あたしたちの街に、本物の空はない。


「しぃしょーおおおっ!」
 全身全霊で声を上げて、あたしは全力で走っていた。
 全力も全力だ。一般的に言う限界が普段制御されている部分以上のところにあるのは知っているけど、だとしたらあたしの制御部分はとっくに螺子がゆるゆるになっているはずだ。なっていなきゃ、生きていけない。毎日毎日、生きていけない! 限界を超える力でダッシュしなきゃ生きていけない毎日なんだから、螺子は緩んでいてくれなきゃ困るのだ!
「しぃしょおおおっ、しぃしょおおおー!」
「うるさいよ莫迦弟子」
 幾度目かの悲鳴の後、するりと涼やかな声が応じてきた。その声を聞いたとたん、あたしの膝からがくんと力が抜けた。制御部分が螺子を捻りなおしたのだ。この声が聞こえれば、限界を超えなくても助かることを経験的に知っているから。
 べしゃり。と不様な格好で地面に倒れ付したあたしの身体を、師匠は助け起こそうともしてくれない。無造作に跨いで、あたしの背後に迫りつつあった『それ』と対峙する。
 頭がくらくらしていた。ダーク・アウトしかける視界の中で、師匠の背中を確認する。
 髪の短いあたしとは逆に、師匠の髪はたっぷり長い。ゆるやかに編みこんでいるその髪と中性的な顔立ちのせいで、女に間違われることも少なくないくらいだ。ただ、残念ながら今はその師匠自慢のご尊顔は見ることは出来ない。不敵に、一遍の恐れもなく仁王立ちする、妙に自信に溢れた背中が見れるだけだ。
 そして師匠の向こうの『それ』の姿。
 構築要素不適合存在――通称、パピヨン。蝶々なんて可愛い呼び名に似合わずゲテモノ的な外見ですよね、と師匠に言ったところこのパピヨンは蛾を指すんだと言われた。なるほど、とあたしはそのとき妙に納得したのを覚えている。
 夜、外灯に集まる蛾に抱く微妙に嫌な感じを、確かにそれは気配として纏っていた。
 外見は、あってないようなものだ。黒く塗りつぶした空間が、ぐにゃぐにゃと常に歪み、膨れ、縮み、一定の外観を留めはしない。そのくせ、生物的な『ゲテモノ』の印象を与えてくるのだから性質が悪い。
 あれに取り込まれるのは、あたしたちにとって死を意味していた。
 そのパピヨンと対峙しながらも、師匠はいつもの気だるげな態度を崩しもしない。ただ無造作に、本当に無造作に、軽く右手をパピヨンに向けた。
「デウス・エクス・マキナ」
 機械仕掛けの神――師匠の短い排除呪文<<エリミネイション・スペル>>。
 気だるげな口調で呟かれた呪文<<スペル>>に、しゅぽんっ、とシャンペンの栓を抜いたときのような音が重なる。
 そして――あっさりと、嫌になるくらいあっさりと、パピヨンは消え去ったのだった。

