呟いた。
 言葉は、かすれたまま夏の夜明けに溶けていく。もう一度眠ることも出来なくて、あたしはもそもそとベッドを抜け出した。カーテンを開けると、薄く白い光が部屋に差し込んできた。窓を開ける。ひんやりとした朝の空気が滑り込んでくる。
 その空気を吸い込んでから、枕元にある携帯に手を伸ばした。五時二十分。さすがにちょっと、早すぎるけど。
 まいっか、と口の中だけで呟いてあたしは制服に着替えた。メモ用紙に『ちょい用事あるから早めにガッコ行く』と殴り書いて、リビングのテーブルに置くと、そのまま家を脱出した。
 セミの声が聞こえた。でも、まだそれほど暑くなくって、あたしは思いっきり伸びをした。
 住宅街を抜けて、まだパラパラとしか人が活動していない商店街に入っていく。郷屋もさすがにまだやっていない。のんびり、歩いていく。商店街を抜けて、山側へ少し。田んぼの前を横切って、神社近くの森を上がってすぐのところまで。
 浅い川が流れるほとりへ。
 ふっと息を短く吐いて、近くの岩場へ腰掛ける。ここに来るまでも気温はぐんぐん上がってきたけど、この場所は水の傍だからか、いつだってほかより涼しいんだ。木々が揺れる音も、水の流れが岩に当たる音も、涼しく感じる一因かもしれない。
 目を閉じる。
 朝日が木漏れ日となって降り注いでくる。空に顔を向けると、閉じた視界の中でもちらちらと光が揺れるのが判った。ぼんやりとした視界の闇は、あの夢に似ている。でも、現実では太陽の光がちゃんとあって、夢ほど重くは感じないんだ。そんなことにほっとした。
 ――バイバイって、言葉。
 簡単だな、と思う。簡単で、そのくせ取り返しがつかない言葉の代表だ。
 単純に、別れるときに口にするとしても、その言葉を言っちゃった後じゃ、あ、そういえばさ、と会話を続けるのが難しい気がしてしまう。あしたまで、もしくは今度会うときまでお預けになる。お預けになった話題ってのは大抵どうでもいいぐらい些細なことで、結局行き場をなくして宙ぶらりんのまま葬り去られるんだ。
 だから、バイバイって言葉は簡単で、難しい。
 判ってるはずなのに、あたしはその言葉を考えなしに口にしたんだ。
 まぶたを上げる。
 青。彩度の高い夏色の空が、木々に遮られながらも息をしていた。
 さぼりたいな。
 口の中だけで呟く。
 別に、いいじゃん? テスト前で、今なんてどの授業も復習か自習しかしてない。今日からは午前授業だけだし、別に無理していく事ないじゃん?
 そう思ってはみても、結局出来やしないんだ。
 だって、そしたら負けみたいに思われるから。あたしは負けたわけじゃないのに、負けみたいに思われる。それはイヤだから。
 行くしかない。
 ただ、まだちょっとだけ時間はある。それまではこうしてこの場所で、時間を潰してたっていいだろう。この時間ならきっと、奏人だって来ない。
 ここは、昔からあたしと奏人のお気に入りの場所だ。この辺、田舎のせいか整備された公園ってのが少ない。だから、あたしたちはこういう森の中の一角を、それぞれ好きに使っていた。
 大人たちも、奥にさえ行かなければあまり口うるさく言わなかったから、時にはここで花火もしたし、缶蹴りなんかもしたっけ。川原には石が敷き詰められている場所もあって、よく奏人はすっころんで怪我してた。
 そしてあの頃は。
 あの頃はもっと、世界が騒がしかった。
 あの木陰のところ。川の中。岩の隅。
 そこらじゅうに、『何か』がいた。ちいさな天狗の姿をしたもの。狐か猫か……動物のような姿をしたもの。そういったものが世界に溢れていて、色鮮やかで、賑やかだった。今あたしを取り巻く悪意の声なんて聞こえなかったのに、今よりずっと、うるさかった。
 ――ううん、正確には、そんな気がする、だ。
 目に見えていた気がしたあれらは、本当にはないものだ。幼い子の想像力の賜物ってヤツだ。判ってる。でも、あの頃は。
 あの頃は世界が疎ましくなかったんだ。
 奏人は。考える。
 奏人は今も、あの世界にいるんだろうか。
 あの、うるさくて賑やかで騒がしい、鮮やかな世界にいるのだろうか。あの『想像上の生物』たちといるんだろうか。
 それは少し、うらやましい気がした。

