塾の午前講習の後、僕らはいったん家に帰る。
 その時間ってのが、また一日で一番暑い時間帯で、クーラーに冷やされた手足からいっせいにどばっと汗が吹き出るんだ。それを少しでも風で乾かすように、僕らはひたすら自転車をこいでいく。
 けど、夏の日差しってやつは容赦なく僕らを照らしつけるもんだから、汗は乾く前に次から次へと玉になって浮かんでくるんだ。
 塾から僕らの家のあるあたりまでは、緩やかな下り坂になっている。僕ら――つまりいつも一緒にいる僕とレイヤ――は、毎日、午前講習が終わるとこの道を使い家路に着いた。家で昼飯をかきこんで、今度は上り坂になったここを戻る。
 別に弁当を持っていったっていいんだけれど、僕とレイヤは一日中コンクリの壁につつまれて、冷房のきいた部屋にいることが耐えられなくて、わざわざこうして夏の洗礼を浴びるために、毎日この道をほかの塾生より多く往復していた。
「シュン」
 僕の前。十字路で自転車を止めたレイヤが振り返って言った。
「午後、またいつもどおりでオーケイ?」
「ああ、うん。ここで」
「オッケ、んじゃまたあとで」
「うん、また」
 僕もまた自転車を止めて頷くと、軽く手を上げたレイヤが再度自転車を漕ぎ出した。道の途中で右に曲がっていく。レイヤの家はあっち方向だ。ちなみに僕の家はここを左に行く。
 その背中を見送って、僕ははっと大きく息を吐いた。
 暑い。べとべとした空気は肺にちょっと重い。白くまぶしいアスファルトに目を細めて、ゆっくり視線を上げる。
 ――青。
 それから、ぷくぷくに膨れ上がった風船みたいな、白。入道雲だ。
 彩度の高い青の中に、白い雲が負けじと鮮やかに体を張っている。
 まぶしい。
 今度は完全に目を閉じる。まぶたの裏でも、鮮やかな光が見えた。
 それからゆっくりと息を吸う。暑い空気が体中を包んでいく。ほんのわずか、潮の匂いが混じっていた。
 耳を澄ます。こんな街中でもセミの声が聞こえる。わずかな生命を燃やしている生物の声。それから、車の音。どこからか子供の声。かすかに、ほんのかすかに、消えてしまいそうな波の音。
 水曜日か。
 ぼんやり、思う。頭の中からさっきまで詰め込まれていた数式や文法をいったん追い出して、意識的にぼんやりと考える。
 水曜日。あの子の日だ。
 目を開けた。青い空を見上げながら、自分の腹に問う。
 ――昼飯抜き、オッケ?
 ――オッケじゃないけど、ガマンならなんとか。
 ――んじゃ、オッケだ。
 自分で自分に頷いて。
 少し位置がずれていた自転車のペダルを軽く蹴って元に戻す。それから。
 ――たんっ!
 僕はもう一度自転車を漕ぎ出した。
 自分ちへ向かう左への曲がり角を通り過ぎてまっすぐ走り出す。

 海へ。



 一番最初に彼女にあったのは、二年前。中学最初の夏休みに入ってすぐの水曜日だった。
 その年も、白いワンピース姿だった。今より少し髪の毛は短くて、いわゆるセミロングの状態ではあったけど、今とおなじにストローハットをかぶって、今とおなじにアイスを食べていた。
 僕らの街は少しばかり変わった土地だ。駅があって、そこから海側へいったん上がる。上がりきったあたりが一番栄えていて、商業施設とか塾とかがある。そこから、下る。下った先は海だ。ちょっと起伏のある街なんだ。
 海、とはいっても実は海水浴場はちょっと遠い。まあ電車で一駅ではあるんだけど、テリトリーとはいいがたい場所にある。僕らのよく知る「海」は、防波堤のある、釣りなんかのほうが適している「海」だった。
 自転車で坂を下っていく。ツン、と鼻に刺激が来たところで僕は自転車を止めた。草がぼうぼうに生えたままの脇に自転車を持たせかけ、歩いていく。ふ、と視界が暗くなった。高架下のトンネルだ。上には電車が走っている線路がある。
 この場所はどういうわけか、少しひんやりしている。空気の通りがいいのか、別の要因かは知らないけれど、いつも少しひんやりしていて、そして何故かいつも水溜りがあったりする。
 暗いトンネルはほんの少しで終わる。その先。出口のところ。まるでどっかの猫が探し続けている夏の扉を開け放しているかのように、真っ青な海と空が見えた。
 そして、その手前に。
 今日も彼女はいた。まるで、夏の番人のように。

