シュウさんと出逢った頃のあたしにとって、
 世界はとても窮屈なものに思えていた。
 その中でもがきながら生きていたあたしは、
 息をすることすら時々苦しかったんだ。


 シュウさんはあたしをそこから救い出してくれた、あたしの恩人だ。






 その日あたしの足を止めたのは、安い画用紙の中で咲くたんぽぽの鮮やかな黄色だった。
 通学路の脇にある噴水がある大きな公園で、ホームレスのおじさんが沢山いるような場所だ。実際、その絵を売っていたおじさんもホームレスの一人だった。自作の絵を売って多少でもお金を入れようとしているんだろう。その絵はキャンバスに描かれたものでもなくて、ただの安い画用紙だったせいで水を含んで少しぼこぼこになっていた。だけど、あたしの足を止めるだけの効果はあったんだ。
 不思議と魅力的な絵だった。
 取り立てて上手いってわけじゃない。寧ろすごく抽象的で、上手いとか下手とかよく判らない代物だった。幾重にも色が重なり合った青空の中で、輪郭のない鮮やかな黄色が、何とかたんぽぽだって判る程度に描かれている、そんな絵。絵の端っこに『Syuu』ってサインがある、ただそれだけの絵。
 だけど、魅力的だった。
 青空の中に花びらを咲かせているたんぽぽ。何にも覆われていなくて、囲われていなくて、ただたんぽぽであるという事だけに誇りを持っているような、そんな絵だった。
「気に入りましたか?」
 じっと見つめ続けていたあたしにそう声をかけてきたのは、絵を広げているおじさんだった。あたしはその声にはっとして顔を上げた。
 子犬みたいな顔をしたタレ目のおじさんが、優しそうな目であたしを見つめていた。
 ぼろぼろの服に、頭に巻いたタオル。無精ひげも生えていたし、とても小奇麗とはいえない格好で、だけどそのタレた目はまるでその日の春空みたいに澄んでいたんだ。
 それが、シュウさんとの出会いだった。
「良かったら、差し上げますよ。あなたみたいなお嬢さんに気に入って貰えたら、こいつだって本望でしょう」
「え、でも……」
 その絵の横には『200円』と書いてある。
「いいんですよ。絵はね、気に入ってもらえる人の元へ行くのが一番いい。それにご覧の通り、私はホームレスでお金は元からあんまり必要としていませんからねぇ」
 屈託のない笑顔で笑うその人につられて、あたしも少しだけ頬を緩めていた。通学鞄から財布を取り出して、百円玉を二枚おじさんに渡した。
「買います、これ」
「ああ、別にいいのに」
「だって、気に入ったから。ちゃんと買いたいんです」
 あたしの言葉に、おじさんはくすぐったそうに苦笑して、それから隣にあった紫の花の絵を一緒に渡してくれた。
「え?」
「オオイヌノフグリです。好きですか?」
「え、あ。はい」
 道端に咲いている小指の先くらいの小さな花だ。
 頷いたあたしに嬉しそうに笑いかけて、おじさんは言った。
「差し上げます。これは、サービス」
「でも」
「嬉しいから、貰ってもらいたいんですよ」
 さっきのあたしの言葉を逆にしたようなおじさんの言葉に、あたしは答える術を見つけられなくて一瞬口ごもった。
「私ね、絵を描くのが好きなんですよ。でも上手いわけじゃあないですからねぇ。あなたみたいにじっと見てくれた人は初めてなんですよ。だから、感謝の気持ちです」
 はにかむように笑うおじさんの笑顔に負けて、あたしはお礼を言って家路に着いた。
 両手に鮮やかに咲く、黄色と紫の花を抱えて。