「莫迦弟子。お前は何のために私に弟子入りしたんだい?」
 パピヨンをあっさり消し去り、師匠は開口一番冷ややかに告げた。
 まだ地面でぜえはあ言っている可愛い可愛い愛弟子に向かって、一言心配の言葉をかけるでもなく、冷ややかにああそらもう冷ややかにそう言ったのだ!
「ちょっとくらい心配してくれたっていいじゃないですかあ!」
「私の心配はお前の日常茶飯事に使うような安いものじゃないんだよ、莫迦弟子」
「あたしだって望んでこんな体質してるわけじゃありませんっ!」
 理不尽な言い草に思わず怒鳴る。立ち上がり、制服のスカートをぱんっと叩いた。大丈夫、怪我はない。
 師匠は立ち上がったあたしを切れ長の目で見つめてくる。目鼻立ちの整った中性的な顔立ち。身につけた白の術師服のせいで、さらに中性的に見えた。ただ、細身だけど身長は高い。あたしの頭の位置に、師匠の肩がある。
「あのね、莫迦弟子。お前は何のために、私に弟子入りしたんだい?」
「……パピヨンを、ひとりで排除出来るようにするために」
「判ってはいるんだね?」
 頷く。判ってる。判ってはいる、けど。
「じゃあこの二年間で、お前は一度でも自力でパピヨンを排除したかい?」
 問われなくても、判っている。答えは、判りきっている。
「……してません」
「破門」
 ざくっと言い切られ、あたしは師匠の服を握った。
「やだっ!」
「やだじゃない。子どもみたいな真似をしない。破門ったら破門!」
「師匠っ、やだやだっ、師匠に見捨てられたら真面目に死ぬじゃないですかっ!」
「うるさいよ莫迦元弟子」
 ――元って言ったー!
「しぃーしょぉおおっ!」
「ああもう喚くな騒ぐな掴むな黙ってなさい鬱陶しい!」
「やだやだやだやだあっ」
 ぎううと師匠の服を掴んでいやいやと首を振る。師匠は引っ付くあたしを迷惑そうな顔で見下ろし、やがてゆっくり息を吐いた。
「莉子」
 名前で、呼ばれて。
 あたしは喚くことも出来ずに師匠を見た。師匠の切れ長の目の中に、縋る子どもの顔が映っている。
「いいかい。私はもう、パピヨンと対峙する術の全てを――少なくとも私が知り得る全てを、お前に教えたんだよ。排除呪文<<エリミネイション・スペル>>自体は難しくもなんともない。あとはお前のここに頼るしかない」
 ぺちり、と額を叩かれた。頭を使え、ってことだ。排除呪文<<エリミネイション・スペル>>の実行には、強い意志だけが必要なんだと、師匠は口を酸っぱくして言う。逆に言えば、意志さえ伴っていれば排除呪文<<エリミネイション・スペル>>自体はさほど必要でもないのだとも。
「明日まで、破門は待ってあげるよ。莫迦弟子。ただ、明日も今日と――今までと同じように不様に逃げるしかないのなら」
 師匠はそこで、本当に冷ややかな目をして言い切った。
「私はもうお前を助けには出て行かないよ」

 パピヨンに狙われやすい体質。
 二年前、前触れもなく両親がいなくなり、途方にくれていたあたしに襲い掛かったのはその事実だった。
 最初は何がなんだか判らなかった。判るはずなんてない。ただ黒くてぐにゃぐにゃした気味の悪い存在に、あたしは呆然とするしかなかった。そのパピヨンを消し去って、あたしを助けに現れたのが師匠だった。
 中央制御地区の役人である師匠は、身寄りのないあたしにその事実だけを淡々と教えてくれた。
 この街にはパピヨンなるものが現れ始めているんだ、と。あたしはそれを呼び寄せやすい体質なんだ、と。このままではお前はいつかパピヨンに取り込まれるだろう、と。それだけを静かに教えてくれた。そして、師匠はあたしを引き取った。パピヨンに対抗する術を全く持たないあたしに、自分を護る力を教えようといって、あたしを引き取ってくれたのだ。
 それが、夏だった。
 窓の外の空は、不自然なまでに青い色をしていた。

 そして今日も、空はあの日と全く同じに不自然なまでの青色をしていた。
 カナカナカナとヒグラシが鳴く。それすらも、全く同じだ。夕暮れにはまだ少しあるこの時間が、あたしは夏の中で一番好きだった。そう、好きだった、だ。今はどっちでもない。
 スニーカーを引きずるようにして歩いていく。学校から少し離れた堤防沿いの道だ。夏休みの今も、運動部がランニングをしてあたしの隣を過ぎていく。手には近くの駄菓子屋で買った、古めかしいラムネの瓶。時折それを口に含んで、ゆっくり、ゆっくり、歩いていく。
 この世界は狂っている。
 いつだったか、師匠は空を見上げながらぽつりと言った。
 その意味は、判らない。判らないけど、実感は出来る。狂っている。たぶんそう、狂っている。
 それはでも、あたしと師匠と、後はほんの一握りの中央制御地区の人間だけが感じていることなんだろう。学校の友人たちも、先生たちも、誰もそんなことを考えてはいないはずだ。
 パピヨンは異質で異常な存在だけど、それがこの街なんだと、それで正常なんだと、きっと皆思っている。逆に言えば、思っていないあたしたちは、だからこそパピヨンに狙われるのだ。
「莉子ー!」
 前から、同じ制服を着た女の子が自転車に乗ってやってきた。
「のどか」
 足を止めて友人の名前を口にする。のどかは昨日と同じように自転車を止めて、にっと微笑んだ。
「今帰り?」
「うん。のどかは今から塾?」
「そっ。面倒くさいよ」
「ははっ、がんばれ」
 作り笑いで応じるけれど、のどかは気付いた様子もない。いつものように手を振って、自転車に乗って走り去っていく。
 ――いつもの、ように。
 偽物じみた空の下を、いつものように、去っていく。