「や」
 僕の呼びかけに、長い黒髪をふんわりとなびかせ振り返る。白いワンピースにストローハット。手には水色の――たぶんソーダ味の――アイスキャンディー。
 最初に見たときは、何だこれ人形か、と思ったもんだった。それくらい、キレイな子だったから。けど、今なら分かる。僕と同じように年はとっているし、ちゃんとした人間の女の子だ。
 その彼女が僕を見つけてふっと笑った。よく通る声が、高架下に反響する。
「なんだ、君か」
 僕は肩をすくめて頷く。
「二週間ぶり、かな」
「だね。先週は?」
「塾、テストだったから。腹減っててこれなかった」
 僕の答えに、彼女はアハハ、と笑い声を上げた。
 高架下の壁に背を預け、まるで夏の番人のように彼女はここにいる。
 水曜日。僕が昼を抜いてここに来るときには。
「今日も昼抜き?」
「まぁね」
「食べる?」
 無造作に差し出された食べかけのアイスキャンディーに一瞬ドキッとした。
「え、いや」
「食べないの?」
 ふーん、と不思議そうに首をかしげ、彼女はキャンディーを自らの口に運んだ。
 ちいさな唇が、水色のキャンディーをくわえる。
「うんまあー」
「……幸せそうで何よりだよ」
 まったく、食べかけのアイスキャンディーなんてものを男子中学生の前に無防備に見せないで頂きたい。
 僕の言葉に小さく微笑んで。それでどうやらこっちには興味を失ったようだった。
 さっきまでと同じように、また彼女は海と空へと目を向けている。
 キラキラ波が反射する海と、白い入道雲が浮かぶ空。時折、キュイキュイ、と聞こえるのはウミネコの声。
 その姿を確認して、どうしてだか少しほっとして、僕は彼女の反対側の壁へ、彼女と同じように背を預けて立った。
 それは、毎年の光景。
 夏の扉を守る彼女と、その手前でぼんやりする僕。
 お互いにたいした会話はしない。それは最初の夏からだった。
 目を閉じる。
 あれは、中学一年の夏のことだった。



 その年の春、僕はこの街に越してきた。
 ありがちな親の転勤に付き合わされての話だけれど、ただまぁ、小学校が終わってからという区切りならいいかとカンタンに考えていた。
 これがそうはうまく行かなかった。僕はどうしてだか、一学期が終わっても学校になじめなかった。いじめというほど積極的な攻撃を受けていたわけでもないけれど、友達、と言い切れる相手を作ることは出来なかった。それは中学校というものに慣れなかったのか、この土地に慣れなかったのか、それは今でも分からない。ただひとつ言えるのは、そんな状態だったからこそ、僕は彼女に会うことが出来たのだ。
 友達と言い切れる存在はいなくて、だからといって親にそれを悟られて心配かけるのもイヤで、僕は夏休み中毎日毎日外に出た。
 ただ、行く当てはなかった。
 最初のうちは図書館にいったりしていたけれど、同級生に会うのがなんとなくつらくなって、そのうち当てもなく街を散策し始めた。
 そして、この場所にたどり着いた。
 外から見るとちょっとばかし不気味なこの場所は、そのせいで「きっと誰もいない」と僕に期待させ、僕を誘い込んだ。
 そして僕は出会ったんだ。
 この、夏の番人と。



