花のように咲き、そして花のように散れ。

 ――其れが、母から最初に賜った教え。



 赤が、眼に沁みた。
 其れは紅の色でもある。戦装束に身を包むとき、女は必ず紅を引いた。其れが戦の証であり、女の証であった。そして、誇りであった。
 鵜族。
 数多の人種、部族が入り乱れるこの国の中においても鵜族は数が少なく、また特異であった。乱世を生き抜く部族の中、ただ唯一と言って良いであろう――女が戦場に赴くのである。戦を仕切り、勝利を収めるのは女の仕事であり、役割であった。家は、男が守る。
 そも、鵜族は決して戦を好む部族ではない。寧ろ、集落や他部族とは関わりを持たぬのが常である。その鵜族が戦に赴くというのは平常ではないという事だ。
 乱世である。
 かつての帝は崩御し、新帝もまた命を狙われている。王室を守ろうと働く力もあれば、それを討とうとする力もある。民は宗教に溺れ、宗教はまた新たな災いを呼び、民は疲弊し、土地は腐る。目まぐるしいほどの速さで、州は人から人の手へと渡り行く。腐った土地は、幾十万もの兵の血を吸っていく。そんな時代だ。しかし、常、華州の東側にある鵜山でのみ暮らす鵜族が戦う理由は、一つである。
 鵜山を守ること。
 鵜山は鵜族における大いなる母で、父であった。鵜山は鵜族にとって誇りであった。誇りを尊ぶこと。鵜族の者ならば赤子でも知っている。
 譲れぬものがあると、母が良く口にした。
 譲れぬものは三つ。
 ――鵜山と、お前と、そして誇りだ。
 鵜族として譲れぬもの。母として譲れぬもの。女として譲れぬもの。
 かつて母の繰り返した言葉を胸中で繰り返した。譲れぬもの。それは、鵜族の女ならば、生まれてから死ぬまで、抱き続けるものだ。
 蓮花はつと瞼をあけた。
 赤く燃ゆる視界は、やがて全てを飲み込まんとしている。
 山焼きである。
 長年危うい関係を保っていた応灯軍が攻めてきたのだ。華州を擁していた応灯軍にとって鵜族はなるほど目障りな存在であったろう。軍を出してきたところで、一万や二万程度では鵜族はどうにもならないだろう。剣を佩かぬ代わりに、鵜族の女は身軽で、鵜山を知り尽くしている。山間を駆け、散り、そして音もなく背後に忍び寄り小刀で敵の命を絶つ。だからといって大群で押し寄せて来たくとも、華州は他の大州と常に向き合っている。応灯軍にそれだけの余力はないのだ。
 だからこその山焼きと言えた。
 炎は赤々と燃え上がり、山を焼いていく。爆ぜる樹の音の中、小動物の声はもうしない。
「愚かな事よ」
 呟いた。哀しみとも憤りともつかぬ揺らぎが、心中深くにたゆたっていた。愚かな事よ。蓮花は再度呟いた。確かにこうすれば、鵜族は滅びるであろう。だが、自らの領地であり、国の中でも神霊山のうち一つとも数えられる鵜山を焼くとは、愚の骨頂であった。
「応灯よ。鵜を焼くか。鵜を滅ぼすか、その手で」
 炎の揺らぎは東風に煽られ、蓮花の髪を焼いていく。焼けた匂いが鼻につき、蓮花は頭をふった。迷いも、問いも、今は必要ない。
 譲れぬものがある。そのために、戦ってきた。
 十八で子を生した。女児はそろそろ五つになる。初めに鵜族の長である蓮花の家に火矢が投げられ、炎は瞬時に家屋を包み込んだ。騒ぎの中、子とは逸れた。蓮凛よ。生きていてくれ。蓮花は繰り返し叫んだ。しかし、凛は死んでいた。
 逃げ出した最中に、矢で打たれたようだった。そして、炎に呑まれた。
 焦げた死体では顔は判別つけられなかったが、それでもその小さな手を握れば、蓮凛であるとすぐに知れた。
 炎が眼に沁みる。
 山焼きの中、応灯の部隊が鵜山を駆け回っている。鵜山の悲鳴が聞こえた気がした。ざわめきは戦の声だ。
「私を滅ぼすか。応灯よ。鵜を滅ぼすか。私を滅ぼすか、応灯よ」
 叫んだ。かすれた叫びに、肺は悲鳴を上げた。幾度か、敵に見つかった。その度に逃げた。傷を負った。流れ出る血は、炎より赤い。それでも、逃げた。鵜は滅びたか。その言葉が蘇るたび、蓮花は否を唱えた。
 滅びぬ。私は滅びぬ。
 滅びとは何ぞ。死することか。否、譲れぬものを譲ること。其れが滅びだ。ならば鵜は滅びぬ。私も滅びぬ。譲れぬことは三つ。鵜山と、子と、誇り。しかし蓮凛は失った。
 声がした。
 足は知らずに止まっていた。炎の赤は、ここまでは押し寄せてきていない。風向きが違った。鵜山の中の、湖。足が勝手に、ここに向かっていた。
 声がした。
 幻聴ではなかった。不意に蓮花は泣きたくなった。だから、笑った。
「久しいな、蓮花」
 湖の向こう、赤く燃ゆる鵜山の木々を背に、男は立っていた。蓮花は目を細めた。同齢であった。最後に見たときの少年の素振りは、どこからも感じられなかった。当然だ。心の中で誰かが告げた。この乱世を生き抜いてきた男だ。少年のままであり続けられたわけがない。其れは恐らく、自らも同じであった。
「久しいな、応灯」
 口をついた言葉は、妙に優しく響いた。
「美しくなった、蓮花。見違えたぞ」
「おぬしはいささか、老け込んだな」
「そういうところは変わらぬな」
 応灯が笑った。つられて、蓮花も笑った。そして、泣いた。
「鵜を焼いたか、応灯」
「ああ、焼いた」
「何故だ」
「分からぬか?」
 分かっているであろうと、応灯が微笑む。吐息が、炎風に混じった。
「鵜は、お前を奪っていった」
 熱い。蓮花は思った。言葉は憎しみを帯びていて熱いのか、それともこれは、炎の熱さなのか。鵜が滅びていこうとする、その熱さなのか。
「忘れたか、蓮花。この湖で共に遊んだ日の事を」
 遠すぎる過去だ。それはあまりにも遠すぎた過去だ。乱世が始まる前のことだ。その事を思い出せぬ民も、もう多いだろう。
 応灯は其れを未だに、覚えている。
「十二のとき、お前は私の元から姿を消した。私はこの地に足を踏み入れることが許されなくなった」
「乱世だ」
 初潮が始まれば、鵜族の子供は女になる。女になるということは、戦場に赴くということだ。その頃すでに関係が危うかった応家の長子である灯と共にいられなくなったのは、理だった。
「乱世は、終わるかな。蓮花」
「分からぬ」
「そうだな。しかし、私は終わらせようと思う」
 応灯が微笑んだ。ゆっくりとこちらに歩んでくる。その様を見ても、蓮花は動くことが出来なかった。傷のせいか。それ以外のせいか。
「蓮花よ」
 応灯の手が、頬に触れた。
 炎はもう、すぐ傍まで迫っていた。
「嫁に来ぬか、蓮花よ」
「奇妙しなことを言う男だ」
「そうでもあるまい」
「奇妙でなくてどうだというのだ。おぬしは応家の長子。私は蓮家の、鵜の長であるぞ」
「それは少し、違うな。私は灯であり、お前は花である。それだけでは、いくまいか」
「乱世だ、応灯」
「そうか」
 応灯の手が頬を放れた。
 不意に、蓮花は紅を意識した。戦装束に身を包み、最後に引く女の証。炎と同じ、燃ゆる赤。血潮と同じ、流るる赤。それは、蓮花の女の部分の疼きであった。
「応灯」
 疼きを意志で押さえ込み、蓮花は顔を上げた。目前にある応灯の顔は、少年期の其れとは程遠い。それでもその目には、確かに見覚えがあった。


