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一夏の香水同盟参加作品


 ◆


 ねぇ、陽子ちゃん。
 月は太陽がないと輝けないんだよ。
 だから、ねぇ。
 お願い。
 早く、帰ってきて。
 あなたの場所は、私が守っているから。


 ◆







 甲高い音を立てそうな青一色の空から、暑い陽射しが降り注いでいる。
 グラウンドの中、熱いトラックに指をついて陽子ちゃんは前を見据えている。茶色に染めた短い髪の毛が汗を反射してきらりと光る。スタートブロックにかけられた陽子ちゃんの足に、くっと力が入った。あごが引かれて、そこからまた一筋汗が滴り落ちる。スターターの動きにすべての意識を集中させる。空気がはりつめられて、そして。
 ――音が鳴る。
 同時に陽子ちゃんのシューズがスタートブロックを強く蹴っていた。体勢は低いまま一次加速局面。すぐに上体が起き上がり始めて、二次加速局面。陽子ちゃんの走りは、加速局面の短さに特徴があると私は思う。そしてまたすぐに上体が完全に起き上がり、トップスピードへ。一次加速も二次加速も、私が走るときよりずっと短い。だからこそ陽子ちゃんは、速い。
 陽子ちゃんの足先がゴールラインを――踏んだ!
 数メートル過ぎた場所で陽子ちゃんがゆっくりと足を止める。ショートの髪をかき上げて、汗を払う。陽子ちゃんのそういう仕草は、とても青空に映える。
「月子、どう?」
 弾ませた息の合間から、陽子ちゃんが聞いてくる。私は両手に握り締めたストップウォッチを見下ろしてふるふると首を振った。
「ま、まだ見てない……」
「はぁ?」
「だっ、だってドキドキするんだもん!」
 思いっきり怪訝な顔をする陽子ちゃんにあわてて言う。陽子ちゃんは笑いながらあたしの頭を軽くたたいた。
「ばぁっか。お前がドキドキしてどうすんだよ」
「だ、だって」
「しかも練習。試合じゃないんだし」
「で、でも」
「見せてみなよ」
 おろおろしてる私の手から、陽子ちゃんはあっさりストップウォッチを奪い取る。文字盤を覗き込む陽子ちゃんの隣から、私も覗き込んだ。
 12秒56。
「んー……まぁまぁかな」
「じゅうぶん速いよ」
 どうあがいても13秒半ばすぎのわたしからすれば、相当な速さ。去年の全中では100メートル女子の一位は12秒39だったんだから、今年陽子ちゃんは十二分に戦えるはずだ。
「あたしのベストは12秒34だよ」
「試合で、でしょ。これ、練習」
「ばぁっか」
 もう一度こつんと、陽子ちゃんは私の頭をたたいた。
「風岡陽子様はいつだってベストを尽くすんです」
 青い空を背景に、陽子ちゃんはにっと笑う。
 きらきら光って、とても綺麗なんだ。


 ◆


 陽子ちゃん――風岡陽子ちゃんと私、杉原月子は何もかもが正反対だ。
 陽子ちゃんは背が高くて、足が長い。陸上をやっているときの、ショートパンツからすらっと伸びる足はそこらのモデルよりずっと綺麗だと思う。色は白くはないけど、健康的な色で、生命力にあふれている。茶色に染めた髪はショートに切られてあって、陽射しにきらきらと反射する。もちろん、染色は校則違反だけど陽子ちゃんがそんなことを気にするはずもない。先生たちも学校一の期待の株、陸上部のエース陽子ちゃんにあんまり強く出られないのが実際だ。制服のときはスカートを少し短くしている。とはいっても、クラスの加賀美さんたちのようなバカみたいな短さじゃない。ああいうのは、陽子ちゃんのポリシーに反するそうで、陽子ちゃんはよく悪態をついている。全体のバランスが一番いい短さ、が陽子ちゃんのモットーとするところだ。大体ひざ上五センチくらい。お化粧も派手にはしない。陽子ちゃんはマスカラが嫌いだ。マスカラなんてしなくても、陽子ちゃんのまつげは影が出来るくらい長いから必要ない。アクセサリも、カッコいいシャープなのを好んでつけている。あんまりハートとかそういった女の子らしいのは好きじゃないらしい。私服のときも女の子らしいスカートなんかはほとんどはかない。
 ただし、ひとつだけ例外があって、それが香水だ。陽子ちゃんは香水を集めるのが好きだけど、香水だけはいつもどこかフルーティな甘い香りを選んでいる。服装のようなシャープな香りはあまり選ばない。甘い香りが、陽子ちゃんからはいつもする。
 私は、陽子ちゃんとはことごとく正反対だ。
 背は低くて色白で、同じ陸上部ではあるけれど陽子ちゃんのようなエースにはなれるはずもない人間。先生に怒られるのが怖いから、というよりはそうする必要性を覚えないから髪も染めていない真っ黒で、背中まであるロング・ヘア。スカート丈も校則どおりの膝丈で、お化粧も香水もしていない。
 時々、クラスの人たちからバカにされることがある。あんまりに全てが正反対の私が陽子ちゃんと一緒にいるのは、陽子ちゃんが私を引き立て役としておいてるからだと。
 私はそんなことを言われてもまったく気にしない。別にそれならそれでいいけれど、私は知っている。陽子ちゃんはそんなことをする人間じゃないのだ。ただしこの噂が一度陽子ちゃんの耳に入ったときは、大変だった。陽子ちゃんはこういう噂の類が大嫌いだ。
 私は、陽子ちゃんとはやっぱりことごとく正反対だ。
 そして私は、陽子ちゃんのことがやっぱりとても大好きなのだ。