 ――チリン。
 ふいに内耳を涼やかな音が揺らした。驚いて目を開ける。
「なに?」
「フフッ」
 僕の問いかけに彼女は笑い、そっと白い指を天井へと向けた。
「これ。拾ってきたの」
 そこにあったのは、
「……風鈴?」
「そう」
 ガラスで出来た涼やかな風鈴だった。
「どこで?」
「これ? 道路側の入り口のところ。草のところに落ちてた」
「なんで?」
「さあ。わたしに聞かれても。だったらわたしだってこれ」
 これ、と彼女は風鈴の横にあったもうひとつのものを指差した。
「なんで? って聞きたい」
「まぁ、そうだね」
 彼女の指先にあるのは、よく駄菓子屋とかでぶら下がっている『氷』のタペストリーみたいなやつだ。去年の夏、僕がやっぱりあの自転車を置いてきた草むらのところで見つけた、よく判らない落し物。何となく面白くて、彼女に手渡して、彼女はそれをこの天井のパイプみたいなところへ括りつけた。
 今年はその『カキ氷はじめました』的なタペストリーの横で風鈴が揺れている。
 チリン。
 また、涼やかな音がなる。
「キレイだよね」
「だね。いい音だ」
「うん」
 夏の番人は嬉しそうに笑って頷く。
 けど、本当に。
 風鈴に、氷のタペストリー。そして海と空とアイスキャンディー。
 彼女のもとに『夏』が集まっていた。
「そのうちさ」
「うん?」
「もっと増えるかもね、それ系。夏っぽいの」
「ここに?」
「そう」
 僕が頷くと、彼女は一瞬きょとんとして首をかしげた。
「ひまわりとか?」
「うーん。それもありだけど、それよりあれだな。まずいるのはあれだ」
「なに?」
 僕は真面目そうな顔をして見せて、告げた。
「冷やし中華始めました」
 一瞬、彼女は目を丸くし――そして次の瞬間はじけるような笑い声を上げていた。
「なにそれー!」

 こんな風に。
 僕と彼女の水曜日の一時間は過ぎていく。
 どういうわけか、水曜日以外の日は彼女はここにいない。それははじめて会った夏から変わらずだった。だから三年間とはいえ、僕と彼女は数えるほどしか会っていなかった。
 夏が終わる頃、水曜日であっても彼女はこの場所からいなくなっていたから。
 僕にとっての夏は、いつしか彼女だった。
 彼女が水曜日にここに現れるようになって、いなくなるまでの期間。
 それが、夏だった。

「っと。じゃあそろそろ僕塾戻らなきゃ」
「ああ、うん。タイヘンだね」
「受験だからね」
「そっか。なおさらタイヘンだ」
 神妙に頷く彼女がなんとなくおかしくて、でも笑うのも失礼かななんて思ってちょっと笑いを噛み殺して僕は手を上げた。
「じゃ、またね」
「うん、ばいばい」
 手を振る彼女に背を向けて、僕は僕の街へと戻っていく。
 立てかけてあった自転車を引き起こし、またがって、坂道を登っていく。途中の十字路でレイヤを待つ。レイヤとは、中一の秋ごろから急に仲良くなり始めた。いまでは親友同士だ。大概のことは何でも話す。ただ、僕はひとつだけ秘密にしていた。水曜日の、彼女との時間を。
 少ししてレイヤがやってくる。僕はいつも通りレイヤと並んで塾へ向かった。僕の中の夏の水曜日は、この瞬間に夕暮れとおなじ意味を持った。