 その日、あたしは家には帰らなかった。帰ったところで師匠と合わせる顔もない。たぶん師匠は、心配もしないはずだ。だからのどかと別れた後、いつもみたいに家路につくのではなく、ただ足の向くまま歩き続けた。手には捨てる機会を逃したラムネの瓶を持ちながら。
 陽が傾いて、橙に染まって、夕焼けが広がり、夕暮れになり、薄暮の光が街を包む。それもやがてうっすら溶けて、細い月が輝きを増す。夜がどんどん、更けていく。それでも、あたしは足を止めなかった。いつもどおりの光景の中、いつもどおりに抗うように、ただいつもと違って歩き続けた。
 どこまでも、どこまでも、どこまでも。
 この街の、この世界の果てに向かって。

 どれくらい、歩いたときだろう。空はもううっすらと曙の色を示していて、今日がいつの間にか昨日になっていることを肌で実感できた。朝焼けの光を、あたしは浴びている。浴びて、何もない真正面を見つめている。
 背後に、あの気配を感じた。パピヨン。
 ざわりと二の腕が粟立つ。それでも、あたしの心は昼間と違って落ち着いていた。
 パピヨンは、あたしと同じだ。あたしと師匠と同じだ。この狂った世界で、いつもどおり以外の行動をする。いつ現れるかも判らない。だから怖い。でも、今は違った。少しだけ何故か、ほっとしていた。
 振り返る。
 パピヨンはそこに迫っていた。この街の、構築要素不適合存在。パピヨン。一度だけ、師匠が自嘲気味に呟いたのを聞いている。あの、狂っていると呟いた日のことだ。空を見上げて、世界を狂っていると呟いて、それからゆっくりとあたしを見た。そして、言った。パピヨンは、私やお前と同じ存在だよ、と。
 黒く、歪んだ、醜い存在。それはあたしたちを取り込んで、さらに大きくなろうとしている。この世界を、黒く塗りつぶすために。
 あたしはパピヨンを見つめ、それからふっと小さく息を吐いた。父さんも母さんも、こいつに飲まれた。それは、良いことなのか悪いことなのか。この狂った世界の本質を知った上で、世界をつぶそうとする存在に飲まれたのは、良いことなのか、悪いことなのか。あたしにはどうも、判断できそうにない。ただ判るのは、あたしはそれでも、まだ死にたくはないってことだ。
 怖かった。けど、哀しかった。
 あたしは持っていたラムネの瓶をパピヨンに投げつけた。
 パピヨンはラムネの瓶をぐにゃりと飲み込む。ラムネの瓶はじじっと奇妙な音を立てた。画像の荒いテレビみたいに、或いは天描画か何かみたいに、瓶の形が崩れていく。そして、あたしはゆっくり唇を開いた。
 この狂った世界で、それでもあたしは、死にたくなかったから。
「デウス・エクス・マキナ」
 機械仕掛けの神様よ。全てを、理不尽に終わらせてくれるなら。
 その願いを込めて排除呪文<<エリミネイション・スペル>>を呟いた。