 ◆


 夏休みに入った学校が静かだというのは、小学校までの幻想だと思う。
 入れ替わり立ち代り部活動の生徒やら特別補講を受けに来ている秀才さんやらが出入りするせいで、夏休みとはいえ中学の校内は結構騒がしい。
 練習を終えて着替え終わった陽子ちゃんと私は、三年二組の教室でテープを見ていた。さっき、顧問の先生が撮影してくれた私たちの練習風景だ。
 ハンディカムビデオのモニタの中で、小さな私が私なりに一生懸命走っているのを、陽子ちゃんは真面目な顔で見てくれている。
「月、一次加速からの上体上げ、もうちょっと短縮したほうがいいな」
「うん」
「あとはもう少し足のふりを大きくしたほうがいいかも」
「わかった。がんばる」
 私が頷くと、陽子ちゃんは満足そうに笑った。
「全中、がんばるから。見ててね、月子」
「うん」
 二週間後には全日本中学校陸上競技選手権大会(私たちは全中と呼んでいる)がある。全中の参加資格はかなり厳しいのだけれど、陽子ちゃんは去年に引き続き今年も100メートルに出場する。去年陽子ちゃんは六位だった。今年が最後の全中だということもあって、かなり張り切っている。私はもちろん出られる成績じゃないから、応援だ。でも、それでいいんだとおもう。私は、私なりにがんばるだけ。そうすれば、陽子ちゃんはこうやって笑ってくれるし、少しでもタイムが縮めばほめてくれる。
 二人きり、夕陽のさしこむ夏の教室は、窓を開けていてもどこか蒸し暑いけれど、それでもその空間が私はとても好きだ。
 陽子ちゃんと二人きりでいられるから。
 陽子ちゃんの笑顔が、私にだけ向けられているから。
 そして――吹きぬけた風がふわっと甘い香りを運んできた。どこか懐かしいような――そう、ピーチかなにか、フルーツのような甘い匂い。昨日までのどこかミステリアスな花の匂いじゃなくて、それよりももう少し甘い匂いがした。
「陽子ちゃん、香水変えた?」
 私が訊ねると、ハンディカムをしまっていた陽子ちゃんが手を止めて目をぱちくりさせた。
「あれ、判る?」
「うん。昨日より甘い匂いがする。フルーツみたい」
「へぇ。月子鼻いいんだ?」
 特別鼻がいいわけじゃなくて、陽子ちゃんの香りだから判るだけ。
 そう。この空間は、陽子ちゃんの香りで溢れているから好きだ。
 陽子ちゃんはお気に入りのおもちゃを見せびらかす子供みたいに無邪気な笑顔を浮かべて、くるっとスカートを翻してまわった。プリーツがふわりと広がると、また微かに甘い香り。とん、と人の机に当たり前みたいに腰掛けた陽子ちゃんは、ハンディカムを収めた袋をひざに抱えて、正面に座る私の瞳を覗き込んできた。
「いい匂いだろ」
「うん。甘いね」
 夕焼けが陽子ちゃんの髪を透かしてきらきら輝いている。全体的にどちらかというと男の子っぽくてシャープな印象がある陽子ちゃんの中で、ただ一点だけ確かに女の子だと主張するみたいに、甘い甘い香りが漂っている。微かに、だけど確かに。
 陽子ちゃんの香りだ。
「なんていう香水?」
「ゴーストのシアサマー。ボトルも可愛いんだよ。ピンク色で、三日月形でさ」
 少しだけ、ドキッとした。
 私は香水なんて詳しくないから、名前なんて言われても判らないけれど、だけど、その三日月形のボトルの香りを、陽子ちゃんが身につけているというのにどきりとした。
 私は昔から、自分の名前があんまり好きじゃなかった。月子、なんて時代遅れ甚だしい古めかしい名前で、おまけにこの性格もあいまってどうにも暗い印象を人に与えるから。今は、気に入っている。中学に入ってすぐ陽子ちゃんに――そう、名前さえも太陽の陽で、私とは正反対の陽子ちゃんに出会えたから。それこそ月が陽の光を浴びなければ存在を地球上に示せない様に、今では陽子ちゃんのいない私が考えられないほどになっている。月でよかったと、そう思う。
