詐欺師は声にをする


 たぶん今の俺の姿は傍から見ればものすごく阿呆だろうと思う。
 今年も残り二ヶ月を切った秋から冬へ移行するこの寒空の下、上着の一枚も引っ掛けずに携帯電話だけを握り締めて、寄り添うバカップルやら乳臭い女子高生どもやらを掻き分けて、イルミネーション溢れる夜の新宿をイノシシかくやの勢いで爆走しているのだから。
 ああ、そうだ。
 すごく阿呆に見えるだろう。
 もうひとつついでに言えばものすごくダサイ男に見えるだろう。
 だけど知ったことか。構うものか。阿呆に見るなら見ればいい。ダサいと笑うなら笑えばいい。あいにく俺は頭が悪い。他人様の価値観だのなんだのを空想する余裕すら今はない。
 ただ目的はひとつだけだ。
 ああ、そのためなら、どんな阿呆な真似だって恥ずかしくもなんともない。
 そもそもきっかけ自体が限りなく阿呆なのだから。
 だからどけどけホストども。
 そこをどけどけ客引きども。
 この阿呆な俺に道をあけろ。

 この阿呆に道をあけろ!





 詐欺師は声に
をする







 よし。
 オレオレ詐欺をしよう。


 そもそもの発端は、俺のそんなくそ阿呆な考えからだった。
 街中がなんだかよく判らんがオレンジ色に染まり始めた十月半ば、俺の脳みそはテンパれる限りテンパって、行き着いた結果がそれだった。
 いや待ってくれ。ちょっとだけ待ってくれ。
 何ももとから犯罪者になりたかったわけじゃあない。もちろんオレオレ詐欺が犯罪だってことは知っている。ンだがしかし、そのときの俺にはそれ以外方法が思いつかなかったのだ。
 まず第一に金がなかった。
 これは深刻だ。何せ世の中は金で出来ている。黄金の都エルドラドは滅びたらしいが、結局この東京だってぶっちゃけた話黄金の都だ。全てが金で回ってる。金がなけりゃ飯が食えない。飯が食えなきゃ生きていけない。なんてことだ。死活問題だ。金は大事だ。そも、家賃だのなんだのは文化が作り出した悪習のような気がしてならない。いいじゃねえか、大昔のように拳で殴り合って領地を確保すれば。しかしあれだ、東京は狭すぎる。人間がわらわらしてる。土地が足りないと拳も意味を成さない。だから金か。ああ、やっぱり金は大事だ。そうじゃない、話を戻そう。
 つまり、金は大事だって事だ。
 大事ってのはおおごとって読める。つまりそれだけ大きな事なんだ。おお、ちょっと俺偉っぽい。
 それが、ないわけだ。
 これは大変だ。非常事態ともいえた。何せそのときの俺の財布の中、全額あわせて48円。通帳残高117円。給料日まであと十日。ピンチだった。キャッシュカードは随分前に止められている。かなりピンチだった。家賃いい加減に払えよでないと追い出すぞこらあ電話が来てた。緊急だった。非常事態だった。崖っぷちだった。やってないことまで白状しそうな勢いで火サスのラストシーン並に追い詰められていた。超ピンチ。
 残されたのは携帯電話だった。
 携帯電話が止められていないのはほとんど奇跡だったが、そもそもあまり使わないのでなんとかなったのだった。つまりそれだけは生きていた。
 残された生き残るための鍵だった。
 携帯電話。
 これで。これで俺は明日を生き残らなければならなかった!
 で――
 思いついたのがそれだったのだ。

