◆
階段のすぐ脇に、彼女はいた。
さらさらと流れる茶色のショートヘア。ノースリーブのシャツにカーゴパンツ。手にはハンドバッグを持っていて、鋭いまなざしは真夏の太陽のそれだった。
「陽子ちゃん」
「陽」
私の声と三浦くんの声が重なった。陽子ちゃんはすたすたと歩み寄ってくると、じっと三浦くんを見上げた。
「だよな、シン」
三浦くんは答えなかった。
「喧嘩して――で、その拍子に突き落とされた。あんたの態度がよそよそしいはずだ。そんな可愛い彼女がいたんじゃね」
私の隣に陽子ちゃんは並ぶ。陽子ちゃんからは甘い香りがしなかった。
「陽子ちゃん……」
「竹じいから連絡もらったんだ」
私の呟きに、陽子ちゃんは照れくさそうに笑った。
「杉原は走ってるぞって。杉原は走って待ってるぞって。お前はどうするって。連絡もらったんだ」
陽子ちゃんは手に持っていたハンドバッグを開けた。何も言えずに立ち尽くしている三浦くんに、その中から取り出したものを見せた。
ピンク色の、三日月ボトル。
ゴーストのシアサマー。
「これ。この間あんたにもらった香水。返すよ」
陽子ちゃんは静かに言って、三浦くんは半ば以上呆然としたまま手を出した。
次の瞬間だった。
陽子ちゃんは腕を大きく振り上げて、力いっぱいボトルを廊下の床に叩き付けた。
――パリィン――
耳に痛い音が廊下にこだました。
小さな悲鳴と甲高い音。月は粉々に砕けて、吐き気を招きかねないほどの甘い香りが広まった。
甘くて、甘くて、甘くて、ただひたすらに甘い月の香り――
肺いっぱいに甘い香りが広がったと思ったときにはすでに、陽子ちゃんに腕をつかまれて、私は廊下を駆け出していた。
◆
走っていた。
甘い香りから逃げるみたいに。
階段を駆け下りて、中庭まで一直線に。
陽子ちゃんとともに、私は走っていた。
中庭で足を止めた陽子ちゃんは、大きく息を荒らげていて、私も私で驚きと悔しさと、それ以外の何かとが交じり合って立っていられなかった。制服のまま、中庭の地面の上に座り込んでいた。
二人して、ぜえぜえ呼吸をしていて――私自身がようやく落ち着いた頃には、陽子ちゃんは静かに、静かに泣いていた。
夕焼けの中庭で、陽子ちゃんは静かに泣いていた。
「ばっかみたい……」
掠れ声で、陽子ちゃんが呟いた。
私は陽子ちゃんを見上げて、それから陽子ちゃんを抱きしめた。
陽子ちゃんは抵抗しなかった。私の肩に顔を押し付けてきて、泣いた。
事故みたいなもんだったんだって陽子ちゃんは言った。
三浦くんの様子が違っていたことを陽子ちゃんは気付いていて、あの日問い詰めたんだって言った。
三浦くんは逃げるように答えをはぐらかして、言い合いになって、結果気付くと階段から転げ落ちていたんだと。
悔しかったのは、その後三浦くんが逃げていったことだって、陽子ちゃんは言った。
「バカみたいだ、あたし」
陽子ちゃんは泣きながら、私の耳元で呟いた。
私はしばらくずっと、陽子ちゃんの体を抱きしめた。
「陽子ちゃん」
私は、言わずにいられなかった。
「三浦くんがいなくても、陽子ちゃんは陽子ちゃんだよ。走ることが出来れば、陽子ちゃんだよ。だけど私は、陽子ちゃんがいないと月子でいられないよ」
慰めになんてなってないことは、わかっていた。
だけど言わずにはいられなかった。
「ねぇ、陽子ちゃん。貴女の居場所は、守ってるよ。だから、走ろう? 陽子ちゃん」
「でも」
足はもう、治ってるはずだった。今まで走ってきた分で、私は確かに治ってることを確信した。走るのを拒んでいる陽子ちゃんは、走るのがただ、怖いだけだ。たった三週間。だけど、ずっと走り続けてきた陽子ちゃんにすれば、長い長い三週間だったはずだ。走れなかった三週間が、もう一度走ることを怖がらせている。だけど。
陽子ちゃんは、走ってたんだよ。この三週間、走る陽子ちゃんの居場所は、私が守ってきたよ。
「走ろう、陽子ちゃん」
私は陽子ちゃんの手を握って、懇願するみたいに告げた。
◆
夕陽はすっかり傾いて、黄昏色の空が広がっていた。校庭の隅、私と陽子ちゃんは並んでトラックに指をついていた。
ゴールラインのすぐ脇に、竹内先生が立っている。帰り支度をしていた竹内先生を捕まえたのだ。竹内先生は何も言わずに、付き合ってくれた。
ストップウォッチは持っていなかった。タイムが問題じゃない。今はタイムより大切なことがある。
ただ、走ることが必要なんだ。
私たちが、私たちであるために。
スタートブロックはなかった。だけど、空気は試合そのものよりもずっと緊迫感をたたえていた。
竹内先生がホイッスルを口にくわえた。
私たちは同じタイミングでスタートの姿勢をとった。
そして――
黄昏の空に、始まりの合図が響き渡った。
弾かれるように、私たちは同時に駆け出していた。
全身の血が踊っているのかと思った。
風が体を抜けていく。
隣を走る陽子ちゃんの切る風を体全体で感じる。
靴の裏がトラックを蹴る。
腕が。足が。跳ぶように動く。
筋肉が収縮する。
一次加速。二次加速。そしてトップスピード。
すぐ隣にあったはずの陽子ちゃんの体は、私の前に出た。置いていかれないように全身ですがりつく。けれど陽子ちゃんの姿は背中になった。
走れ――!