 そして、だからこそ。三日月形の――「月」のボトルに入った香りを陽子ちゃんが身につけてくれていると考えると、どきりとしたのだ。
「いい匂い。陽子ちゃんに似合ってると思うよ」
「マジ? ありがと。シンに貰ったんだ」
 嬉しそうに笑う陽子ちゃんのその言葉は、だけど私の心に小さな影を落とす。
「三浦くんに?」
「うん」
 はにかむように陽子ちゃんが微笑む。さらっと音を立てて髪の毛が風に流れた。また少し、甘い香り。
 三浦くん――三浦新一くんは、同じクラスのバスケ部員だ。背が高くて、クラスでももてるタイプの男子。勉強はそこそこ、といったところだけどバスケの腕は見ていてわくわくするくらい、上手。バスケの推薦入試の話も来てるらしい、バスケ部のエース。陸上部のエース陽子ちゃんとは――少し悔しいことに、彼氏彼女の関係だ。
 陽子ちゃんが多分今この世界で一番好きなのは、三浦くんなんだと思う。それは当然だし、仕方ないことではあるのだけれど。
 ただ、私が今この世界で一番好きなのは陽子ちゃんだということを、陽子ちゃんはきっと知らないんだろうなぁ。
「陽?」
 そのとき、不意にがらりと扉を開かれた。陽子ちゃんと二人きりだった空間が壊されて、男子がひとり顔を覗かせる。
 少し制服を着崩した、背の高い男子――たった今話に出ていた三浦くんその人だ。
 三浦くんはいつも部活が終わると、こうして陽子ちゃんを迎えに来る。いつもは陽子ちゃんは笑顔で三浦くんを迎えるのだけど、今日は何故か違った。
 今まで浮かんでいた笑みをすっと消すと、どこか冷たい目で三浦くんを振り返った。
「シン。そっち終わったの?」
「ああ。陽は?」
「これ竹じいに返したら帰る」
 これ、とハンディカムの入った袋を持ち上げて陽子ちゃんが机から飛び降りた。竹じい――は、陸上部の顧問の竹内先生のことだ。陽子ちゃんに限らず、大体みんな竹じいって呼んでいるのだけど、竹内先生は今年でまだ四十三歳だから、じいと呼ぶのは酷な気もする。
 それにしても――なにか、変。
 三浦くんが困ったようにため息をついた。
「陽、まだ怒ってんの?」
「別に」
 完全に不機嫌だ。
 陽子ちゃんはそういう感情を隠すのがへたくそだ。
 三浦くんももちろん判ったんだろう、またひとつため息をついて頭をかいた。困ったような薄笑いを浮かべて、私を見てくる。その視線に私は耐えられなくて俯いてしまう。ああいう目は、好きじゃないのだ。
「あたし今日は月と帰るから」
 突き放した陽子ちゃんの言葉に、それから多分私の態度にも、三浦くんはどうすることも出来なかったらしい。諦めたように「判ったよ。明日な」と短く言葉を残して教室から立ち去った。
 ぴしゃんと扉が閉められて、また二人きりの空間に戻る。
 しばらくはじっと黙っていたけれど、陽子ちゃんから何も言わなかったので私が口火を切った。
「ケンカしたの?」
「……判る?」
 ――あれで判らない人がいたら相当な鈍感だと思う。
「原因は?」
「知らね」
 ――言いたくないってことだ。
 私は小さく苦笑して、椅子から立ち上がった。バッグを抱えて、歩き出す。
「帰ろう、陽子ちゃん」
 私が深く訊かない事に陽子ちゃんは安堵の顔を見せて、私の隣に並んでくる。
 竹内先生にハンディカムを返して、すっかり傾いた夕焼け空の下を陽子ちゃんと歩いていく。夏の陽射しはもうそんなにきつくなくて、湿り気を帯びた風はどこか息苦しささえ覚えるけれど、時折軽やかに吹いて甘い香りを運んでくれるのが嬉しい。
「明日、お休みだね」
 陽子ちゃんにそういうと、陽子ちゃんは無言で小さく頷いた。
「三浦くんとデートするの?」
 明日、と三浦くんが言っていたのを思い出して聞いてみる。陽子ちゃんは一瞬口をつぐんで、それから顔を空へと向けた。
「一応、その予定」
「ふぅん」