 ――僕にとっては特別だけど――

 フッ、と。まるで不意に思い出す懐かしいメロディみたいに、いつかの奏人のセリフが蘇った。
 そういえばあれは、なんだったんだろう?
 チチチ……と飛び立つ鳥の影を眼で追いながら自問する。奏人にとって特別なこと。あたしにとっては大したことじゃない。でも、あたしがよく知ってるはずだって言っていた。そしてそれは。
 タスケテモライタイコト――?
 ずんっ……と、急に胃が重くなった気がした。それってもしかしたら大事なことなんじゃないだろうか。とても、とても大切なことなんじゃないのだろうか。どうしてあたしはあの時、あんな簡単に流してしまったんだろう?
 判らない。
 奏人は何を助けて貰いたかったの。あたしは奏人に何をしたって言うの?
 判らない。判らない。判らない――
「ねぇ」
 重くなる胃をごまかすように口を開く。
「ねぇ、教えてよ」
 もし本当に『神さま』とやらがいるのなら。見えなくてもいるのなら。奏人が言ったように『見守って』くれているのなら。
 知っているはずでしょう。
 判るはずでしょう。
 奏人のあの言葉の意味。あたしが忘れている大事なこと。
「教えてよ――」
 風が鳴る。セミの声。せせらぎの音。それから……それから……。
 ――それだけ、だった。
 しばらく待ってみても、帰ってくるのは、自然の音だけだった。
「……ばかばかしい」
 呻くように呟いて、あたしはその場を後にした。
 誰も何も、答えてなんてくれなかった。



 その日、重い足取りで教室に入ったのは始業時間ギリギリだった。自分の席に鞄を投げて座り込む。机の中に入っていた悪意の落書きはいつもどおり丸めて握りつぶした。視界の隅に、ぽっかりと穴があった。
 委員長、柏木遥は、休みのようだった。
 また、胃によく判らない重荷が乗っかったみたいだった。空席は、二時間目になっても、三時間目になっても埋まらなかった。
 四時間目の現国は案の定自習で、みんな銘々に、廊下のロッカーからノートや辞書を引っ張り出して、机をくっつけたりしていた。そんな中にまぎれて、あたしも席を立ってロッカーに向かう。クラスメイトの誰かとすれちがった。女子。おなじ背丈くらいの、普通の子、だと思った。
(死ねよ)
 ――そんなささやきを聞くまでは。
 振り返らない。足も止めない。あたしはそのまま、ロッカーまで歩んでいって、辞書を取り出して自分の机に戻る。
 戻ってきたら、ノートがなくなっていた。
 面倒くさいな、と思った。でも探さなかった。別に、後で、どこかに放り投げられているだろうから。今探す必要なんてないと思ったから。
 ルーズリーフを取り出して、教科書を広げた。
 なんだか視界がぐるぐるしてた。別に、こんなの、大したことじゃないのに。
 死ねよ、だって。言うのは簡単だけど、これで本当にあたしが死んだら、どうするつもりなんだろうね。
 胸の奥がむかむかする。上手く呼吸が出来ない気がした。
 ストレスだ、たぶん。判ってる。テストが近くなって、みんな、ストレスがたまっている。だからこういう風に、いつも以上に、攻撃的になっているんだろう。それくらい、判ってる。
 視界の中に、まだ空白がある。
 教室の入り口。あたしの席より少し離れた場所。
 遥の席は、誰も、寄り付かない。
 席の主も、いないままだった。



