奴は格好良い。
それは認めよう。かなり腹立たしくはあるが、事実として認めよう。
外見のみにおいては。
身長は――前の彼氏より若干低そうだから、百八十には少し足りないといったところだろう。
バイト先の規定のせいで、髪は真っ黒で、結構短めに切り込んである。
鼻筋は通っている。目じりはやや吊り気味で、なんと言うかまぁ、ありていに言ってかなり凶悪にも見えかねない目つきだったりもする。
引き結ばれた唇は、もういつ見ても不機嫌そうにしか見えない。
あんたは生きているのかと聞きたくなるくらい無表情だ。でも美形なのだ。マネキンみたいだが。
人のことを言えた義理ではないが、何故こんな奴がこんなバイトをしているのか心底不思議だ。
まぁ、これに関しては本当に人のことを言えた義理ではない。
大学に物の見事に落ちたおかげで浪人生となったあたしは、この三月からバイトをはじめた。
で、このバイトの種類が……まぁ、ようするに珍しい。
言ってしまえば接客業なのだが、何故あたしが接客業なのかと最近自分でも思う。
高校時代の友人にバイトの話をしたら、七人中七人があたしを指さして爆笑しやがった。
しかも賭けをはじめやがった。いつまであたしがこのバイトを続けられるか。
最短は二週間。最長でも半年だった。
なんとなく悔しかったので、一年は持たせてやると賭けにのった。
で、バイトが始まって二週間。
すでに後悔している。一年なんて持ちそうにない。とりあえずの二週間はクリアしたが、半年持つかどうかもかなりあやしい。
賭けに負けるな、これはきっと。
とにかく、あわないのだ。そもそも根っから接客業に向いてない体質なのだろう。
何故、見ず知らずの人間に笑いかけなきゃならない。
何故、見ず知らずの人間の理不尽な怒りにへこへこしなきゃならない。
イライラが募って、なんだかもう、最近はチョコレートが手放せない。
甘いものがないと気が落ち着かない。ああもう、ほんとうにイライラする。
しかもこの状況下に加えて、とどめが奴の存在だ。
奴――上田聡史。
さっき述べた、外見『のみ』格好良い男だ。年齢は知らないが、少なくとも二つ三つは上だろう。
奴は、トレーナーという奴だった。
この妙なバイトについた直後、あたしの世話役だった。
現場に慣れるために、まず最初の三日間かけて片っ端から知識を詰め込むときの、言ってしまえばこのバイト先では育ての親になる存在だった。
リード――トレーナーより上、とりあえずの現場総責任者――から、トレーナーの上田君です、と紹介されたとき、正直に白状すればその外見に軽くときめいてみたりもした。
ラッキィ、とガッツポーズを心の中でしてみたのだ。
が。
そのリードがさって、いざトレーニングを始めんとした時、奴は口を開いた。
「ああ、面倒くさ……」
ぷち。
ああそうですか、そうですかそうですかそうですか。この似合わない上にかなりださいバイト先のコスチュームも着慣れない新人に、これからわくわくとトレーニングに励もうとしていた新人に――まぁ、多少動機は不純ではあったが――開口一番それですか、あんたは。
と、持ち前の短気さ発揮で、あたしも即ケンカ腰になってしまい……
結局そのトレーニング三日間はかなりぼろぼろだったと告げておこう。
しかも奴は容赦がない。自分の教え方がかなり適当だったせいでもあるというのに、あたしのほんの小さなミスにも容赦なく怒鳴る。客の前では怒鳴らないが、休憩室に戻るとそく怒鳴る。
トレーニングも終え、独り立ちして一週間。しかし、まだ先輩たちの輪には入れずに同期生と固まっている状態で。さらにいえばこの固まるとかグループとかが苦手なあたしは、同期生の輪にもあまり馴染めずにいるわけで、何か判らない事があったりすれば、いやでも奴に頼るしかないのだ。
そのたびに、奴は怒鳴る。
ああもう――本当に、本当に。
何故、あたしはこんなバイトを選んでしまったのだろうか。
あわないことが多すぎるこのバイト――
遊園地のお姉さん。