 オレオレ詐欺。





 携帯電話を握り締めて、深呼吸をすうはと二回。時は夜の十時。場所は自室のアパートの中。俺は部屋の真ん中で正座。
 いやまあ正直俺は小心者なわけでして。膝はがくがく指先ぶるぶる冷や汗だらだらとオノマトペに事欠かない情けない有様で。だったらやめりゃあよかったのに、カチカチカチカチ規則正しく響く時計の音に追い詰められていった俺はですね、ぐるぐる目ン玉まわしながらピポパ、と携帯のナンバーをプッシュしてしまったのですよ。
 見ず知らずの番号に。
 かかるか否か。
 繋がるかどうか。
 それすら賭けのような状態で。もはやどうでもいいが、この時点で詐欺とかじゃあないわけだ。下調べ、なし。後で思ったんだがたぶんこういうのって電話帳とかで一応はあたりをつけるもんじゃないのか、普通? 何も考えないで通じるか否かも天任せのこれは、詐欺というより小学生のイタズラ電話。
 ただしこの場合のイタズラは――
 ちょいと神様のイタズラだったのやもしれん。

 運任せ天任せ勢い任せの風任せ、俺の無理無茶無謀な鉄砲電話は、何故やらどこかへ通じてしまい、トゥルルと聞きなれた電子音が鼓膜を震わすこと数回。
 ぬぅあー! 通じてます通じてますどうする俺どうしよう俺激ピーンチ! いやピンチだからこんな阿呆な真似をしているわけではありますが。頭の中なんてこんな状態の一人漫才。ああ、言い忘れてたけど俺ってばクラスでひとりはいるような騒がし系ね。あれ、どうでもいい? ああそりゃ失敬。いやそんな場合じゃなくてですね!
 なんて頭の中でごちゃごちゃやってるうちに、聞きなれたトゥルルはぷちりときれて――
 繋がった。
 明日への道かあるいは牢屋への道が。
 