 ――蓮花。大人になったら、嫁に来い。
 ――応灯が、私の認める男となるならば。
 ――認められる男となろう。必ず、そうなろう。
 ――約束だな、応灯。
 ――ああ。約束だ。蓮花。だから、必ず、嫁に来いよ。


 あの頃、戯れで交わした偽の婚礼の儀が、今になって内耳を揺さぶっていた。
 譲れぬもの。
 蓮花は胸中で繰り返した。
 母から受け継がれたもの。その母もまた、母から受け継がれたもの。鵜山が、鵜族にもたらして来たもの。それを、忘れるわけにはいかなかった。
「私には、譲れぬものがある」
「譲れぬものとは?」
「三つ」
「それは?」
「鵜山、我が子、そして誇りだ」
 湖が揺れた。紅に染まりかえった湖に、月が揺れている。風が押し寄せてきている。この湖も、間もなく炎に呑まれるであろう。長くは持たない。
「なるほど、鵜はおぬしから私を奪ったのかも知れぬ。だが、おぬしは私から、鵜を奪い、子を奪った」
 誇りは、まだ、消えてはいない。
 収めていた小刀を抜いた。応灯が深く微笑んだ。視界が揺らぐのは、炎のせいか、涙のせいか。
「誇りは、譲らぬ」
 呟いた。
 そして蓮花は、自らの腹に刀を刺した。





 赤が眼に沁みた。
 倒れる痛みはなかった。受け止めてくれる腕があった。遠く、ざわめきが聴こえた。だが、遠い。酷く眠かった。
「応灯よ」
 自らを抱き、地に座り込む男に、蓮花は口を開いた。風の音が、言葉に強く混じった。
「逃げよ。ここはすぐに、炎に包まれる」
「蓮花。私にも、譲れぬものがある」
 視界が閉ざされた。応灯が瞼を伏せさせたのだ。
 熱いはずなのに、寒気を覚えた。
「譲れぬものとは?」
「ひとつ」
「それは?」
 唇にぬくもりが触れた。
「お前だ」





 ――花のように生きよと母は言った。
 花のように咲き、そして散れと。其れが鵜族の女たるものぞと。
 永久の眠りに着くこの瞬間になっても、母の言葉は未だ遠く、手に届かないものに思えた。花の様に生きよと願ってつけられた名前は、それでも蓮花の誇りであった。
 瞼を開けた。
 眼前炎が揺れていた。湖があった。月が揺れていた。湖には自らから流れ出た命が赤々とした斑紋を浮かべていた。
 瞼を下ろした。
 湖の中揺れる血の紅が、瞼にこびりついていた。

 花のようだと、蓮花は思った。



――終――




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「覆面作家企画 わたしはだあれ?」提出作品。テーマは『花』
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