「こんにちはー、どうぞー。ただいま乗り場まで約五十分待ちでご案内しておりまーす」
甲高い声で、先輩が入り口に立って手を振っている。
ちっこいガキどもが我先にと走って駆け込もうとするが、そっちは入り口じゃない。
「……どうぞ、入り口はこちらです」
体でガードして、入り口へとりあえず誘導してみる。
何のためらいもなく一度ぶつかってきてから、方向転換して列へ並んでいく。お前らはイノシシか。ぶつからないと方向転換できないのか。
「ばいばーい、いってらっしゃーい」
先輩が――名前は忘れた――ガキの視線に合わせてしゃがみながら手を振っている。可愛い人だなと思う。細くて、いつも笑っている目元に口元、柔らかい物腰。きっぱりまねできない。よくもまぁ、この人込みとイライラに絶えられるものだな。感心する。
その彼女が、こちらを見てきた。
「ほら、笑って笑って。えーと……」
「……あ、新人の川上です」
「川上さん、笑顔が一番よ、この仕事は」
「……はぁ」
笑えっていったって。いや、貴女は確かにとてもとてもステキな笑顔をなさってはいますが。
……ちらり、とあたしは振り返ってみる。ポジションは違うが、同じ入り口で奴が立っている。
無表情で。
無表情で子供にトイレの場所を教えている。
かなり顔つき凶悪だと思うのだが、奴は。子供が泣きやしないだろうかと少しばかり不安になるくらいかなり顔つき凶悪なのだが、奴は。
笑ってないぞ、奴は。ちっとも笑ってないぞ。
あたしの視線に気付いたのだろう、先輩が苦笑で言ってくる。
「上田君はね、ちょっと変わってるから」
あの変人具合を『ちょっと』と称せる貴女は相当変わっているかと思いますが。
なんだかなぁ、もう。やっぱあわないなー……
「あのぉ」
と、いきなりおばちゃんに声をかけられて、あたしは心底びくりとした。ああなんで、入り口には三人も人がいるのに、何故新人のあたしに声をかけるのだおばちゃん。
「はい、なんでしょう」
とりあえず型どおりに言ってみる。
「タバコって、どこかで売ってませんかね?」
タバコ!?
知らない、そんなものは知らない。売っているのか、この遊園地の中に? このなんだかとっても夢と希望な遊園地に人工的煙害物が!?
「え、えーと。少々お待ちください……」
先輩に訊こうと半ばあせりながらそちらに目をやる――ああ、なんてこと。客の対応中だ。車椅子のお客様。お乗りものの説明中。これは結構長引きそうだ。
どうしよう。奴か、残るは奴しかないのか、やっぱり。ああもう、嫌過ぎる。
覚悟を決めて振り返ろう――としたら、すでに奴は横にいた。
「なんだ」
「あ、えーと……タバコ、売ってますか、って」
「……ああ」
奴はすたすたとおばちゃんのもとへ行くと、手短に道と場所を教えた。おばちゃんは礼を言って去っていく。
売ってるんだ……煙害物……
どこか間の抜けた感心を持って惚けていたあたしに、奴が近づいてくる。
「役立たずな新人だな」
ぷち。
「ええ、役立たずですとも、新人ですものね!」
「客がいる、静かに怒れ新人」
無茶を言うな。ていうか新人新人言うな。あたしの名前は川上だ!
ああもう本当に、こいつは――むかついて仕方ない。
そして、その一時間後。
……休憩室であたしはへこんでいた。
帽子を握り、顔をうずめる。
やってしまった。またやってしまった。
あたしは完璧主義なんかではない。だが、こうまで自分が物が出来ない人物だと思い知らされるとさすがにへこむ。
「絵里ちゃん……? 大丈夫?」
同じ日にバイトにはいった子が、横から覗き込んでくる。この子は同期なので、何かと親しくしてくれる。だが、こういうのは――ありがたくない。心底ありがたくない。放っておいてほしい。
と、そのとき休憩室の扉が無造作に開かれた。
ブレイク時間になってやってきたのは――なんてこと、奴だ。
「おつかれさまです」
休憩室にいた数人が奴にあいさつをする。奴は無言で頷き――こちらに目を留めた。見るな、見るなーっ!