「一歩前進、ってところかな」
 転がったラムネの瓶を拾い上げ、いつの間にそこにいたのか、師匠は微かに微笑んだ。
「し……しょお」
「泣かない。莫迦弟子」
 あたしの頭をぽんと叩いて、師匠は小さく苦笑する。それでも、あたしの涙は止まらなかった。師匠に逢えて安心したからじゃない。それも、あるけど。でもそれ以上の絶望が、あたしを包んでいたからだ。
 朝焼けの光の中、あたしの背後には何もなかった。
 そう、何も。
 歩き続けて、ただひたすらに歩き続けて、そして辿り着いた街の果てには、何もなかった。のっぺりとした青い空間だけが、そこに忽然と現れたのだ。その絶望を知ったからこそ、あたしはパピヨンにいつもみたいな恐怖を覚えなかったんだ。パピヨンの肌に感じる恐怖より、何も感じない目の前の絶望のほうが、つらい。
「師匠、あたし、この先に行きたいです」
「行けないよ、莫迦弟子」
 師匠はどこか疲れた口調でそう呟き、無造作にあたしを抱き寄せた。
「その先には、行けない。見れば判るだろう。その先には何もない」
「何もないって、どうしてですか」
「人間が、まだその先を作っていないからだよ」
 不思議と穏やかに聞こえる口調で、師匠はそう言った。
 判ってる。判ってる。この世界が狂っているわけ、あたしは、あたしと師匠と、ほんの一握りの人間だけが判っている。――違う。あたしたちは人間なんかじゃない。人間に作られた、箱庭の世界の住人。パピヨンと同質のもの。構築要素不適合存在――パピヨン。或いは、バグ。
 いつも通りに繰り返される日常は、だってそうプログラミングされているから。のどかも、空も、同じようにプログラムされていて、もちろんあたしや師匠もそうだったはずで、けれどあたしたちだけが何故かこの世界の本質に気付いてしまった。それは、バグだ。電子回路に挟まった小さな蛾と同じだ。だから、同じ存在だと知ってパピヨンたちは寄ってくる。
「でも、行きたいです」
「無理だよ。その先に出ると、排除者<<デバッカー>>にやられる。私も、助けてはやれない」
「だってこんなの、全部偽物じゃないですか!」
 偽物だ。全部、全部、全部! 空も、友人も、学校も、運動部も、街も何もかもが偽物だ。そんなのは、いやだ。
「あたし、本物が見たい。ここを出て、本物になりたい」
「莫迦弟子」
 師匠はため息をついて、それからあたしの額に口付けた。
「……ししょお?」
「お前は本当に莫迦だね。私たちにとって、この空の下が全てで、これだけが本物だ。そうじゃないのかい?」
「違います」
 言い切っていた。
「あたしは、本物の空が見たい。偽物じみた、不自然な青じゃない空が、見たい」
 空は象徴だ。ただの象徴でしかない。それは全てを見下ろすものだ。舞台装置の照明だ。そしてデウス・エクス・マキナは、全てを終わらせる神は、いつもそこから降りてくる。
 師匠は、ふっと相好を崩した。ぽん、とラムネの瓶を持っていないほうの手であたしの頭を撫でてくる。
「莉子。お前は外に出て、何がしたいんだい?」
 問いかけに、一瞬口ごもり。そしてあたしは、師匠の服の袖を掴んだ。
「師匠と……歩きたい、です」
「莫迦弟子」
 ざっくりと切り捨て、師匠はあたしに背を向けて歩き出した。箱庭の世界を戻っていく。
「師匠!」
 慌ててその背に呼びかけて、背後のただの青い空間を痛いほど感じながら、あたしは縋る思いを投げていた。
 師匠が、背中を見せたまま足を止める。
「師匠は……師匠は、ここをもし、出れるとしたら。そのときは、何がしたいですか?」
 それは絶望と同じ場所にある希望だ。プログラミングされていない、バグの感情。
 師匠は少し空を見上げ、何かを口ずさんだようだった。それは小さすぎて、あたしの耳には届かない。師匠の右手の瓶が、からんと音を立てた。ラムネの瓶をもてあそび、師匠はゆっくり、振り向いた。
「莫迦弟子」
 夏の朝焼けの中、何かが放物線を描いて飛んでくる。
 慌てて受け取ると、それはラムネの瓶の中に入っていたびいだまだった。師匠がそれを、投げてよこしたのだ。
 びいだまを手のひらに乗せたまま、あたしは師匠を見つめる。
 師匠は偽物の空の下、ゆっくり微笑んでいた。
「もし、そんな日が来たらそのときは」
 穏やかな声が、耳に届く。
「私の空を、お前に上げるよ」

 師匠の背中が、また狂った世界を歩き出す。それを見つめ、あたしは手のひらの中のびいだまをそっと空に掲げてみた。
 ――今は偽物の空が、まるく、映りこんでいる。

 fin.

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覆面作家企画3 夏 参加作品・テーマ「空」