心の中で叫んだその瞬間、私はゴールラインを踏んでいた。
◆
私たちはもつれ合うように転がって、トラックに寝そべった。薄い藍色の空が、気持ちよかった。竹内先生の拍手が聞こえた。夕蝉の声が聞こえた。風が火照った体に気持ちよかった。
しばらくそうしていて、ふいに弾けるような笑い声が上がった。陽子ちゃんが寝転がったまま、大声で笑っていた。
大好きな――大好きな、太陽の笑顔だった。
「なんだぁ」
笑いながら、陽子ちゃんは空を見上げていた。きらきらと汗が光っていた。
「なんだぁ。あたし、走れるんじゃん」
「うん」
「バッカでぇ、あたし。何もかんも終わりみたいな気がしてた。走れるのに。あたし、走れるのにさ」
「うん」
けらけら笑う陽子ちゃんが眩しくて、私は頷くしか出来なかった。空を見上げる陽子ちゃんの横顔が、じんわり滲んだ。
「月子、あたし大丈夫だ。あたし、走れるよ。走れるから、月、あたし、走れるから大丈夫だ」
「うん……」
滲んだ陽子ちゃんの横顔が、ポロリと崩れた。
私の様子に気付いたんだろう、陽子ちゃんが振り向いてきてけらけらとまた笑った。
「何で泣いてんのさ、月子」
「わかんない……」
立ち上がった陽子ちゃんが手を差し出してくれて、私は素直にそれに甘えた。陽子ちゃんの手はあったかかった。
竹内先生は、嬉しそうにただにこにこしていた。孫を見守るおじいちゃんの顔にそっくりだった。
「全中、出られなかったけど。あたしまだ、走れるんだ。シンがいなくても、あたし走れるんだ。あたし、風岡陽子でいられるんだね」
「そうだよ、陽子ちゃん」
私が頷くと、陽子ちゃんはくすりとまた微笑んで、私の体を抱きしめてきた。
「よ、陽子ちゃん……」
「ありがと、月。ありがとうね」
感謝の言葉がくすぐったくて、とても、とても嬉しかった。
私たちは、まだ走れる。きっと多分、これからも。
「一緒に、走っていようね、月」
「うん。走ろうね、陽子ちゃん」
陽子ちゃんが嬉しそうに笑った。抱きしめられた陽子ちゃんの腕の中で、私はそれを全身で感じた。
「陽子ちゃん、今日は香水つけてないんだね」
「シンがくれたやつなんて、つけられるか」
むすっとした様子で言う陽子ちゃんが、なんだか可愛くて仕方なかった。
「でもシアサマーの香りは、陽子ちゃんに似合うと思うんだ。だから、今度、プレゼントするね」
甘い甘い香り。
陽子ちゃんは微かに笑って、私の首筋に顔を寄せた。
「月、シアサマーつけてるの?」
「うん」
「甘い匂いがする」
「陽子ちゃんの香りだよ」
私の言葉に、陽子ちゃんはもう一度声を上げて笑った。
体を離して、伸びをする。
八月終わりの黄昏の空は、涼やかな風を運んできて、私についた陽子ちゃんの香りを校庭に柔らかく漂わせた。
「よっし、もう一本走るか、月!」
きらきらした笑顔で陽子ちゃんは笑う。
「うん!」
私は大きく頷く。
私たちはもう一度並んで、トラックに手をついた。
これからもずっと、私たちは走り続けるんだろう。
私たちが、私たちであり続けるために。
ホイッスルが鳴った。
私たちを包むように風が吹き抜けて、甘い香りを漂わせた。
風がほんの僅かに秋の匂いを交えていた。夏休みが終わろうとしていることを、いまさらながらに実感した。
私たちは駆け抜けた。
中学最後の夏は、甘い太陽の香りがした。
――End.