 自室の勉強机の前に飾ったその絵は、すごく自由だった。
 何にも囚われてない花だった。鮮やかで眩しくて。少しだけ妬ましいほどだった。
 その頃のあたしにとって、その絵が泣きそうに羨ましかったのは、単純にあたしが正反対の環境にいたからだ。
 窮屈でつまらない、日常という鎖に囚われていたからだ。
 一年後の受験とか、数学とか英語とか、そういうものだけがあたしの中の世界で、酷く息苦しくて、それはまるで夜というトンネルの中に放り込まれて出口の光を探し出せない状況に良く似ていた。
 だから、その花が羨ましかったんだと思う。
 花の輪郭すら無視するように時折はみ出ていて、でも何よりも鮮やかな色を見せつけてくるその花が。
 二次関数の問題が書かれたノートに頬杖をついて、あたしはその晩中ただじっと、その二枚の絵を見続けていた。
 トンネルの出口は相変わらず見えなかったけれど、非常灯か何かみたいに少しだけ、周りを明るくしてくれたように思えた。




 その日からほぼ毎日、あたしはおじさんに会いに行った。
 それは鎖に囚われながら出来る、あたしの唯一の自由だったんだ。





「こんにちは、シュウさん」
「ああ、こんにちは」
 おじさんの名前はシュウさんだった。サインにある名前、そのまま。とはいってもそれが本名なのかペンネームなのか、さらに言えば苗字なのか名前なのか、あたしは知らなかった。でも、別にそれで良かった。あたしだってシュウさんに名前は教えていなかった。
 おじさんはおじさんで、たとえば名前がいきなりアフロ謙三とか魔女ゴンザブロウとか訳が判らないものになったとしたって、何が変わるっていうもんじゃなかった。年齢とかも同じだから、あたしは聞かなかった。シュウさんも、あたしの名前とか年齢とかは聞いてこなかった。それがなんだかとても心地良かった。
 高峰あずさ、って名前のあたしだと窮屈な制服とローファーで学校に通うイメージしかもう湧かない。だけどシュウさんの前のあたしは全然そんなことがなくて、まっさらだった。まっさらでいられた。だから、名前を言いたくなかった。シュウさんにとってあたしがラムネ一番子だろうとミスダイナマイトだろうと、きっと同じであると思いたかった。あたしはあたしで、シュウさんの絵が好きな女子中学生、それでいいと思ってた。ただそれだけであってほしかった。
「今日は何を描いてるんですか?」
「ニリンソウです。可愛いですよね。この公園は、本当に花が沢山で綺麗です。いい季節になりましたしね」
 シュウさんはおじさんなのに、おじさんらしくなかった。ホームレスなのにあんまりホームレスらしくなかった。社会に対する恨みとか敵対心とか、一切抱いているように思えなかった。いつもにこにこしていて、穏やかだった。洋服は汚かったけれど、それでやっぱり汗と土と埃くさかったけれど、あんまり気にならなかった。シュウさんからは、そんな匂いより花の香りが漂ってる気がしていた。シュウさんはすごく、花みたいな人だった。それから、春みたいな人だった。
「シュウさんいつも、野草ばっかりだね。バラとか描かないの?」
 一度だけ訊ねてみたことがある。シュウさんはいたずらっぽい笑みを浮かべて答えてくれた。
「好きじゃないんです。そういう人の手がかかった花は、あんまり。お嬢ちゃんは、たんぽぽとバラとどっちが綺麗だと思いますか?」
 たんぽぽだった。
 バラは確かにとても綺麗だけれど、シュウさんの言うとおりだった。人の手によって美しくあれと育てられた、ルールの上で咲くことがほとんどだった。たんぽぽは違った。ひっこぬいてもひっこぬいても、バカみたいに太い根を張ってどうどうと、ただ咲いている。自由の花だった。
「花はね、一瞬咲いて枯れていきます。儚いものです。だけど、美しい。ただ一瞬咲いて儚く散っていく花ですら、どうして自由でいちゃいけない理由があるというんでしょうね。バラだって、いびつに咲いたっていいんです。私はそういう花が好きですね」
 私が見ている隣で、シュウさんはにこにこしながらえんぴつを走らせていく。でもそれはあんまり下書きとかしっかりしてなくて、思いついたまま線を走らせてるみたいだった。美術の先生が見たら、いい顔はしないだろうなぁと思う。だけどシュウさんはそんなのかまいっこなしで愛らしい花を描いていく。下書きに飽きたら、途中でも絵の具に手を伸ばすし、絵の具が乾かないうちにまたえんぴつを持ち直すことだってある。時々まったく下書きなく描き始めたりする。一番驚いたのは、絵の具で下書きしたあとにえんぴつで影を入れ始めたときだ。シュウさんの絵にはルールがなかった。
「何でそういう描き方するの?」
 一度だけ訊ねたことがある。シュウさんはちょっとだけ困ったような笑顔で答えてくれた。
「私がこうしたいから、です」