願いむなしく、相変わらずの無表情で生茶を飲みながら奴は声をかけてくる。
「なんだ、新人。また何かやらかしたのか」
……こんなときに、このいいぐさ。こいつの辞書に優しさという言葉はないのか……!
「……やらかしましたよ」
「なにをした」
「……ゲートで人をはさみました」
この遊園地であたしが働いているアトラクションは、結構な目玉アトラクションだ。人もくる。当然乗り場はかなり忙しい。
で、乗り場から乗り物の間は安全上の理由からゲートがあるのだが……それを開閉するのはそのポジションについたあたしたち係員の仕事なのだ。
で……だ。
このポジションの職責――なんかよく判らないが、やらなきゃいけないことだ――が、係員と客の安全確保だ。
それをしっかりとやぶった。
客が悪いのだ。悪いのは客なのだ。こっちはちゃんと『ゲート閉まります』と言ったのに、直後に走りこんできやがったのだ。どうやらのる予定だった奴らしいのだが、後ろの友達と話していたらしい。あたしはそれに気付かずにゲートを閉め、物の見事にその客をはさんだ。
あれ、かなり痛そうだ。
……ここに宣言しよう。あたしはもう今後、人生において、駆け込み乗車はしない。今までしていて迷惑をかけた電車の車掌さんごめんなさい。
……そして、ついさっきリードに叱られたばかりだ。
なのに、奴はきっぱりとにらみつけてきやがった。
「馬鹿だな」
……ぷち。
「この俺が指導してやったんだ、いいかげんまともに働けるようになりやがれ!」
……ぶちぶち。
こいつは、こいつは、何故その外見の美しさの数十分の一でも、内面にまわして生まれてこなかったのだろうか!?
泣きそうにもなっていたのだが――もう、すっかり吹っ飛んだ。怒りが脳内を占めてしまいましたよあたしは。
「馬鹿でどうもすみませんでしたっ!」
怒鳴って立ち上がると、瞬間休憩室に笑い声が上がる。
「うひゃーっ、新人さんつえー!」
「うーえーだー、あんま新人の子いじめんなよー」
先輩たちの数人が、けらけら笑いながら口々に言う。だが奴はしれっと、
「いじめてない。楽しんでるだけだ」
自分ひとりだけが楽しんで、相手に不快感を与える一方的な行為を、世間様一般ではいじめというのだ。覚えとけこのやろう。
その日のバイト帰り、何故か奴と数人の先輩と一緒に帰る羽目になってしまった。
内心『ありえない』を一千回くらい呟きながら帰宅した。
しかし奴は……友達と話しているときにすら笑わないのだから、おかしな奴である。
ちなみに、本日のバイト先での失敗は前述したのを含め三件。
『お前の脳みその記憶容量、明日までに増やしておけ馬鹿新人!』
という怒鳴りを帰りに受けた。
ああもう。とっとと辞めようかなこのバイト……
「どうぞー、奥のお席からお掛けください」
乗り物に客を案内しながら、そんなことを言う。ひとつの乗り物に九人が乗れる。九人分の安全バーを係員二人でおろす。
出来るだけ早くしないと、乗り物がつまったりしていろいろ問題が起きる。笑顔の裏で、かなり必死なのが実情だったりする。あたしは笑っちゃいないけど。
荷物が挟まらないように安全バーを下ろし、荷物は手で持ってくれと話し掛け、いざ乗り物が出発。 と、その時だった。
「停止ッ!」
前にいたもうひとりの係員が、そう叫んで片手を上げた。
非常停止の合図だ。
一瞬パニックになる。乗り物はもう動いてる、何かが起きたので停止しろということだ。それはあたしがしなければならない。停止ボタンは、今このコントロールパネルにある。
ええと、なんだっけ、どうすればいいんだっけ!?
たしか、停止には二種類あった。一瞬だけ乗り物が止まるのと、このアトラクションの機能を全部半時間程度停止させるもの。非常停止と緊急停止だ。
ほとんどは前者で済ませるのだが、よっぽどのとき――乗り物から人が落ちたとかそういうのだ――に後者用のボタンもある。
この場合は、前者のはずだ。
あたしは慌てて手元にあった紅いボタンを押した。
ウィン……
――え?