 訊いてほしくなさそうだったので、それ以上は止めた。陽子ちゃんの嫌がることを、私はしたくない。
 二人でゆっくり家までの距離を歩く。途中の歩道橋を渡りきると、そこから先は帰り道が違ってしまう。時々私たちは話が終わらなくて、歩道橋を渡りきることなく、手すりに二人でもたれかかって話をすることがある。今日もそうだった。バッグを地面に置いて、陽子ちゃんと私、歩道橋の一番高いところから宵闇が落ち始めた町並みを見下ろしていた。いつもと違うのは、陽子ちゃんが無口だったということだ。話が終わらないからここでこうしているのではなく、話したいことを話していないから帰れないのだ。――陽子ちゃんが何も言わずにここでこうして時間をつぶしはじめるときは、いつだってそう。つまり陽子ちゃんは今、私から訊いてほしいことはなくて、自分から言いたいことがあるんだ。私はそれを判っているから、私から「どうしたの」とは訊かないで、ただ静かに流れていく車の姿を目で追って、陽子ちゃんが口を開くのを待つだけだ。
「月」
 どれくらい車が過ぎるのを見ていただろう。随分たってから、ポツリと陽子ちゃんが言葉を漏らした。
「なぁに?」
「あたし、何でシンのこと好きなんだろ」
「……」
 そんなこと、私に訊かれても……困る。
 何も答えられずにいると、陽子ちゃんは歩道橋の手すりに腕をおいて顔を伏せた。微かに覗き見える陽子ちゃんの横顔は、まつげが影を落としていてとても綺麗だった。
「好きなんだ。それは確か」
 うん。知ってるよ。
 陽子ちゃんのことなら、何でも知ってるもの。
「何で、嫌いになれないんだろ」
 陽子ちゃんの声は小さくて、いつものはきはきした様子とはまったく正反対で、とても弱くて壊れてしまいそうだった。
 陽子ちゃんにこんな声を出させている三浦くんが、私は少し――ううん、本音を言えばかなり、気に食わないけれど。
 だけど陽子ちゃんが傷つくのは見たくないから。
「嫌いになりたいの?」
 私の小さな問いかけに、陽子ちゃんは力なくふるふると首を振る。
「そうじゃないけど。でも、嫌いになれたほうがラクなのに」
「――好きだから嫌いになれないんだよ。嫌いになったほうがラクでも」
 私だってそうだ。陽子ちゃんのことを好きでいると、時々苦しくなるのだけれど、でも好きだから嫌いになんてなれない。
 きっと、それと同じ。
 好きなことはきっと嫌いになれたほうがずっとラクなんだけれど。
「だって陽子ちゃん、走るの好きでしょ?」
 私の言葉に、陽子ちゃんはふっと顔を上げた。色温度の高い町並みは青く染まっていて、陽子ちゃんのどこか不安げな顔を柔らかなヴェールで覆っているように見えた。
「走るのって、しんどいことのほうが多いじゃない? 走ってる最中は息だって上がるし、疲れるし、緊張だってするし、練習だってきついし、タイムが伸びなきゃ辛いでしょ」
 私の言おうとしていることはきっと陽子ちゃんはすでに判ってるはず。だけど、陽子ちゃんが真剣な目で私を見据えているから、私は途中で言葉を切ることが出来ないで続けた。
「走るのなんてやめちゃえば、そういうのと全部さよなら出来るんだよ。土日や夏休みまで学校に来てこうして練習に出る事だってないし、普通にみんなと同じように映画や遊びに行ったりできるんだよ。きっとその方が、ラクだよね。でも陽子ちゃんは絶対にそんなことしないでしょ?」
「しない」
 即答だった。
 さっきまでの揺らいでた視線はいつの間にか消えてなくなっていて、力強いそれこそ真夏の太陽のような眼差しがそこにあった。
「しない。あたしは、走るのをやめたりしない」
「うん」
 陽子ちゃんが今世界で一番好きな人は三浦くんだったとしても、陽子ちゃんがこれから先もずっと世界で一番好きなのは、きっと人じゃなくてただ、走ること、なんだろうと思う。
「走るの、好き?」
「好きだ」