 私がこうしたいからです。

 その言葉はなんだかとてもきらきらしていて、トンネルの中のあたしを真っ直ぐ照らし出してくれた気がした。シュウさんの描いた花が沢山つまっているルールのない花かごに埋められるみたいな、そんな気分がした。ふわふわして、とても眩しくて、花の香りが酔いそうなほどに肺を満たしてくれて、ゆらゆらゆれる揺り籠みたいな、そんな言葉だった。
 シュウさんはいいな。ルールのない世界で生きれて。
 シュウさんと逢って二週間もする頃には、あたしはそう考えるようになっていた。私がこうしたいからです。シュウさんの言葉は魔法みたいにきらきらしていた。
 あたしは何がしたいんだろう。どうしたいんだろう。
 そう考えながら、でも結局息詰まるような日常をローファーをはいて歩いていた。





 その日、つまらないことで父さんと喧嘩した。
 つまらないことだった。
 学校でやってる英語の自主補講に出てないことがばれた、それだけだった。
 ――自主補講のクラスに、あたしは一年の頃から毎回出ていた。それは父さんの希望でもあったんだ。
 あたしが成績良くなることが、父さんは嬉しかったらしい。それで、いっぱい勉強していい高校に入ってほしかったらしい。あたしはそれを知っていたし、反論する理由も特になかったから今まではそうしていた。
 でも、解せなくなっていた。
 あたしにとって、自主補講のクラスに出るよりシュウさんが絵を描く隣にいるほうが大切だって思ったから、それを選んだのに。
 父さんは理由も何も聞かないで、あたしを叱った。
 それが解せなかった。
 あたしがこうしたかったから、それをしたのに。
 どうして。
 たまった鬱憤を叩きつけるように叫んで、あたしは家を飛び出していた。





 夜の公園は、噴水がライトアップされていてとても綺麗だった。
 どうしてここに来たのかは判らない。ただ、気付くとあの花の香りに誘われるみたいにあたしは公園に来ていた。シュウさんの絵の、甘い香り。もちろん絵からは本当に香りが漂ってくるわけじゃないけれど、でも確かに体中を優しく満たしてくれる香りがあって、あたしはそれを求めていた。あるいはその香りは、シュウさん自身のぬくもりだったのかもしれない。
 でも、シュウさんはいなかった。
 ――公園に張られたいくつものテントをざっと一瞥して、あたしは息を吐いた。
 バカみたいだ。あたし。
 シュウさんはいつもこの噴水の近くで絵を描いているけれど、寝る場所はどこかは知らない。それにこんな時間にシュウさんに会ってどうしようというんだろう。判らなかった。でも、逢いたかった。
 息詰まる世界から、救い出してほしかった。
 あたしはまだトンネルの中だった。トンネルの中から、シュウさんのふわふわした光を見上げているだけに過ぎなかった。両手両足は鎖につながれていて、結局身動きは取れなかった。こんな簡単なバカなことですら、父さんに上手く伝えられなかった。
 私がこうしたいからです。
 シュウさんの魔法の言葉にゆらゆら揺られているだけなら良かった。あの花が詰まったゆりかごの中で眠っていられるだけなら良かった。でも、あたしは両手両足を鎖に繋がれたままだから、その言葉の中でゆらゆらゆれることは本当は出来ていなかったのかもしれない。
 シュウさんは自由だ。
 シュウさんの描く絵は自由だ。
 シュウさんの手で咲く花は自由だ。
 囲われてない。囚われてない。ルールなんてない。あるとすれば、ただひとつ。「私がこうしたいからです」それだけだ。
 辛いのかもしれない。本当はすごく辛いのかもしれない。痛いし、苦しいのかもしれない。だけど、自由だった。
 バラじゃなかった。
 シュウさんは、たんぽぽだった。オオイヌノフグリだった。ニリンソウだった。桜だった。自由に咲いて、そして多分そのうち枯れて散るような、儚い存在なのかもしれないけれど、でもとにかく、自由だった。あたしは人の手の中で咲かされるバラになろうとしていた。でもバラにもなりきれなくて、ただ息苦しくて、窮屈で。
 父さんにそう言いたかった。でもそれすら、出来なかった。
 さぁ――と音を立てる噴水の前にしゃがみ込んで、あたしはいつの間にか泣いていた。