ふいに、軽快に流れていた音楽が途切れた。
普段付くはずのない、作業用ランプが明々とついた。
乗り物も、問答無用で止まる。
――え?
「新人!」
ふいに聞こえた鋭い声に、思わずびくりと体を振るわせる。
奴だ。
「停止かかったのか。どっちのボタンを押した?」
「あ……あの……」
びくびくしながら、押した紅いボタンを指さす。奴は顔をしかめると、
「そっちは緊急停止だ。通常の非常停止にはオレンジのボタン。教えたはずだ。普段は絶対に押すなってな」
……あ……!
言われて、思い出す。そうだ。こっちは緊急停止。
乗り物だけでなく、このアトラクションの全機能が半時間ほどストップする。
そのとき、アナウンスが流れた。
「お客様にお願い申し上げます。ただいま安全装置作動のため、アトラクションの運営を一時中断させていただいております。大変申し訳御座いませんが、しばらくそのままでお待ちください」
客のざわめきが広がる。乗り場にいた何人もの係員が状況を一瞬で判断すると、口々に謝る。アナウンスの内容を繰り返し、大変申し訳御座いませんと頭を下げてまわる。
それでも客はざわめき、中にはあからさまな毒を吐く人もいる。
「ふざけんなよ! 百二十分待ちだぞ!」
「申し訳御座いません、ただいま係員が作業をしておりますので、もうしばらくお待ちください」
奴が簡素な口調で言い、丁寧に頭を下げた。
百二十分待ち。
百二十分待ちだったのか、今は。
その客の足を、まるまる半時間は止めることになる。
百二十分まっても、このアトラクションに乗ることを選んでくれたのだ。
きっと楽しみにしていただろう。
その客の足を、まるまる半時間はその場に止めることになるのだ。
あたしのせいだ。
大失敗だ。
今までやってきたミスもミスだが、これ以上はないという大失敗だ。
アトラクションの運営が出来ない。まわりの同期生や先輩たちが、謝りまくっている。
再度アナウンスが流れた。
自分のやらかしたことに、思わず泣き出しそうになってしまった。
「泣くな」
奴の簡素な声が、頭上から降ってくる。
「客がいる、泣くなよ」
唇を引き結び、こくんと頷く。
客の怒鳴り声に目をやると、同期の――そうだ、あの時慰めてくれたあの子が必死に謝っている姿が目にはいった。
ごめん。ごめんなさい。
あたしのせいだ。
目じりに涙が浮かんでくる。
客に謝り、他の係員に指示を与えていた奴が、あたしの様子に気付いてやってきた。
「……泣くなといったはずだが?」
「……ゎかって、ます」
それでも、やはりどうにもならない。
自責の念が膨らんでくる。
「川上さん、大丈夫だからね」
客に謝っていた先輩が、ふと優しい笑顔でそう言ってきてくれた。
それが辛い。
どうせなら罵ってくれたほうが気が楽になるのに。
奴が、ふと溜息をついた。
「新人。邪魔だ、休憩室に戻ってろ」
あたしは首を横に振った。あたしがここにいてもどうしようもないことは判っている。
けれどこの状況はあたしが招いたことだ。ここにいる責任がある。
だが、奴ははっきりといった。
「邪魔だ。休憩室に戻ってろ。客の前で泣かれたら面倒だ」
「上田君、そういう言い方はないよ。……川上さん。大丈夫だから、ね。戻って顔洗っておいでよ」
先輩にもそういわれ、あたしは自分が本当に邪魔でしかないことを思い知らされる。
無理やり首を縦に振り、あたしはその場から逃げ出すように休憩室へ戻った。
休憩室には誰もいなかった。
休憩時間は順番に回ってくるので、誰もいないはずはないのだが、このときばかりは違った。
アトラクションの運営がとまっている間は、誰も休憩を取ることは出来ないのだ。