 こうして、今年も僕の夏ははじまり、進んでいく。今までと違っているのは僕が受験生だってことで、例年になく勉強の占める割合が増えたことくらい。でも、それさえたいしたことがないくらい彼女のいる夏はいつもどおりだった。
 風。陽射し。溶けていくアイス。セミの抜け殻。水の匂い。濃く伸びた影。時折走る電車の音。そして青。空も海も、ただ、青――
「ねえ」
 その日も、彼女はいつもどおり壁に背を持たせかけ、いつもどおり壁に背を持たせかけている僕に声をかけてきた。
「うん?」
「何回鳴ったかな、今日」
「風鈴?」
「そそ」
「数えてないよ」
「えー」
 つまんなーい、とちょっと不服そうに唇を突き出す彼女に肩をすくめる。
「わがまま」
「女の子はワガママでいいって法律で決まってるんですー」
「それは知らなかった」
「テストに出るよ」
「覚えとくよ」
 チリン。
 風鈴の音と同時に僕は頷き、彼女は屈託なく笑う。白い肌。少しだけ紅潮した頬。空を映しこんでいる瞳。そして風になびく長い黒髪。
 キレイだな、と思う。
 それは前から気づいていたはずなんだけど、どうしてだか今年の夏はその感想を持つ瞬間が増えていた。
 そうだった。
 それが、いつもの夏とやっぱり少しだけ違っていたんだ。
「――なに?」
「え?」
「なんか見てた」
「ああ、ごめん。別に……」
「ふーん?」
 また首をかしげ、彼女は海へと視線をやる。
 毎年毎年。毎日毎日。
 どうしてだろう。彼女はここから出ようとはしなかった。すぐそこにあるはずの場所へ、手を伸ばせば届くはずの場所へ、一歩を踏み出そうとはせず、まるで病室のガラス窓から見る空に焦がれるように、ここを動こうとはしなかった。
「――行く?」
「え?」
「海。行く?」
 僕の問いかけに彼女は二度、三度瞬きをして、それから。
 それから、ほんの少しだけ泣きそうに、笑った。
「いい」
 かすれた拒否の言葉に、僕は少し視線を落とし、小さく小さく頷く。
 なんとなく、思っていた。
 やっちゃったな、って。それはきっと、今までを壊す呪いの言葉みたいなものだった。
「僕、行かなきゃ」
「……うん」
 彼女の顔を見ることが出来ないまま、夏の扉を後にして歩き出す。
「ねえ!」
 背中に、声がかかった。振り返る。
 夏の境目で、番人が笑っていた。
 ストローハットを手に持って、笑っていた。
「あした、くる?」
 一瞬、心臓がきゅっと縮んだ。
 だってそれは、はじめてのことだったから。
 彼女から僕が来るかどうかを聞いてきたことも、水曜日以外をふたりの間に持ち出そうとしたことも。
 唇を開けるけど、少し乾いていてうまく声が出せなくて、もう一度閉じた。ちょっとだけ舐めて湿らせてから、もう一度、声を絞り出す。
「おなか、すいてなきゃね」
「アイスふたつ、買っとくよ」
「……じゃあ、くる」
「うん、またね」
 チリ、チリリン。
 風鈴の下で笑う彼女を、何となく見続けているのが苦しくて。
 僕はまるで逃げるようにその場を後にしたんだ。
 八月十日。とても暑い――暑い、日だった。



 その日から僕は、レイヤにはナイショで鞄の中に菓子パンをふたつ、忍び込ませるようになった。さすがにアイスだけじゃ中学三年男子の腹は満たされない。彼女とあの場所で、並びながら食べるようになった。ただし、もって行くのはメロンパン以外。どうやら好物らしくって、最初の日に持っていったら半分くらい取られてしまったから。
 会話もちょっとだけ増えた。
 相変わらずどうでもいいような会話だけれど、海を見ながら僕らは他愛ない話をする。
 少しだけ形を変えて。
 それでも、いつもの夏は過ぎようとしていた。
 あの日までは。