「おっ、オレですけどっ!?」


 …………。
 言うな。みなまで言うな。判ってる。俺だって判ってるんだ。いくらなんでも阿呆が過ぎたことくらい俺だって判ってる! だがちょっと褒めてくれ! 俺はあやうく「オレオレですけどっ」といいそうになったところを「オレ」を一回で止めたんだ! 些細過ぎることかもしれんが、俺的にはちょっと偉業なんだ!
 だがもう言っちゃったもんは後には引けん。続けて事故った(嘘)ってことをしゃべり倒そうとした俺が思いっきり息を吸ったとき――それは、聴こえてきた。
 女の、すすり泣く声。
 ……え、何? 幽霊電話?
 そんなことを思ったのは一瞬で、だけどそれは違うとすぐに知れた。受話器の向こう、通じた明日だか牢屋だかへの道の先、声を殺して女性が確かに――泣いている。
「あ、あの……?」
 すぐに切ればよかったんだ。というかそもそも、何故固定電話にかけずに携帯電話にかけたんだ俺は。その時点で何かもう色々間違っていたわけだが、つまりそれだけテンパっていたというわけだ。テンパりすぎている。冷静は情熱の間への一歩かどうかはよく判らんが、つまりだ、物事は常に冷静に考えなきゃいけないし問題にぶつかった時には冷静でいることがまず大事だ。たぶん古来のお偉いさん方もきっとそう言っている。よし、俺も名言を残そうじゃないか。冷静でいられる間はテンパることなんざない。冷静でいられる間はそれは問題じゃあないんだ、結局は。どうしようもない問題ってのは、冷静を失ってしまうもんなんだ。今の俺みたいに。
 そして冷静をかいた俺は、すすり泣く女の声に、思わず声をかけていた。
 …………。
 阿呆って言うな。知ってるから。
 ただ、女は泣かすなってのが死んだばあちゃんの遺言だったんだ。俺が泣かしたわけじゃあなくても、泣いてる女は放っておけない! 誰だそこでタラシとか言ってる奴は! 怒らないから名乗り出ろ。俺が泣いてやるから。……いやそうじゃなくて。
「どう、した……?」
 こわごわ、呼びかける。受話器の向こう、機械によって少しばかり変質した声はかすれた泣き声のままで、俺の鼓動は無駄に早打ちする。
「おい?」
『……えーいち……?』
「え、いや」
 反射的にそう返していた。ああ、なにやってんだ俺は。受話器の向こうの呼びかけは、男の名前で、しかしながらもちろん俺の名前ではなかった。かすれ声は一瞬の沈黙をはさんで、俺がその『えーいち』やらではないことに疑問を抱いたらしい。どこかぼんやりした口調のまま、言葉を再度投げてくる。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいばあちゃん。俺、詐欺師向いてない。マジで。もう無理。
『……誰?』
 問われて、固まる。
 名前を言うことは出来る! が、それはいくらなんでも愚の骨頂! ……さて、どうしよう。
「えーと……その」
 詐欺師です。
 ……は、愚の骨頂を通り越してる気がする。さすがに。少しばかり口中で「えー」やら「その」やらを繰り返した後、とりあえず無難っぽい言葉を選んでみた。
「……間違えました。すみません」
『……はぁ』
 あいまいな返事。うん、きっとあれだ。
 ばれたかもしれん。
『…………………』
「…………………」
 切ればいいのに。
 俺たちはお互いどうやら阿呆で、その返事の後、互いに固まってしまった。膠着しあったまま、受話器の向こうの声に耳を澄ます。お互いが耳を澄ませ続けりゃ、声なんて聞こえるわけもないのに、その真理にさえたどり着けない阿呆さ加減だった。
『あの……』
「は、はい?」
『何で切らないんですか……?』
 顔に泣きはらした顔、という表現があるくらいだから、声にだってあっていいだろう。泣きはらした声で、彼女が呟いてくる。もっともな問いかけだった。だから俺ももっともな問いかけを返してみた。
「そっちこそ……」
 再び、沈黙。
 ごめんなさい俺ら阿呆です。
 けれど暫くして受話器の向こうから聞こえてきたのは、意外にも――本当に意外にも――くすくすと微かに弾む、彼女の笑い声だった。
 ……笑った。
 その事実に、例えようのない安堵感が押し寄せてくる。いや、安堵してどうするの俺。でもまあここまで来ちまった以上、詐欺なんて土台無理なわけではあるし、とすると彼女が笑ってくれたのは少しばかりの救いにはなる。
