「一回死ねばいいのよ、このくそったれ!」
 お皿と同時に飛んできた罵声は、彼女の口癖だった。うん。いつも叫んでいる。だから僕は、いつも通り割れずに絨毯に落ちたお皿を拾い上げながら、やっぱりいつも通りの台詞を口にする。
「知ってる、愛花ちゃん? 人間って一回死んだら生き返られないんだよ」
「そういう所がむかつくのよぉっ! 毎回毎回こっちが怒ってるのに何でそんな冷静なのよあんたはあっ!」
「知ってる、愛花ちゃん? 二十歳過ぎたら性格って変わりようがないんだよ」
「一回死ねー! 肉体的に精神的に社会的に一回ずつ死んで来いー!」
「それだと三回だよ、愛花ちゃん」
「六百回くらい死ねー!」
 僕は百万回生きた猫じゃないので、彼女の要求には答えられそうもない。
 僕の彼女は怒りっぽい。恐らく僕が想像するに、怒りのゲージが常に赤ランプ点灯ぎりぎりのところにあるのだろう。ちょっとしたことでいつも怒る。逆に僕はというと、怒りの赤ランプは幼少時に壊れてしまっていて、そのせいで怒ることが出来なかったりする。由々しき問題だが、これが意外に世の中を渡っていくには便利だったりする。修理はもう出来そうにない。まあ、いいかなとも思っている。
 愛花ちゃんと付き合い始めて、これで実は三年目だったりする。これは驚異的な数字といえる。ちなみに喧嘩の回数は、付き合った年数にゼロを二つたしてもまだ足りないだろう。もう一個くらいつければちょうどいいかもしれない。同棲なんてしちゃったもんだから、毎日喧嘩が一回ですめばその日はグレートなのだ。
 とは言え、喧嘩の理由はまあいつも大したことじゃない。今日の理由は、ごく単純。
 僕が寝ていたのが理由だ。
 といってもこれだけじゃなんとも理解がしがたいと思うので、少々詳しく説明すると、こういうことになる。つまり今日の朝、愛花ちゃんは出かけるといった。僕はそれを了承した。仕事も休みの日だったので、一日家でごろごろする予定だったし。家でごろごろは僕の好きな休日の過ごし方だ。たまにこの事でも喧嘩になるけど、今日は違ったので置いておこう。
 で、出かけるときにちょっとした事件は起きた。愛花ちゃんが家の鍵をなくしたのだ。これもまあ、珍しくない。愛花ちゃんの部屋はちょっとした樹海になっているから。そのくせリビングのテーブルに花を飾るのは忘れない辺りが、なんとも愛花ちゃんなのだ。まぁそんな愛花ちゃんが鍵がない時間がない出かけられないと騒ぐもんだから、僕はちょっと助け舟を出した。つまり、今日は一日家にいるから、鍵なくても平気だよ、と。ここまで来れば判るだろうか。ようは僕は自分でそう言ったくせに、寝ていてチャイムに気付かなかったのだ。これは大きな過ちだった。おかげで夜の十時に帰ってきた愛花ちゃんは、寒空の下で二時間待った。僕は十二時に尿意で起きて、はたと気付いて玄関を開けた。待っていたのは洗練された、愛花ちゃんのコークスクリューパンチだった。これが結構痛かった。
 腹を抱えながらリビングに愛花ちゃんを連れ込んで、マシュマロ入りのココアを作って手渡した。愛花ちゃんは暫く無言でココアをすすって、それからすっくと椅子から立った。そのまま無言で食器棚を開け、二枚、三枚食器を出して、僕ににっこり笑顔を向けた。
 そして冒頭に戻るわけだ。
「悪かったよ。本当にごめん、反省するよ。お風呂入れるよ、入るでしょう?」
 全面的に僕が悪かったと思うので、素直に僕は謝った。とは言え、僕が悪くなくても謝るのはいつも僕だったりするのだけれど、まぁ、仕方ない。謝らないから愛花ちゃんなのだ。
 ところが愛花ちゃんは力尽きたように床に座って、ぐったり頭を垂れていた。僕は少々不安になって、しゃがんで愛花ちゃんを覗き込む。
 愛花ちゃんは、小さい。一五○に少し足りない身長で、ふわふわした髪があいまって、時々中学生くらいにも見えてしまう。そんな愛花ちゃんだから、こうしてぐったり座っていると、今にも消えてしまいそうに感じるのだ。
 ふわり。
 愛花ちゃんからいい匂いがした。シトラスみたいな、柑橘系の爽やかな香り。いつも使っている香水と、少し違うなと意識した。
「愛花ちゃん?」
 僕の呼びかけに、愛花ちゃんは少し顔を上げた。子供みたいな丸みを帯びたほっぺたに、大きな目。その目が少しだけ、潤んでて、だから僕はぎくっとした。愛花ちゃんが怒るのはいつものことだけれど、泣くのはめったなことじゃない。そんなに酷いことをしたのだろうかと、僕はいまさら胸が痛んだ。
「ごめん、愛花ちゃん」
「……ちゃんと起きてて」
「うん。そうする」
「ちゃんと、見てて」
「愛花ちゃんを?」
「そう」
 時々、愛花ちゃんは甘えたになる。今がそうだ。僕の服のすそをぎゅうと掴んで、赤ちゃんみたいに僕を見る。上目遣いは愛花ちゃんの仕様。だってなにせ、小さいから。それでもどきんとしてしまうのは、これもやっぱり仕様だろう。だってなにせ、僕は男だから。
「ちゃんと、見てて」
「見てるよ。ほら、お風呂はいっておいでよ。風邪引くよ」
 僕の言葉に、愛花ちゃんは服のすそを握る手に力を込めて、首を傾げてこういった。
「一緒に入ろう?」
 僕は少しだけ笑って、愛花ちゃんにキスをした。