 いつものように、あの場所で、僕らがそろって並んでいるときだった。
 チリン……リリン。と鳴る風鈴の音を、かき消す声が響いた。
「シュン!」
 レイヤ――だった。
 僕は驚いて菓子パンを落っことして、彼女はきゅっと唇を引き結んでいた。
「やっぱなー、おまえ」
「レイヤ、なんで」
 慌てて菓子パンを拾って、何となく彼女を背中側にしてレイヤと向き合う。レイヤは汗の浮かんだ額を一度ぬぐってから、苦笑のような、安堵のような、曖昧な顔をして見せた。
「デートだったらいいけどさー、俺にくらい教えてくれたっていいじゃんよ」
「そういうんじゃ」
 言いかけたとき、後ろに回していた腕にひんやりとした感触がした。彼女の手だ。
 僕の腕を握っている。
「あ、どもー。サーッセンッ、お邪魔して。レイヤっていーまーす」
「レイヤ、こら」
 彼女にへらへらと笑いかけるレイヤを押し出すために、そっと彼女の手をほどく。
「あ、ひでえ。ちょっとちょっと。シューン」
「うーるさい。いいから」
 レイヤを押して、道路側の出口へと向かわせる。その途中、振り返る。
 彼女はどこかぼんやりした顔でこちらを見ていた。
「ごめん。また……来るから」
 彼女は何も言わず、小さくこくんと頷く。その様子に少しだけほっとして、僕はレイヤを押し続けたまま、夏の扉の前を後にしたんだ。



「何で来たんだよ」
「だっておまえ、明らか最近ヘンだったべ?」
「べじゃない。なんなんだよもうー」
 自転車を漕ぎながら。僕とレイヤは並んで塾を目指す。
「いーじゃん。だって気になったんだもん」
「もんでもない。もー、もーっ、もーっ!」
「モーモー牛さんだっちゃ」
「だっちゃでもない!」
 キキッと自転車を止める。少しだけ先に行ったレイヤも自転車を止めて振り返る。
 僕はちょっとだけむすっとして見せて、言った。
「来て欲しくなかった」
「そうかよ」
 レイヤはつまらなそうに鼻をならして、ゆっくり自転車を漕ぎ出す。僕も追う。
「シュン」
「なに」
「あの子、名前は?」
 問われて。僕は一瞬口ごもる。それから努めてなんでもないように、
「知らない」
 と、言った。
「はっ!?」
 キキッ――と、今度は音を立ててレイヤが自転車を止める。
「今おまえヘンなこと言わなかった!?」
「なにがだよ」
 僕はなんでもない風を装いながら、止まることなくレイヤを追い抜かしていく。レイヤが後ろからついてくる気配を感じる。
「名前、知らんの? 彼女じゃねえの?」
「知らないしだから彼女じゃないって」
「え? 何? 通りすがり? 違うよな」
「違う。毎年会ってる」
「毎年? は?」
「中一の夏から、夏の間だけ」
 言うと同時に、ふっと着いてくる音がやんだのが分かった。ゆっくり自転車を止めて振り返る。
 道の真ん中。木漏れ日の下のレイヤがちょっとだけ青ざめた顔で立っていた。
「……おばけ?」
「アホウ」