外に出て、アトラクションの運営が止まっているということを説明して、客に謝り、客が新たに入ってこないようにしなければならないからだ。
そのため、このバイトの少ない休憩時間返上で、みんな外にいる。
あたしのせいで。
ぼろぼろと涙がこぼれてきて、帽子を握ったままあたしは泣いた。
しばらくして、アトラクションの運営は通常どおりに再開された。
そうして何人かの係員が、口々に愚痴を言いながら休憩室に戻ってきた。
「あーもう、あたしすっごい客に怒鳴られたよ。なにあのおっさん」
「仕方ないって。って、あれ? 川上さん?」
ひとりがあたしに目を留め、ギョッとした顔をした。
「どうしたの? なに、客に何か言われた!? 大丈夫?」
違う、とあたしは必死で首をふる。
係員も、さっきの『安全装置作動によるアトラクション運営一時中断』がどういう経緯で起こったのかは知らされないのだ。
あたしのせいだと、誰も知らないのだ。
知っているのは奴をふくめ、場を仕切っていた先輩たちだけ。一般の係員には知らされないのだ。
あたしのせいなのだ。それを言いたかった。でも、言えるほど強くなかった。
なんでもないです、と首をふる。
「大丈夫? 何言われたのか知らないけど、あんまり気にしちゃダメだよ?」
違う、違うんです。
言えなくて、そんな風に優しくされることが痛すぎて、またぼろぼろと涙がこぼれてくる。
係員が徐々に戻ってきて、休憩室の人口密度が多くなればなるほど、大丈夫かと声をかけて慰めてくれる人も増える。
その場にいることに絶えられなくなって、あたしは休憩室からまた逃げ出した。
休憩室を出て、アトラクションの裏にまわる。
ここは、喫煙所とトイレと自動販売機があるもうひとつの休憩所みたいなものだ。外にあるので、やや肌寒く、人は少ない。幸いにして、今は誰もいなかった。
喫煙所の椅子に座り、おおきな溜息をつく。
泣いちゃいられない。すぐにでも戻らなければならないのだ。後十分程度だろうか。
その時、ふいに声が聞こえた。
「新人」
奴だ。また、怒鳴られる。でも――それがいいかもしれない。
今日怒鳴られて、明日にでもこのバイトは辞めよう。あわない。
顔を上げる。
「……はい」
「甘いコーヒーは飲めるか?」
……は?
予想していたのとは全く違う唐突な言葉に、あたしは目を白黒させた。
「……はぁ、飲めます、けど」
「じゃあ、これ飲め。間違った」
「……は?」
「俺はブラック専門なんだ。間違ってへんなのがでてきた」
そういって、無造作に缶コーヒーをあたしの手に握らせてくる。
それから自分の分のブラックコーヒーを買いなおして、あたしの目の前に座った。
「ああ、俺は優しいから、金は要らん。安心しろ」
「……ありがとうございます」
とりあえず、御礼を言っておく。優しいとはよくいえたものだな。それにたかだが百二十円じゃないか。
……百二十、か。ちょうどあのときの待ち時間と同じだ。
奴はジョージアを飲みながら、相変わらず簡素な口調で、
「ゲートで人をはさんで、グルーピング間違えて、今度は緊急停止か。いろいろやらかすな、新人」
「……ごめんなさい」
うなだれる。怒鳴られるだろう、この直後に。奴はいつも、皮肉を言ってから怒鳴るという経緯を辿る。
だが――
三分が過ぎても、奴は怒鳴ってこなかった。
「……怒鳴らないんですか?」
恐々と、訊いてみる。
「怒鳴ってほしいなら、いくらでも怒鳴ってやろうか?」
「……遠慮しときます」
へこみすぎるほどへこんでいるのだ。もう少し浮上してから怒鳴ってほしい。
「気にするな」
……!?
