三原さんちの父親事情





 ある朝目覚めると、俺の体は子供になっていた。

「……」
 愕然として言葉もでない。異常事態に直面すると人間は錯乱するのを通り越していやに冷静になってしまうらしい。だがしかし、残念なことに何を言うべきか判らず言葉はでない。ただ呆然と布団から出ている自分の体を見下ろすだけだ。
 小さい。なんと言うか小さい。ひたすらに小さい。パジャマはもともとのサイズのままだから、あたりまえのようにだぼついている。そのパジャマの中にすっぽりおさまる細い棒のような腕に、丸い小さな手。小さな指。上着がこの調子だから当然だが、下のほうもぶかぶかで、非常に――いや、下品な話で申し訳ないが、頼りない。いろいろと。
 いや、違う。そうじゃない。そんなことじゃない。いかん。冷静なつもりだがやはり相当混乱しているようだ。
 鏡を――探そうとして、動きを止めた。見たくない。果てしなく見たくない。受け入れたくはない。きっとまだ俺は寝ていて――そう、夢だ。おそらく。きっと。たぶん。そうだといいな……
 悪夢にも程があるとおもうのだが。
 しかし、悪夢は覚めなかった。
 バシン――と乱暴に寝室の襖が開けられる。ぎくりと背を伸ばしてそちらに視線を投じた。
「ちょっと! 日曜だからっていつまで寝て――」
 襖を乱暴に開けた張本人である妻の咲子は、そこで言葉を飲み込んだ。
 布団の上で上体だけを起こした状態で座り込んでいる俺を凝視する。咲子は、何を思うだろうか。昨晩まで夫が眠っていた場所に座り込んでいる子供を見て、一体何を思うんだろうか。
 叫ばれるだろうか。通報されるだろうか。泣かれたらどうしよう。
 ぐるぐるとまわる色々なシュチエーションに怯え、俺は恐る恐る声をかけてみた。
「あ、あの……あのな」
 咲子は何を考えているのか判らない無表情で、唇を開いた。
「何を愉快な格好をしてんの、ひでくん……」
 ――咲子は悪夢に輪をかけるような発言をしてくれたのだった。
 我妻ながら、彼女は変わっていると思う。


◆ ◆ ◆ 


 童話作家である俺は、仕事を休むということで会社に連絡するということをしなくてすむ。それはこの事態において非常に助かった。何せ電話なんてしようもんなら、声変わりすらしていない俺だと信じてもらえるはずもなく。――編集部から電話がきたら最悪だが、締め切りが迫っているわけでもなし、大丈夫だろう。
「ひでくんは小さくなりました〜♪ ほっぺもまぁるくふわふわで〜♪ 見た目は推測五歳です〜♪」
「さきちゃん……」
 台所でわけの判らない即興の鼻歌を歌いながら調理をしている咲子に、半ば泣きそうな心地で呟いてみる。落ち着いてくれ四十一歳……
 ちなみに今の俺は咲子が買ってきてくれた子供用グンゼのパンツと娘の幼い頃の洋服を身につけている。泣きそうだった。はっきり言って泣きそうだった。いろいろ小さくて。しかも咲子はそれを笑うし。泣くぞチクショウ。
「はい、ひでくん卵焼き。――で、何でそんな愉快なことになってんの?」
 焼いた卵焼きをテーブルにおいて、咲子は俺の向かいに座った。しかし、咲子を見上げてしまう。視界が低く、椅子に座れば脚もつかない。何故か非常に不安定な気持ちになる。子供というのはこれほど落ち着かない世界で暮らしているんだろうか。
「俺が知りたいわい……」
「うーん。童話作家だから、とか? 自分が童話になっちゃうもんなの? 童話作家って」
「そんなサバイバルな職業選んだ記憶はない!」
 思わず叫んで卵焼きの欠片を飛ばしてしまう。
「こぉら、ひでくん。だめよー? ご飯を食べているときはお口は開かないこと」
 ……扱いまで子供にしないでください咲子さん……
 そこで俺は、あることに気付いた。
 奥の部屋に意識を飛ばして、視線を戻す。咲子を見上げた。――しかし、下から見るとよく判るが、咲子は意外と睫毛が長いらしい。いや非常にどうでもいいんだが。
「さきちゃん」
「なんでしょうひでくん」
 こくんと唾を飲み込んで、俺は恐る恐る聞いてみた。
「――夏樹は?」
「部活よ」
 ほう、と俺は思わず大きなため息をついた。その様子を見て、咲子が眉を寄せる。
「子供がそんなため息なんて、不健康よ。ひでくん」
「三原英俊。今年で四十二になります!」
「でもどう見ても五歳だし。――まぁ、それはいいとして」
 良くない。さっぱり良くない。
 しかし咲子は俺が食べ終わった茶碗を片しながら、軽い口調で言ってきた。
「夏樹に知られるの、嫌なの?」
「嫌だろ、どう考えても」
 娘の夏樹は今年で十四になる。顔立ちは咲子に似たようで、やや日本人離れした目鼻立ちのはっきりした――まぁ、父親としての贔屓目もあるにしても――けっこうな美人だ。しかし色素が薄く、癖毛な咲子と違い、髪は真っ黒なストレート。こっちはどうやら俺に似たらしい。バスケ部員であり、身長もそこそこ高く、十四にしては大人びている。
 だが――なんというか。どうやら小さく反抗期らしく、最近父親である俺に対してめちゃくちゃ冷たい。
「ばれると思うけど」
「勘弁してください……」
 あっさり言い切った咲子に、俺は思わずうな垂れる。
「しかたないわねぇ。じゃあ、お父さんは出張中。ひでくんは――預かっている従兄の子。これでどう?」
「……二つほど聞きたいんだが」
「ん?」
 食器を洗い終わった咲子は、エプロンで手をふきながらこちらを振り返ってくる。
「童話作家の出張ってなんだ。ついでに俺にもお前にも兄弟はいなかったはずだが」
「そこは――」
「そこは?」
 半眼になって尋ねると、咲子はにっこり微笑んだ。
「気合でカバー」
 ……泣きそうだ。