 とりあえず、レイヤにとって僕と彼女の関係は『意味不明』とのことだった。
 まぁ、普通はそうなんだろう。僕は彼女の名前も知らないし、年齢だって知らない。それは彼女だっておなじで、僕は今まで彼女にちゃんと名前を言ったこともなかった。
 今日、バレたわけだけど。
 午後十時。ベッドの上で自室の天井を見上げながら、僕は今日あったことを反芻していた。
 リン……と耳の中であの風鈴の音がする。
 ほんの少しうつむいた彼女の顔。その頬に落ちていた影。そして僕の腕を掴んだひんやりとした指先。鼻を刺すような、潮の匂い。
 いろんなものが、音が、色が、頭の中を離れなかった。
 どうしてだろう?
 僕は僕に問いかける。
 どうして今まで、水曜日だけでよかったんだろう。
 どうして今まで、名前も知らずにいられたんだろう。
 どうして今まで、あの場所と時間を知られたくなかったんだろう。
 どうして。
 答えは簡単で、でも、それを告げたところでレイヤが納得するとも思えなかった。
 僕にとってあそこは特別だったんだ。
 ちいさな頃、海水浴場で見つけたシーグラスが宝石より輝いて見えたみたいに、そしてそのシーグラスを誰にも触らせたくなかったみたいに、特別な場所で。特別な時間で。特別な存在で。
 それは何か、ほんのわずかでも狂ってしまえば『特別』でなくなってしまう、脆いもので。
 僕はそれを守りたかったんだ。
 あの、暗い中から見える夏を。夏の扉を。夏の番人を。僕の――僕の『夏』を。
 ずっと守りたかった。だから、壊れ物のように扱っていた。余計なことに触れずに来た。
 でも。
 僕は僕に告げる。
 今年は何か、違っていたじゃないか。水曜日の法則を違えても、彼女と会うことが出来るようになったじゃないか。
 だったら、たぶん、大丈夫だ。
 壊れ物のように不安定な時間だと思っていたけれど、きっと、大丈夫だ。
 明日、また行けばきっとそこに彼女はいる。
 何度も何度も。僕は僕にそう告げて、自分を納得させようとした。
 でも。
 ざわざわとした胸の奥を結局ごまかせなくて。
 僕はこっそり家を抜け出して、自転車にまたがった。



 夏の大三角形が、見下ろしている。
 まだぬるい夜風を切って、僕は一目散に坂を下りていく。いつもの草むらに自転車を置き、ひとつ、深呼吸して海の匂いを肺にこめて、歩き出す。
 そして。
「……いた」
 いつもの場所。壁に背を預けて、でもいつもみたいに立っているのではなくその場にしゃがみこんで。
 いつもよりずっとずっと暗い場所。頼りなげな明滅する切れかけた蛍光灯だけの場所に、彼女はいた。
「なにしてんの」
 彼女は振り返る。
「うみ、みてた」
「夜に?」
「いつもお昼だから。たまにはいいかなって」
「そう」
 弾む息を整えながら近づいていく。カツン、と足音が反響して、重なるように風鈴の音がした。
 彼女のそばまで行って、僕は手を差し出す。ほんの少し躊躇した後、彼女は僕の手を掴んだ。引っ張りあげて、立たせる。
 同時に、電車が頭上を通る音がした。大きな音が、僕らを包む。
「――」
「え。なに?」
 彼女が何かを言ったようだったけど、音にかき消されて聞こえなかった。彼女は笑ってなんでもない、と言うように首を振った。
 少し迷って。
 僕は彼女の手を引いた。
「海」
「え?」
「行こう」
 戸惑うような視線を、僕は正面から受け止めた。でも、いつかみたいに彼女はすぐにノーとは言わず、ゆっくり、だけど確かに頷いた。僕は少し息を吐き、彼女の手を引いてゆっくり歩き出す。
 あの、入っては行けなかった扉の向こうへ。