思わず我が耳を疑った。ギョッと顔を上げ、奴の顔を見る。
奴は平然と肩をすくめる。
「俺もやったことがある。このバイトについた直後にな」
………………絶句。
文字通り息を飲んだあたしの頭を、奴は無造作にぽんぽんと叩いた。
「俺はいつも怒鳴るけど、怒鳴ったらお前は同じ失敗はしないだろ。だから怒鳴るだけだ」
……たしかに、一度怒鳴られたことはもう同じ失敗はしていなかった。そういえば。
「今回は、怒鳴る必要もなさそうだからな。もうしないだろう?」
「……しません」
「だったら怒鳴るだけ無駄働きだ、俺にとってな。だから怒鳴らん。面倒くさいし」
「……はぁ」
結局面倒くさいのが理由なのだろうか。
「ま、同じ失敗だから見逃す」
それも理由か。結構都合のいいトレーナーだ。
なんだかばかばかしくなって、思わず泣いていたのを忘れそうになった。
手の中の冷たい缶コーヒーを見下ろして、ふと、思った。
もしかして、間違えたのではなくて、わざわざ買ってくれたのではないだろうか、と。
怒鳴るしかなかったのに、こんな風に慰めてくれているのだ。
奴が。
あの優しさの欠片もなかった奴が、わざわざ慰めてくれているのだ。
これも、そうじゃないのだろうか。
そう思うと――こいつも結構、不器用なのかもしれない。あたしと同じで。
苦笑がもれた。
あたしは奴を嫌っていたが、それはもしかして同族嫌悪という奴だったのかもしれない。
「なんだ、笑えるのか、新人」
あたしの表情の変化に気付いたのだろう、奴が心底意外そうな声で言う。
「……どういう意味ですか、それ」
「笑うための表情筋が欠落しているのだと思ってた。いつも無愛想だからな」
「……それは貴方にだけは言われたくないです」
「客商売だというのに、お前はいつ怖い顔をしているからな」
「だから。それは貴方にだけは言われたくないです」
怖い顔の代名詞はあんただと思う、あたしは。
奴は空になった缶を捨てると、立ち上がって頭をかいた。
「たく。お前は……口が減らないな」
それは認める。
あたしも立ち上がって、空き缶を同じようにゴミ箱に捨てる。
奴はすたすたと歩いていく。
あたしもなんとなくその後ろを追って歩き出す。
「浮上したか、新人?」
「……はい」
相変わらずな淡白な口調。だが、やっぱりそうだ。慰めてくれたのだ。
なんだ……結構いい奴じゃないか。
「単純だな、新人。缶コーヒー一本でかたがつくとは楽な奴だ」
「放っておいてください。それに新人じゃなくて、あたしの名前は川上です」
相変わらずの減らず口を叩きながら歩いていると、こつんと頭に軽い衝撃。奴が小突いたのだ。
「減らず口が多すぎるぞ、川上」
その時あたしははじめてみた。
奴が笑ってる。
ちょっと不気味だったが――まぁ、なんだ。認めよう、格好良い。
「……上田さんこそ、笑えたんですね。てっきり表情筋が欠落しているのかと思っていましたけど」
「俺の笑顔は貴重だ。大事にとって置け」
「はいはい、そうさせていただきます」
軽口を叩いて、あたしは奴を追い越した。
振り向かれたら困ったのだ。何せ、あたしの顔は――自分では見えないが、たぶん赤くなっていると思うから。
ちくしょう。ちくしょう。なんて顔をしやがるのだ。
ああくそう、明日にも辞めようと思っていたのに、辞められそうにもないじゃないか。
そんな顔をしないでほしい。心臓が落ち着かなくなるじゃないか。
振り向いた奴の笑顔が、ぎゅっと閉じたまぶたの裏にしっかりと焼きついていた。
言われなくても、大事にとっておこう。
その貴重な笑顔があたしに向けられたものだという事実も、大事にとっておこう。
春の日差しがぽかぽかと、暖かかった。
そして今日も、奴は相変わらずの無表情で客の対応をしている。
あたしも笑えないまま客の対応をしている。
「こんにちはー、どうぞー」
先輩は笑顔で客の対応をしている。
奴が隣にやってきて、客には聞こえないくらいの声で言ってくる。
「相変わらず無愛想だな、川上」
「お互い様です。上田さん」
奴の笑顔という非常に貴重な宝物があたしには出来たので、どうやらこのバイトもしばらく続けられそうだ。
友人たちとの賭けにも勝てるだろう。
ついでだから、もう一つ賭けをしてみるのも楽しいかもしれない。
果たしてあたしは、今隣で小突いてくるこの無愛想男の笑顔を、いつも隣で見れる日が来るだろうか。
この賭けには、負けたくないものだ。
とりあえずの第一歩として、あたしは奴に言ってみた。
「上田さん、今日バイトあがったら、どっか行きませんか?」
――Fin
参照作品 『不機嫌な娘の構い方』
リクエスト「バイト内恋愛」より。