 昼を過ぎると、空模様はとたんに怪しくなってきた。午前中に干していた洗濯物を慌てて取り込む咲子の後姿をみながら、俺はぼんやりと物思いにふけっていた。
 俺はこのあと、どうすりゃいいんだろうか。一家の大黒柱は五歳でした。はシャレにならん。童話のネタにはなるかもしれんが。
 とっとともとの姿に戻る。それが一番だろう。しかしこうなった原因が解明されない限り、元に戻るというきっかけは掴めそうにない。というより、あっさり馴染んでしまっている俺自身に泣きたくもなるんだが、そこは若干職業柄もあるのかもしれない。
 幸い、仕事ができなくて食えなくなる――ということはないだろう。この姿でも仕事ができるにはできる。しかし問題はそう言う点じゃない。
 のほほんとしている咲子とて、焦りも驚きもしている――はず、だ。……いまいち自信はないが。
 そして、夏樹。
 あいつは、俺だと知るとどうするだろう。父親が童話作家で母親は見ての通りの性格で、その反動のせいか彼女は非常に現実主義なところがある。五歳になった父親なんて認めてくれるはずがないだろう。
 しかしこれは――考えようによっては、きっかけにはなるかもしれない。
 夏樹とはここ数ヶ月、ろくに口を利いていない。一方的にさけられている、というのが正解なのだが、おはようとおやすみ、いただきますとごちそうさま、いってらっしゃいといってきます――そんな簡単な挨拶以外は、俺から話し掛けてもあっさりと終わらせられてしまう。情けないことだが、今の夏樹の友人を俺は二人ほどしか把握できていない。
 しかしこの状況なら、どっちにしろ話し合うしか手立てはなさそうだ。卑怯かもしれんが、そうであっても夏樹と話せるならはなしたい。
「あーっ、さむいーっ。降ってきた降ってきた! ひでくーんっ、雪よー」
「ゆき?」
 洗濯物を大量に抱えてリビングに入ってきた咲子は、そう言いながら肩を震わせる。
「そ、雪。夏樹に傘持っていってあげなきゃ。持っていってないのよ、あの子」
 エプロンを外して、ぱたぱたと走っていく咲子のスカートを、思わず俺は引っつかんでいた。
 つんのめってから、咲子は振り返る。
「なぁに、ひでくん」
 俺は咲子の顔を見上げて――ゆっくりと、しかしはっきり告げた。
「俺がもって行く」