『変ですね、私たち』
 笑いながら――泣きはらした声のまま、笑いながら。彼女が呟いてくる。俺はどうすることも出来ず、ただ「そうっすね」と短く答えるだけだ。確かに、変だ。そもそも俺、詐欺しようとしてたわけだし。
『変だけど、でも……』
 ためらう様な響きでそういった後、受話器の向こうの彼女はこう言ってきた。
『こういうのも、変ですけど。……『間違って』くれてありがとう。ちょっと……救われました』
「――……」
 馬鹿だ。
 この女、すげえ、馬鹿だ。救われた? 救われたって何がだ? 俺はあんたから金を巻き上げようとしてたんだぞ。それすら出来なかったオレオレ詐欺師なりそこないだぞ? 何でそんなふうに笑ってる?
 それに――その、言い方。
 たぶん俺の馬鹿な行為未満を、少し、気付いてるんだろう? だけど、そういうのは皮肉か――それとも、本当の馬鹿か。
 判らない。
 けど。
 感謝の気持ちなんて、俺には――何にもない、阿呆な俺には、重たすぎた。
「俺は……」
 気付くと、擦れた声が喉から漏れていた。
「あんたを騙そうとしただけっすよ」
『え……』
「すみません」
 ――ぷちっと。
 その言葉を最後に、俺は通話をおえた。携帯の液晶が一瞬ともって、すぐに暗くなる。
 ――……
 深く、細く、息を吐いて。携帯電話を握り締めたまま、天井を仰ぐ。
 俺、阿呆だな。
 心底、本気で、救えないほどに。
 金はない。
 だけど――だけど、さ。
 金以外の何かまで一緒くたに捨てるところだった。本気で、何もない人間になるところだった。いや、なったのかもしれない。なったんだろう。彼女のおかげで、そして俺自身の情けなさで結果的には何も得はしなかったけれど、でも行為としては最後の一線を軽やかに飛び越している。
 阿呆だな。
 ああ、自己嫌悪。泣きはらした声が内耳にまだ残ってる。そのくせ投げてきた、あの、重たい感謝の言葉。
 たぶん、俺と同じ年頃の――大学生か、働き始めのOLか、それくらいの女の声。ありがとう、だってさ。ハハ、馬鹿じゃねえの?
 この阿呆に感謝なんぞしないでくれ。さらに自己嫌悪が募るじゃんか。
 大学中退して地元飛び出して、フリーターやって金がなくて死にかけてる俺にさ。感謝の言葉なんて、重すぎるんだ。親とだってほとんど連絡を絶ってる俺にさ、あんたの言葉はすこし、冗談みたく、痛すぎる。優しすぎるってのは、痛すぎるってことだ。知ってるか?
 顔も、名前も、年齢も、どこに住んでるのかも、何も知らない。
 だけど、あんたの声は確かに耳に残った。少しだけ甘い、鼻にかかったような声。
 何で、あんた、泣いてたんだ? えーいちってやつが、あんたの彼氏かなんかか? そんで、泣いてたのか? 俺の電話、非通知だったろ? だけどそれに出たくらいに、あんたは切羽詰ってたのか? 俺とは違う意味で、たぶん、俺以上に。
 窓の外の真っ暗な夜の空を見上げて、俺は少しだけ思考の海にダイブした。したからどうってことはないし、結局俺、阿呆だから答えなんてみつかりゃしないんだけど。そうせずには、いられなかったんだ。
 握り締めた携帯の発信履歴には、あんたの携帯の番号が残ってる。
 消そうかどうか暫く悩んで、でも結局消せなくて、そのままにした。考えても悩んでも自己嫌悪しても結局金がないのには変わりなかったから、俺は諦めて親に電話した。まる一年ぶりくらいの俺の電話に、母ちゃんは怒鳴ってきた。だけど、何も言わずに明日少し振り込んでおくといって俺の通帳の番号を聞いてくれた。自己嫌悪はさらにつのったけど、すこしだけ、泣けそうだった。
 俺、阿呆だけど。
 あんたが、泣いてたから。
 少しだけ、本当に、本当に少しだけだけど、最後の一線踏み越える部分で、ためらえたんだ。
 救われたのは、あんたじゃない。俺だよ。
 言いたかったけど、まさか言うわけにもいかないだろ。だから俺は、結局眠れないまま、その夜を越した。
 布団の中で考えたのは、母ちゃんのことと、地元のことと、捨ててしまった夢のこと。
 それから――受話器の向こうの彼女の声。
 眼を閉じて、少しだけたずねてみた。心のうちの言葉が通じるなんて、思っちゃいないけど。