 カラカラと、面倒くさそうな音を立てて扇風機が回っている。
 どういうわけか、掃除道具入れの上に乗っかっていた現国のノートをひろげて、あたしは教室の中でひとり机に向かっていた。
 ほかには、誰もいない。みんな帰っていった。あたしは、昼も食べずにここにいた。何となく、みんなと同じ時間に校舎を出るのがイヤだったから。
 静かだ。
 扇風機の音だけが世界を占めていて、とても、静かだった。
 もくもくとシャーペンを動かしていく間だけは、胸のつっかえが収まっている気がして、あたしはただひたすら手を動かしていた。
 ガラリ――
 静寂の中に、ふいに雑音が割り込んできた。顔を上げる。
「せんせい」
「あれ、加納。まだいたのか」
 担任――相田洋先生は、三十半ばくらいの、まだ若い先生だ。シャツにジーンズというラフな格好をしている。確か、わりと女子に人気。ようせんせー、とか、呼ばれてた気がする。
「……あたしの部屋のクーラー今壊れてて、どうせどこいても暑いなら、まだ学校のほうが、わかんないとき聞けるってメリットあるかなーと思って」
「あ、なるほど」
 大変だなぁ、と笑いながら先生は教室に入ってくる。口調は軽いし、割ととっつきやすい先生なんだ。いい人だと思う。
「うわ、あっち、この部屋。モアってしてるモアって!」
「んー、そうですね」
「加納、どうせだったら図書室いけば? まだ開いてるし、クーラーガンガン効いてるぞあそこ」
「んー、いや、いいです。もう帰ります」
 ノートを閉じて立ち上がる。鞄に教科書やらを詰め込んでいるうちに、先生は扇風機を止めて窓の鍵を閉め始めた。
「なぁ加納」
「はい?」
「最近おまえ、いろいろ引き受けすぎじゃないか? 大丈夫なのか?」
 ちょっとだけ、ぎくっとした。先生が言っているのは、たぶんアレだ。体育祭実行委員とか、学級環境整備係とか、諸々押し付けられた重荷のことだ。
「んー、多いですかね。でもひとつひとつはそんなに仕事量多くないですし。ああいうのって、誰かがやんなきゃ話進まないからいいかなーって」
「んー……まぁ、おまえが大丈夫ならいいんだけどな。あんまり無理するなよ」
「はーい」
 あくまで軽い調子で笑いながら頷く。先生はそれで納得したのか、短く息を吐いて、それから思い出したように言った。
「そうだ、加納。おまえ、柏木と仲良い?」
 問われて、一瞬どきっとした。
「別に……話したことくらいはありますけど」
「そっか。んじゃ、携帯とかも知らんか」
「知らないです。……何ですか? 今日、休みでしたよね、委員長」
 何故だろう。少しだけ鼓動が早くなる。でも、あくまでなんでもないふりをしたまま、あたしは先生と並んで教室を出た。
「いやな、それで先生、朝柏木んちに電話したんだよ。病欠か? って」
「違うんですか?」
「それが、お母さんが言うには、朝はちゃんと家を出たらしいんだ」
 え――?
 気づいたら、足が止まっていた。先生を見上げる。
「……家、出たんですか? なのに学校に来てない?」
「そうなんだ。さぼりかなぁ、と思うんだが……いや、先生だってさぼりくらい経験あるしな。ただ、なんとなく柏木がさぼるってのがイメージ沸かなくてちょいと気になってるんだ」
「……そう、ですね」
「夕方、もう一度ご家族と連絡を取ろうとは思ってるし、別に問題ないとは思うんだが、加納がもし仲良かったら携帯番号でも知ってるかと思ってな」
「ご両親、知ってるんじゃないですか?」
「いや、さぼってたら家族からの電話には出んだろ。友達からなら出るかもしれないなと思ったんだ」
 ともだち、か。
 スカートのポケットに入れたままの携帯をぎゅっと握った。もちろん、委員長のアドレスも番号も、その中には入ってない。
 だって別に、友達なんかじゃないから。
「んー、残念ながらお力にはなれそうにないですねぇ」
「いやいや、仕方ないな。ありがとな」
 先生が軽く笑って歩き出したから、あたしも小さく笑い返して歩いていく。昇降口まで、何度か言葉を交わした気がするけど、いまいち耳に入ってこなかった。
「じゃ、先生はまだいるから。加納、気をつけて帰れよ」
「あ、はい。さよなら」
 軽く頷いて、自分の下駄箱へ向かった。
 ――いんちょ、なに、やってんの? どこにいるの? 別に、あたしが知ったことじゃないけどさ。
 まただ。また、視界がぐるぐるしている。足もとも、なんだかふわふわしてて現実味がなかった。なんとか下駄箱までたどり着いて、あたしは目を閉じた。
 空っぽだった。
 下駄箱の中には、あたしの靴はなかった。
「どうしろってのさ……」
 たまらず、呻き声が漏れた。下駄箱を殴りつける。でも、力なんて入ってなくて、間抜けな音がしただけだった。