 僕らはたぶん、単純だ。すぐに怒る愛花ちゃんと、怒ることが出来ない僕。よく持ってるねと時々友人に言われるけれど、僕はやっぱり愛花ちゃんが好きなのだ。
 だってほら、愛花ちゃんは僕にないものを沢山持っているから。
 怒ることだけじゃなくて、いっぱい笑ったり泣いたり出来る愛花ちゃんは、やっぱりすごいと思うのだ。僕にはそれが出来ないから。愛花ちゃんは時々僕のそういうところを怒るけれど、こればかりは仕方ない。感情の箱が少なくて、それでやっぱり全ての点灯ランプが壊れてる。元気に笑う黄色いランプも、悲しくて泣く青いランプも、怒りの赤ランプと同じように、僕はちょっぴり壊れてる。寂しくないのと訊かれるけれど、慣れちゃったから判らない。
 それに、今は寂しくないとはっきり言えた。
 僕の壊れた感情ランプは、愛花ちゃんが代わりにいつも灯してくれるから。


 そう、ずっと、思っていた。





 その日は朝から雪が降っていた。
 雪だ雪だとはしゃぐ愛花ちゃんと、寒いから降るなと呟く僕とで、やっぱり朝から喧嘩になった。即席布団虫になった僕に、愛花ちゃんはさらに怒って僕から布団を取り上げた。休みなんだからゆっくりしたいのに。
 そんなごろごろ僕とは正反対に、愛花ちゃんはすっかり着替えも終えていて、どうやら今日も出掛けるみたいだった。
 リビングのテーブルに咲いたカスミソウを指でつついて、愛花ちゃんはにっこり笑う。なんだか妙にご機嫌だ。花瓶の水を入れ替えて、僕の前にトーストを置く。
 さあ胃癌になりなさい。
 そういわんばかりの黒こげ具合だけれど、たぶん半年振りくらいに愛花ちゃんが作ってくれた朝食だから、文句も言わずにぱくついた。舌と食道と胃袋がちょっぴり悲鳴を上げるけれど、まぁちょっぴりだから大丈夫。だとイイナと思う。
「珍しいね、愛花ちゃんが作ってくれるなんて」
「失敗したけどね」
「食べられるから大丈夫だよ。作ってくれて嬉しいし」
 僕の言葉に愛花ちゃんは一瞬口をつぐんだ。素直にこういうことを言うと、愛花ちゃんは照れるのだ。そういう反応が僕は好きで、してやったりと少し思った。にっこり笑って見つめてみたら、愛花ちゃんは目を逸らして立ち上がった。
「愛花ちゃん?」
「そろそろ行くね。時間だから」
「うん、そっか。いってらっしゃい」
 ひらりと手を振って、僕は愛花ちゃんに笑いかける。今日はうっかり寝ないようにしないと、コークスクリューパンチだけじゃすまなさそうだ。ちゃんと起きていようと決意する。
 立ち上がった愛花ちゃんから、またふわりとシトラスの香りが流れてきて、僕はついでに付け加えた。
「香水変えたの? いい匂いだね」
 愛花ちゃんは足を止める。それから、背中越しに振り返らないまま答えてくれた。
「うん。貰ったんだ」
 愛花ちゃんは、いい友達がいるんだなとそう思った。