 ――あんたもう、泣いてないか?





 よし。
 もう一回電話しよう。


 翌日、俺がそう決断したのはやっぱり夜の十時すぎ、安アパートの部屋の中、正座をしながらのことだった。
 いや待ってくれ。ちょっとだけ待ってくれ。
 まさかさすがに二度目のオレオレ詐欺をするわけじゃあない! 当たり前だ。俺阿呆だけど、そこまで限度越えてない。いやでも、大差ないかも。結局昨日のあの番号に、かけようとしてるわけだから。
 気になったんだ。
 あの泣き声が、バイトしてる間中内耳にこびりついていて、どうにもこうにもならなかったんだ。
 だから意を決して、多分昨日以上に心臓痛めながら、俺は発信履歴を出して、通話ボタンに手をかけた。
 ピ・ポ・ポ・ポ・ピ――
 軽い軽い電子音ですけどなんでこんなに気持ちはあせるんでしょうかうわあごめんなさいばあちゃんごめんなさい母ちゃん俺やっぱ根性なしかもしれないっていうか根性ないわ電話切っていい!?
 内心の悲鳴なんて知ったことじゃあないってばかりに、電子音は無常に彼女への道を開いてくれて――
『はい……?』
 彼女の声が、囁いてきた。
「あっ……の、えと」
 なんて言えばいいのか判らず頭の中は綺麗に真っ白状態で、俺はこう口にしていた。
「オレですけど……」
 …………。
 うん。もう、俺、阿呆って言われても気にしない……。
 だけど彼女は暫くの沈黙の後、声を弾ませて――
『昨日の』
「あ、うん……そう、です」
『どう、したんですか?』
 明らかに戸惑った越えは、まぁもう、当たり前だと思う。だけど俺はぐっと拳を握り締めて、こう言った。
「……もう、泣いてねぇかな、って」
『……』
 受話器の向こうは一瞬沈黙して、それから軽い笑い声が聞こえてきた。昨日のような弾んだ声じゃなくて、少しだけ自嘲気味な笑い声に聴こえた。
『大丈夫です。……心配、してくれたんですか?』
「……」
 気になっただけだ。心配なんて、俺がするにはおこがましいに程があるだろう。
 だけど何も言えなくなった俺に、彼女は言葉を続けてきた。
『ありがとうございます。昨日は……その、彼と喧嘩して』
 ああ、やっぱりえーいちとやらが、彼氏なんだろうな。
 それにしてもあんた、無防備すぎやしないか?
『それだけ、なんで。ごめんなさい。でも、ありがとう』
「……ばあちゃんの遺言だから」
『え?』
「女泣かすな、って」
 言い訳、なんだろうか。確かにそれは事実だけど、でも電話したのは別にばあちゃんの言葉があったせいじゃなくて、俺自身が気になったからだ。だけど、それをいえないほどに俺は臆病で根性なしで阿呆だった。
 だけど彼女は俺の言葉を面白いって感じたらしく、少しだけ笑った。
『別に私、あなたに泣かされたわけじゃないですよ』
「でも、泣いてたから。……泣くな」
『優しいんですね』
「……阿呆なだけだ」
 俺の言葉の何が面白かったのか、彼女は声を立てて笑っていた。それが、少しだけ安堵を与えてくれて、自然、俺の顔にも笑みが浮かんでいた。
 笑ってるなら、もういい。
「笑ってるなら、大丈夫っぽいっすね。じゃあ」
『あ、待って』
 通話ボタンに指をかけたとたん待ったがかかって、俺はきょとんと目を瞬かせる羽目になった。
『あ、あの』
「はい……?」
『もし良かったら、また、お話してくれません、か?』
 少し、おどおどしたような声で――そんな提案をされて。
 貞子の顔にも負けないくらいの勢いで俺の頭の中は真っ白になって、結局気付くと――ほとんど反射的に――こう返していた。
「じゃあ、また明日かけます」





 つまり俺たちの始まりってのは、そもそもが阿呆だったわけだ。
 こんな感じに、お互い馬鹿で、阿呆で、成り行きだけが全てを支配していた。
 偶然と馬鹿と成り行きを、もしかしたら――もしかしたら、だけど。
 こう言い換えても、いいかもしれない。
 ちょっとしたそれは、運命だったのかもしれない。


 その次の夜から、毎晩十時――
 俺の携帯の発信履歴には、彼女の電話番号が残されることになった。
 会話も、せいぜい十分程度の、くだらない、本当に少しだけの時間だった。
 天気の話とか、友人の話とか、当たり障りのない、誰と話してもそう変わらないであろう話題だけで、俺たちは毎晩十分間だけ、ほんの少しだけ、繋がった。
 ドラえもんの道具があれば俺は彼女のことをもっと知ろうとしただろう。ホリエモンみたく金があったら、そもそも彼女との時間は得られなかったはずだ。
 つまり俺はドラえもんでもホリエモンでもなくて、ただの阿呆で、だけどだからこそ、こんな阿呆で優しくてくだらない毎晩の十分間を、手に入れられた。
 それは捨ててしまった夢の空白を埋めるには少しばかり足りなかったけれど、それでも確かに暖かくて、チキンスープみたいな時間だった。
 金も地位も何もない俺の、贅沢な十分間だった。