 ――どんなときも、自分を崩さずいれるようになりたかった。
 ――真正面から受け止めて、それでも立っていられるような人になりたかった。
 ――わたしにとって、ゆずりはちゃんは憧れだった。

 遥の声が聞こえてくる気がした。バカたれ。勝手に期待してんじゃない。勝手に憧れるんじゃない。あたしはそんなの、許可してない。
 ドク、ドク、と心臓の音がする。生きてる音がする。血が、全身を駆け巡る音。そのくせ、上手く頭には回っていないのか、まだくらくらしたままだった。
 唇を引き結んだ。顔を上げた。何もない下駄箱を睨み付けた。
 ダイジョウブ。ナンデモナイ。タイシタコトジャナイ。
 呪文みたいに呟いて、あたしは下駄箱に背を向けた。上履きのまま、外に出る。別に、いいじゃない。上履きでも。あとで洗えばいいだけだ。問題ないじゃない。
 ぐっと息を呑んだまま、校門へ向かって歩いていって。
 校門まで来たとき、あたしはどうしたらいいのか、もっともっと、判らなくなった。
「……かな、と」
 校門の外。うちのじゃない制服を着た男子生徒が立っていた。ちょっと長めの髪に、トロそうな顔。間違いなく、森繁奏人だった。
「なんで」
 問いかけた声は、自分でも驚くほど弱々しくて、かすれていた。ああ、バカ。これじゃ、あたしらしくない。
 奏人はいつもと違う、難しい顔をしていた。きゅっと、眉間にしわを寄せて。……似合わないな、なんて、ちょっとだけ思った。
「最近、ゆずちゃんの様子が変だって。気になるって。心配してたから」
「……また、神さま?」
「違うよ。今日、僕にそう言ってきたのはゆずちゃんとこのおばさん」
「母さん?」
 想定外の言葉に、あたしは目を瞬く。母さんが、あたしのことを気にしてた?
「僕も、気になってた」
 険しい声で、似合わない低い音程で、奏人は呟いた。その視線は、あたしの足元に向かってる。やばい、って思った。上履き。これじゃ、ばれちゃうじゃないか、って。
 でも、何となく、判った。
 たぶんもう、奏人は気づいてる。
 喉が鳴る。唾を飲み込みたくて。でも、飲み込むほど唾液はなかった。カラカラだった。
 奏人の手が、あたしの手を握った。抵抗なんて、もう、出来なかった。
「帰ろう、ゆずちゃん」
 奏人が囁いた。頷けなくなったあたしの手を引いて、奏人はバス停までゆっくり歩いていく。無言だった。あたしたちは何も言葉を交わさなかった。無言のままバスを待ち、無言のままやってきたバスに乗り込んだ。時々誰かの視線を感じた。上履きのままは、やっぱり少し目立ったらしい。俯いたまま、視線をやり過ごした。揺れる車内でも、奏人はあたしの手を離さなかった。ずっと、握り締めてくれていた。
 あたたかかった。あたたかくて、ちょっと骨ばっていて、大きな手だった。
 いつの間にか、すごく、大きな手になっていたんだ。


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