◆ ◆ ◆


 外に出るとなおさら判る。子供というのはつくづく視線が低い。ついでに力も弱ければあたりまえに身長も低い。傘がこんなに邪魔に思ったのは初めてだった。
 しかし、傘を引き摺ってでも、夏樹と話をするきっかけになるなら――行くべきだと判断した。
 雪が降る道を歩く。靴は夏樹の子供の頃のやつだ。おかげでセーラームーンの絵柄が踊るピンクの靴だ。咲子はどうも捨てておかなかったらしく、夏樹が小さい頃のものが幾つか残っている。
 中学校の校門前で待っていると、何人かの中学生が興味本位で話し掛けてきた。かわいいね、だとか、えらいね、だとか。――四十二になってそんな単語を中学生から吐かれるハメになるとは思わなかったが。
 日曜の中学校は、主に体育会系の部活に通っている生徒だけが出入りするようだ。降ってきた雪に顔を顰めながら早足で帰宅するものが多い。その中に混じって、長身の少女が一人駆けてきた。――夏樹だ。
 思わずぎくりと心臓が跳ねる。し、しかしだ。三原英俊四十二歳。ここで怯えてちゃ意味がない!
 呼べ、呼ぶんだ俺! 娘の名前だ! 夏に生まれたから夏樹。夏の樹木のように伸びやかに、青々とした元気な子に育ってほしいから夏樹! 夏樹! 呼べ、俺! いや、心で呼んでても仕方ねぇから! 声に出せ、俺!
「なつ――!」
「近付くんじゃねえわよくそったれ!」
 しかし叫びかけた俺の声は、夏樹自身の怒鳴り声によってかき消された。
 ぎょっとして言葉を飲み込み、俺は夏樹を見上げた。その拍子に、さしていた傘がバランスを崩して後ろにもっていかれた。そのまま地面に落ちる。
 だが俺の目はそんなことよりも夏樹にひきつけられていた。
 夏樹の肩に手をかけて、ニヤニヤと笑っている男子中学生がいた。一度は振り払ったものの、夏樹自身の力ではかなわないのか、夏樹は人を殺せでもしそうな鋭い視線をその男子生徒につきつけている。
「いいじゃん。どうせ大野先輩に振られたばっかなんだろ? 大野先輩より、俺のがいいって。あいつのあれ、ちいせえだろ」
「――っ」
 激昂しかけたように、夏樹の顔に赤みがさした。
 俺は半ば呆然としながら、二人を見上げるしかなかった。ニヤニヤと笑うその男の歯は黄色く、ヤニっぽい。大柄なせいか、中学生にはとても見えないほどだ。夏樹はその男を見ながら、一語一語くぎるように低い声を出した。
「うせろ、っつってんだよ。滝澤」
「可愛い顔が台無しだぜ、そんな汚い言葉吐くと」
「あたしの前から消えうせろ、このそチン野郎!」
 ……お、親の前でなんて言葉吐くんだ夏樹ぃ!
 ショックを受けている俺の前で、いわれた本人はやっぱり俺以上にショックだったらしく、顔を赤くした。そのまま、乱暴に夏樹を引き寄せ――
「っ、いやっ!」
 小さく夏樹が悲鳴を上げかけたとき、俺はようやく呆然状態から抜け出した。持っていた夏樹の傘を、竹刀よろしく男めがけて振り下ろそう――として、身長が足りないことに気付く。仕方がないので逆の方法をとった。
 すなわち――
 男の股間を下からたたき上げる!
「人の娘に手ぇ出すなそチン野郎!」
 思わず叫びをあげる俺。そして俺が振り上げた傘はものの見事にその男子中学生の股間にのめり込み――そいつは悲鳴も上げられない状態でその場にうずくまった。
 一瞬、沈黙が落ち――
 そして。
 息を荒げていた夏樹が、俺のほうを見た。
「おっ……い、あ、え……」
 何を言うべきか判らず意味をなさない声を漏らす俺にむかって、夏樹はぼうぜんとした表情を見せ――
 そして、頭に白い雪をのせながら、俺の視線に合わせて夏樹はしゃがみ込んだ。
「ありがとう」
 素直なそんな言葉は――一体、何ヶ月ぶりに聞くだろう。
 思わず顔が綻んで、俺は頷いた。
「う、うん」
「それで――」
 夏樹はふいに強張っていた表情を崩して、笑みをみせた。
「何をそんな愉快な格好してんの、お父さん」
 ――夏樹も立派に、咲子の娘だった。


◆ ◆ ◆


 その日、夏樹と俺は手を繋いで一緒に帰宅した。雪が降る中を、夏樹がさしてくれた傘の中に入って歩く。道中、今まで話さなかった分を埋めるほどたくさん会話をした。それが何より、嬉しかった。俺の手より夏樹の手が大きかったのが不思議で仕方なかったが。
 家にかえると、咲子は笑いながら夏樹と俺を向かいいれてくれた。
 雪の日に訪れた、童話チックなこの出来事は、少しばかり俺たち家族の仲を温めなおしてくれて――
 少し以上にこれから先も騒動を呼び込んできたんだが――

 それはまた、別の話。


――おしまい


お題バトル参戦作品。
テーマは「子供」 お題は「ほっぺ」「小さい」「輪っか(わっか、輪でも可)」「雪」「手」「歌」から四つ以上任意選択で一応すべて使用。
制限時間は一時間半で十分弱オーバー。