 そしてそれは――唐突に、途切れた。
 電話を始めて、二週間後。
 彼女は俺の電話にはじめて、出なかった。





 つまりこれは、予想されていたことだった。
 名前も何も知らない相手との時間が、そうずっと続くわけじゃない。あたりまえだ。『おかけになった電話番号は現在電波の届かないところにあるか電源が入っておりません――』昨日と同じく耳元で繰り返される電子音声を二回聞いてから、俺は通話ボタンに指をかけた。
 繋がらない。
 通じない。
 調子に乗りすぎたのかな、俺。そうかもしれない。俺、阿呆だし。
 そもそも、通じないことが当然だったんだ。それが当たり前で、結局元に戻っただけだ。二週間前に。
 それだけのことなのに、落ち着かなかった。
 泣いて、ないか?
 落ち込んでないか?
 俺のこと嫌いになってもいいけど、でも、あんたが泣いてたりするのは、俺はいやだ。
 何度も胸中で繰り返して、でも電話が繋がらないことにはどうしようもなかった。
 俺たちのつながりはやすっちいものだった。儚いものだった。毎晩十分間のチキンスープは、すっかりさめてしまった。
 電話はその日も通じなくて、その次の日も通じなかった。
 冷えたチキンスープ。
 それはもしかしたら、涙の温度と似てるのかもしれないって、少しだけ思った。





 再び通じたのは、そのさらに翌日。
 三日目だった。
 トゥルル――という電子音の後、ぷちりと軽い切り替え音が響いて、機械によって少しだけ歪んだ彼女の声が内耳を震わせた途端、既視感が俺を包み込んだ。
 泣き声。
 女の、すすり泣く声――
「もしもし、オレですけどっ!?」
 すっかりお定まりになったその文句を電話口で叫んでいた。それでも、返事は返ってこない。
 ただ、ただすっかり聞きなれた彼女の声は、あの日と同じように――泣いていた。
 外にいるんだろうか。彼女の泣き声は受話器の向こう、外の雑音にまぎれている。胸が、痛んだ。ピシピシピシ、キシ。音を立ててる。
「なあ、泣いてるのか? 何で出なかった? 泣くようなことがあるんだったら、逆に出ろよ! 俺、一番最初に言ったじゃんか――泣くなって――!」
 堰を切ったように、俺は言葉を投げつけていた。名前も知らない。顔も知らない。年齢も知らないし、どこに住んでるのかも知らない。何も知らない。俺が知ってるのは、彼女の声だけだ。
 だからこそ。
 その声が泣いてるのだけは、何でかどうしても、耐えられなかった。
 すすり泣きが、俺の声によって安堵したのか、本格的な泣き声に変わって――俺はどうしようもなくて、受話器の向こうに呼びかけるだけだった。夜の十時。部屋の真ん中で正座して、怒鳴るだけ。こんなところで怒鳴っていて、何が彼女に伝わるのだろう。
「なあ!」
『えーいちと』
 その単語は、あの日と同じで。俺の叫び声はしゃっくりみたいにひっくと音を立てて止まらざるを得なかった。
『えーいちと、別れた』
「……」
 よし。えーいち。俺の前に出て来い。ぼこぼこのげにょげにょのぐったんぎったんにしてやる。
 何も知らない、声だけ知っている彼女の――元、彼氏に、俺は一瞬マジメに殺意を覚えた。
 泣かすなよ。俺みたいな阿呆に言われたくないだろうけど、泣かすなよ。
 俺、何もしらねえし、言えた義理じゃねえのかもしれないけど、でもさ、えーいちとやら。あんたのこと、こいつたぶん、本気で好きだったんだぞ。好きなんだぞ。なのに、泣かすなよ。
 どうしようもなかった。
 俺には何も出来なかった。
 言葉は、届かない。何も知らない俺の言葉は、機械を通してじゃ届きゃしない。
 もどかしさに、俺のほうが泣きたくなってきて――
 だったら、と一瞬何かが頭の中で灯ってひらめいた。
「あんた今外か?」
『え……う、ん……』
「どこにいる?」
『新宿の……』
 その言葉を聞いた瞬間、机に放り出していた財布を尻ポケットにつっこんで、俺は部屋を飛び出していた。