 迷いは一片もなく、陽子ちゃんが私を見据えて頷いた。
「どうして?」
「――わかんない。難しいことはよく判んねぇし、ぐだぐだ理屈並べてもそれっぽいことは言えるかも知んないけど、でもそれは正解じゃないと思う。よく判んないけど、上手く言えないけど、でも好きなんだ」
 走ることが。
 地面を蹴って、風を切って駆け出すことが。
 髪の毛の間を風が駆け抜けていくその感覚が。腿の筋肉が収縮するその感覚が。全身の血が沸き立つその感覚が。息が上がるのが。腕が伸びるのが。体が一瞬宙に浮くことが。風を全身で感じることが。その感覚が。それらの感覚すべてが――理屈ではなくて、何故かなんて問いかけてもきっと陽子ちゃんは困るだろうし私だって困るのだけれど――それらすべてが、走ることが、きっと陽子ちゃんは何より好きで、私ももちろんやっぱり好きなんだ。
「きっとそれと同じだよ。好きだから、嫌いになれないんだと思うよ」
 悔しいけどね。
 最後の言葉は口には出さないで、心の中だけで呟いた。
 陽子ちゃんはしばらく私をじっと見つめて、それからふぅっと大きく息を吐いた。空を仰ぐ陽子ちゃんの横顔は、徹夜明けの空みたいに、少しだけ晴れ晴れとしていてでも少しだけ陰りが残っていた。
「ありがと、月」
「ううん」
 陽子ちゃんはよいしょっとバッグを担ぎ上げた。私もバッグを持ち上げてゆっくり歩を再開させる。
 ジジジ、と蝉の鳴き声が聞こえた。
「あたし、走るのは絶対やめないよ、月」
「うん」
「あたしには、走ることが必要なんだ。上手く言えないけど、たぶん走ることがあたしであることでもあるんだと思う。逆に言えばさ、走ることがもし人間だったら、走ることもあたしを必要としてくれてると思うんだ。あたしが走ることを必要としているみたいに」
「――うん」
 陽子ちゃんは、時々こういった「風岡陽子哲学」みたいなのを披露してくれる。陽子ちゃんの中に一本とおった芯みたいな物の、部分的なお披露目なんだと私はいつも思っている。
 陽子ちゃんはすぅっと切れ長の目を真っ直ぐ前に据えて、呟いた。
「でも、シンにはあたしは必要ないのかもしれないなって、時々思う」
「――え?」
 呟かれた言葉の重みに、私の思考回路は一瞬停滞してしまって、次の瞬間には陽子ちゃんの後ろ姿はもう随分先に進んでいた。
「じゃあ、またな月子!」
 後ろ手に大きく手を振って、陽子ちゃんはバッグを抱えたまま走り出していた。私は陽子ちゃんの後姿をただ見送るしかできなくて、幼い頃にラムネを飲み込んでしまったときに覚えたような胸の痛みを、結局どうすることも出来なかった。
 少しだけ優しい残り香が鼻先を、くすぐった。


 ◆


 ちょうど去年のバレンタイン・デイの前の日だった。私ははじめて陽子ちゃんに恋愛の相談をされた。
 体力をつけるために、学校の周辺をマラソンしているときにいつも楽しそうに走ってるバスケ部の奴がいるんだと。
 その顔が、本当に楽しそうで、気になったんだと。
 屈託のない表情に惹かれたんだと。
 陽子ちゃんはそういって、三浦くんの名前を挙げた。
 バレンタイン・デイにはチョコレートを渡していた。
 その日から、私の中では三浦くんはライバル的なひとに思えて仕方なかったのだけれど。
 あれだけ、陽子ちゃんは三浦くんのことを好きだと思っているのに。それはいつもそばにいる私だから判るのに。
 二人に何があったのかなんて、私は知らなかった。知ろうとしなかった。
 ――あの時本当は、きちんと聞いておくべきだったのに。


 ◆


 陽子ちゃんが事故にあったという連絡が入ったのは、翌日の夜だった。
 右足首の捻挫で、全治三週間。
 ――全中には間に合いそうもなかった。


 ◆



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