 チリ……ン

 頭上で、風鈴が鳴った。
 一歩、外へ踏み出すと同時、暑い夏の夜の潮風が全身を包み込む。誰もいない。僕と彼女は連れ立って、ゆっくり、ゆっくり、海辺を歩いていく。月明かりがまぶしかった。
「特別だったんだ」
「え?」
 僕の言葉に、彼女は顔を上げた。
「特別だったんだ。僕にとって、あの場所と、あの時間と、が」
 さすがに、君が、とは恥ずかしくて言えなかった。
「なのに、なんかごめん。昼。レイヤ、きちゃって」
「ううん。ともだち?」
 いつもの調子の会話が始まって、僕はようやく少し笑えた。
「うん。一番仲がいい」
「へえ。面白いヒトだったね」
「うん。面白いヤツだよ」
 月明かりに伸びる自分たちの影を追いかけるように、僕らはゆっくり歩いていく。
「レイヤがさ。僕たちのことヘンだって言ってた。名前も知らないのに、ずっと会ってるの」
「うーん。ふつーはそうかな。でもわたしはヘンだって思わない」
 彼女の笑みがなんだか嬉しくて、僕は足を止めて空を見上げた。
「わたし、君のこと好きだよ」
 ――唐突な。
 唐突な、言葉だった。
 空を見上げたまま僕は硬直してしまった。その『好き』がどういう意味を持っているのかは判らないけど、でも、唐突な言葉だった。唐突で、特別な。
「あの時間、わたしにとっても特別だったの。だからね、ずっとあのまま、あの時間が続いて欲しくて、でもなんか、怖いじゃない。すぐ壊れちゃいそうで、なくなっちゃいそうで、それに、なんかもっと一緒にいたくなって、水曜日以外も、ってお願いしたら君は来てくれた」
「……うん」
「嬉しかった。ありがとね」
 へへっ、と、彼女が笑う。僕は視線をゆっくり空から彼女へと下ろし、小さく笑い返した。
 トクン、トクンと。
 心臓が鳴っている。
 チリン、チリンと。
 風鈴が揺れている。
 特別はある。特別は確かに存在する。
 それはひどく曖昧で、壊れやすくて、不安定で、でもそれゆえにキラキラしていて、まぶしくて、怖くて、大切で。
 特別はある。
 僕らはお互い、特別を共有していたんだ。口に出すと壊れてしまいそうな、特別を。
 守り続けていた。信じ続けていた。だけど。
 目を閉じる。
 暗い高架下。その向こうに広がる、真っ青な海と空。ウミネコの声。潮の匂い。風鈴の音。揺れる氷のタペストリー。その夏の境目で、壁に背をもたせかけている彼女の姿。白いワンピース。ストローハット。アイスキャンディー。そして、風に揺れる髪。
 壊れない特別だって――きっと、きっとある。
 目を、開けて。
 息を、吸って。
 僕は彼女に告げた。
「秋のさ」
「あき……?」
「うん。秋の海って、見たことある?」
「……ない、かも」
「じゃあ、見よう」
「え?」
「見よう。秋の海。一緒に」
 夏だけじゃなく。いつの間にか出来上がった特別な時間だけじゃなく。
 秋も、また、特別にしていけばいい。
「キレイだよ。夕日が海に映りこんで、青じゃなくて、真っ赤になるんだ」
「……みる」
 照れたように、小さな声で。彼女が頷く。
 秋の海を見よう。真っ赤に熟れた海を見よう。
 冬の海も見ようか。寒々しくて、でも力強い海を見よう。
 春の海も見ようよ。きっと不思議と新鮮な色をしているはずだから。
 そうして、夏の海を見よう。
 来年もまた、一緒に。特別な時間を、壊れない時間を、紡いでいこう。
 さざなみの音が、静寂を包む。
「僕、シュンって言うんだ」
「シュン……」
 頷いて、笑う。
 名前を言ったって、壊れないさ。水曜日以外になったって。夏じゃなくなったって。
 この特別は、壊れない。
 そう――信じるから。
 僕は彼女に、問いかけた。
「君の名は?」
 夏の風が、吹いた。
 一瞬きょとんとした後、無垢な笑顔を浮かべて。

「わたしはね――」

 ――夏の番人が、笑った。


――Fin.

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飴村さんのイラスト、「夏のアイス」 illust/11134382 にときめいて書かせていただきましたん。ぜひ一緒にご覧ください!
……ぶっちゃけ2年近くぶりのオリジナル小説です……。
リハビリリハビリ。