 新宿なら、そう遠くない。
 関東圏なら、いける。
 電車を二本ほど乗り継いで一時間ってとこだ。偶然の神様に感謝しようじゃねえか。幸いまだ電車も残ってる。
 彼女の居場所を正確に聞きだして、俺は電車に飛び乗っていた。一時間だけ、待て。そういい残して電話を切る。新宿PePe前の喫煙所。そこにいるはずだ。顔なんてわかりゃしねえ! だけど、いかなきゃって思ってた。いってどうなるもんでもないだろう。だけど。
 声だけじゃ、届かない。
 機械を通した声だけじゃ、何も出来ない。
 俺阿呆だから、気の利いた言葉とか言えないんだ。だから、会わなきゃ通じない。
 上りの電車は空いていた。乗り継ぎのたびにすった外の空気はすっかり寒くて肺に痛かった。
 待っててくれるだろうか。
 寒いけど。
 信用も信頼も何もない俺のことを、あんたはそこで待っててくれるか?
 泣くなよ。
 俺、すぐに行くから。
 そこにいくから。
 えーいちとやらの代わりにはなれやしないけど。
 だけど。
 泣くな。





 新宿駅の東口を飛び出して、すっかり冷え切った空気に頬を殴打されながら、俺は走る。
 新宿PePe前。喫煙所。あんたはそこでまだ待ってるか?
 泣いて待ってるのか? 泣きやんだか? 待っててくれてるか? 寒いから、風邪引くなよ。
 すっかり白くなった息を吐き出しながら、俺は走る。
 たぶん今の俺の姿は傍から見ればものすごく阿呆だろうと思う。
 今年も残り二ヶ月を切った秋から冬へ移行するこの寒空の下、上着の一枚も引っ掛けずに携帯電話だけを握り締めて、寄り添うバカップルやら乳臭い女子高生どもやらを掻き分けて、イルミネーション溢れる夜の新宿をイノシシかくやの勢いで爆走しているのだから。
 ああ、そうだ。
 すごく阿呆に見えるだろう。
 もうひとつついでに言えばものすごくダサイ男に見えるだろう。
 だけど知ったことか。構うものか。阿呆に見るなら見ればいい。ダサいと笑うなら笑えばいい。あいにく俺は頭が悪い。他人様の価値観だのなんだのを空想する余裕すら今はない。
 ただ目的はひとつだけだ。
 ああ、そのためなら、どんな阿呆な真似だって恥ずかしくもなんともない。
 そもそもきっかけ自体が限りなく阿呆なのだから。
 だからどけどけホストども。
 そこをどけどけ客引きども。
 この阿呆な俺に道をあけろ。

 この阿呆に道をあけろ!





 PePe前にたどり着くと、何人もの人間がそこにいた。
 あんたは、どこだ?
 どこにいる?
 ここにいるか? まだ、いるか? いてくれるのか? 泣いているのか――?
 息を切らしながら周囲を見渡して、そして――俺は息を止めた。


 いた――


 何で判ったんだろう。顔なんて知らない。知るはずもない。だけど、何故か、判った。
 携帯電話を握り締めて、泣きはらした顔で立ち尽くしている小柄な、女子大生風の、一人の女。
 ……あんた、だろう?
 染めてもいない肩までの髪に、寒さに赤くなった丸い頬。泣きはらした、大きな目――
 彼女が、俺に気付く。
 大きな目を、さらに大きく見開いて。
 ためらうようなその顔に、何を言えばいいのか判らず、握り締めていた携帯を、俺もかざした。
 それが、合図。
 大きな目に、驚きが広がっていく。
 その色を見据えながら、俺はまだ弾む息の間から、結局一番判りやすいであろうあの言葉を口にした。