「お嬢ちゃん?」
 

 びっくりしたような声が聞こえて、あたしははっと顔をあげた。
 ――シュウさんがいた。
 びしゃびしゃに濡れた頭のまま、驚いた顔であたしを見ていた。
「シュウさん……」
「どうしたんですか、こんな時間に」
 あわてたみたいにシュウさんがあたしを立たせてくれた。シュウさんだった。甘い香りがするような気がした。
「シュウさん」
 あたしは涙を誤魔化すみたいに、シュウさんの胸に顔を押し付けて抱きついた。
 シュウさんは、もう何も聞かなかった。
 暫くずっと、あたしの肩を支えてくれた。
 とくんとくんと聴こえる鼓動は、ゆりかごの音に似ていた。





 どれくらいそうしていたんだろう。
 暫くして、あたしは顔をあげた。穏やかな笑みを浮かべるシュウさんを見上げて、少しだけ笑った。
「シュウさん、頭びしゃびしゃ」
「髪を洗ってましたから」
「どこで?」
「噴水で、です」
 シュウさんの腕から離れて、あたしは噴水を見た。水がとてもきらきらしていた。
「寒くないの?」
 春とはいえ、夜は寒い。シュウさんは声を立てて笑った。
「寒いです。でも、気持ちいいですよ」
「……ふぅ、ん」
 シュウさんは大人らしくない。自由に咲く野草だから。
 ちょっとだけ、真似してみようかな。
 そう考えたとき、あたしは靴下を脱いで靴を脱いで、はだしになっていた。
「お嬢ちゃん?」
「ねぇ、シュウさん。自由になりたい、あたし」
 噴水に、素足で入った。
 水はとても冷たくて、凍えそうだった。
 でもとても、あたたかくあたしを迎えてくれた。
 それはとてもシュウさんと似ていた。
 水を蹴った。
 五本の指は自由に動いた。靴下にも靴にも覆われてなくて、自由だった。ああ、なんだ。すごく単純で簡単なことだった。
 シュウさんが笑った。
「いつだって、私たちは自由ですよ。花ですから」
「花」
「そうです。誰にも邪魔されません。自分で咲くためのルールさえあればね」
 自分で咲く為の自分のルール。
 その言葉は、今度は確かにトンネルの出口にある光だった。
 あたしはにっこり笑った。
 水を蹴って空を見上げた。
 さあ、と音を立てる噴水のしぶきを月光と一緒にすくう。


 もう、息苦しくなかった。


 ただ、野草みたいに咲こう――そう、思った。


 夜の公園には、シュウさんの甘い香りが漂っていた。


――Fin.


参照作品>>『キャットウォークでダンスして、』(長編・現代青春)

短編目次  キャットウォークでダンスして、目次












お題バトル参戦作品。
テーマは『花』 お題は『ゆりかご』『香り』『儚き(儚い)』『噴水』 制限時間は一時間半。で、ややオーヴァしました……。