「オレだけど……」


 始まりは全て、この阿呆な台詞だった。
 今だって、阿呆なことには変わりないけれど、でも。

「あんただよな……?」

 俺の言葉に、彼女はまたぼろぼろと涙を零し始めた。
 気付くと俺は、傍によって彼女を抱きしめていた。
 コート一枚の薄い体はすっかり冷え切っていたけれど、走りすぎで火照った俺には心地良かった。
「泣くな」
 俺の胸の中で泣きじゃくる彼女に、結局電話越しと同じ言葉しか言えない。だけど、それでも、やっぱり違った。
 言葉は直接耳に届く。ぬくもりを直接与えられる。
 上手くはいえないけど、それはやっぱり、何かが違う。
「泣くなよ」
「ごめんなさ……」
 泣き声は、機械によって変質したそれじゃなくて、直接俺の耳に届く透き通ったものだった。彼女を抱きしめる手に、自然と力が入った。
「本当に来てくれるなんて、思わなかった……」
 ささやき声に、思わず苦笑した。
 確かにな。何も知らない相手に、普通はこんなことしやしない。
 だけど、こうすることが、俺にとっては当然だったんだ。
 俺はあんたの名前も顔も居場所も何も知らなかったけれど、電話越しのあんたの声とあんたの優しさだけは、少しだけだけど、知ってたんだ。毎晩のチキンスープを、俺は知ってたんだ。
 何も知らないわけじゃない。
「えーいちのこと、好きなんだな」
 俺の言葉に、彼女が小さく頷く。
「上手く、いかなかったんだな」
 もう一度、頷く。
 そうさ。人生なんて、そんなもんだ。
 大切で、大切で、どうしようもなく大好きなものほど、指の間をすり抜けて、砂みたいに崩れていく。
 地元飛び出してまで追いかけた俺のミュージシャンへの夢は、たしかにそれとよく似ていた。どうしようもなくどうしようもなく大好きだった音楽は、契約までこぎつけた段階であっさり会社に捨てられた。業界の汚さとやらに絶望して、俺は音楽への夢を手放した。
 大好きな、大好きなことほど――上手くいかない。
 恋愛も、夢も、東京って街は優しくはない。
 だけど――絶望には、少しだけ、早い。
 俺はドラえもんでもホリエモンでもないし、詐欺師にすらなれなかったくだらないただの阿呆だけど。でも。
 出来すぎた純愛漫画のヒーローみたいに格好よいわけでもないけれど。でも。
 それでも――

 あんたに、逢えた。

「俺、えーいちの代わりにはなれないけどさ」
 泣く彼女から少しだけ身を離して、涙をぬぐってやる。吐息は白く、優しくない街の空気に溶ける。
「あんたのこと……たぶん、好きだ」
「……」
「返事はいらない。ただ、言いたいだけだから。あんた、救われたって言ったよな。そうじゃないよ。俺があんたに救われたんだ。あの日、あんたが泣いてたから、俺、救われたんだよ。だけど……あんたにはやっぱり、泣いてほしくない」
 見上げてくる彼女の瞳は純粋で、それ故に少し恥ずかしくて重たくて、だけど逸らすことはしなかった。
 臆病だし根性なしだし考えなしだし何も持ってない阿呆だけど。
 それでも、俺は――
 この言葉を、どうしても伝えたい。
 電話越しじゃなくて。
 直接、あんたに、俺の言葉で、俺の声で、伝えたい。

「もう、泣くな」

 気の利いた台詞じゃあなかっただろう。
 だけどその言葉に、彼女は泣きながら、それでも精一杯の笑みを向けてくれた。
 冬の空に瞬く星みたいに弱く、だけどたしかに、ふわりと微笑んでくれた。
 それだけで、俺は十分だった。
 ゆっくりと、もう一度、俺は彼女を抱き寄せた。


 抱き寄せたぬくもりは、毎晩のチキンスープに良く似ていた。
 だけど電話越しのそれよりも、ずっとずっと、優しかった。



――Fin.

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詐欺師は声にをする






三題噺企画。『ホリエモン』『純愛』『オレオレ詐欺』使用。