 愛花ちゃんがいないと、とてつもなく暇だったりする。
 テレビでバラエティを見ながらも、うっかりするとこくりこくりと舟をこぎそうになる。何とか耐えて夕方の五時。晩御飯はどうしようかと冷蔵庫を開けてみて、何にもないことに気付いてみた。これには少しびっくりして、何故なのだろうと考えた。それからゴミ箱を開けてみて、なるほどと納得した。料理になりそこなった具材たちが、さようならと合唱をして縮こまって埋まっていた。愛花ちゃんはトーストの前にこの具材墓場を生み出したらしい。ちょっぴし罪だ。仕方ないので服を着込んで外に出た。相変わらず雪は降っていた。晩御飯の買出しに、定期でいける少し先のスーパーを選ぶ。近場のスーパーは日曜日は高いのだ。主夫の僕は、それに少し耐えられない。
 乗り換えの主要駅でもあるそこは、そこそこ混んでいて賑わっている。人だって多い。駅地下に作られた僕が目指していたスーパーも混んでいる。沢山の人がいる。
 沢山の、人がいる。
 それなのに、僕は出会ってしまった。見つけてしまった。
 スーパーで食糧を買い込んで駅地下に出て、沢山のショップの前で、見つけてしまった。

 愛花ちゃん。

 僕の知らない男性と、手を繋いで歩いてる。
 綺麗だった。
 いつも見てる怒り顔じゃない。幸せそうで、優しげで、雪の降る中暖かな笑み。
 不意に鼻をシトラスが香って、それから、ああ、と納得した。納得したら納得したで、右手の荷物がずしんと重たくなって、僕は苦笑を漏らしていた。悟られないようにばれないように、雪の降る中家路に着いて、それからしばらくじっとしていた。
 チャイムが鳴って、僕はゆっくり顔を上げる。





「ただいま」
 玄関で愛花ちゃんを迎え入れ、僕はそっと微笑んだ。愛花ちゃんの好きなココアを入れて、リビングのカスミソウを指でつつく。
 愛花ちゃんは暫く無言で、僕の指先を見つめていた。それから不意に口火を切って、僕を見上げてこういった。
「カスミソウって、散るのかな」
「散るんじゃないかな。花だから」
「うん。そうだね。きっと散るね」
「愛花ちゃん」
「なぁに」
「僕らも散ったりするのかな」
 僕の言葉に、愛花ちゃんは小さく笑った。
「うん。そうみたい」
 その笑い方はなんだか少し寂しげで、僕はどうすればいいのか判らなかった。どうすればいいのか判らないときに、僕はいつも微笑ってしまって、それでよく愛花ちゃんに怒られるのだけれど、今日は愛花ちゃんは怒らなかった。ただ少しだけ目を伏せて、小さく小さく微笑んだ。
「見てたでしょ」
「うん。ごめん」
「声、かけなかったね」
「うん。ごめん」
 言葉が小さく部屋に溶けて、静寂がその場を占拠した。僕らは暫くお互い無言で、どうすればいいのか判らなくて、だから静寂を追い出せなかった。
 窓の外には雪が舞っていて、カスミソウと同じみたいに白く白く儚げだ。
 不意に愛花ちゃんが立ち上がって、食器棚へと向かっていった。僕は愛花ちゃんを視線で追って、椅子に座ったまま微笑んでいた。

「一回死ねばいいのよ、このくそったれ!」

 お皿と同時に罵声が飛んだ。いつも通りのいつもの台詞。だから僕は、いつも通り割れずに絨毯に落ちたお皿を拾い上げながら、やっぱりいつも通りの台詞を口にする。
「知ってる、愛花ちゃん? 人間って一回死んだら生き返られないんだよ」
「なんで怒らないのよ、何であんたが謝るのよ馬鹿! 馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿!」
 愛花ちゃんは泣いていた。僕に馬鹿といいながら、僕を怒鳴りつけながら、ぼろぼろ涙を零してた。
 何で怒らないんだといわれても、僕には少しどうしようもない。
 だって僕の赤ランプは、昔から壊れている。点灯しようがないんだと、そう説明したって納得してもらえるとは思えない。だから僕は口をつぐんで、愛花ちゃんの罵声を聞く。
「怒鳴ってよ! 何でそういうことしたんだって聞いてよ! あれは誰だって、聞いてよ!」
 言えないよ、愛花ちゃん。
 僕は少し寂しくなって、だから少し笑う。
「朝ごはん、作ろうとしてくれたんだね、今日」
「作れなかったの! あたし下手だし、ちゃんと出来ないし、罪悪感ばっかで、自分がすごく嫌だった! あんたに何かしなきゃって思って、あんなことしたけどやっぱりそれじゃ苦しくて」
「そっか」
 自分が何を言っているのか、きっと愛花ちゃんは判っていない。怒るとき、愛花ちゃんはいつもそうだ。
 だから僕は愛花ちゃんの言葉を遮って、愛花ちゃんを見つめた。
 シトラスの香りが、鼻をくすぐる。
「ありがとう。愛花ちゃん」
 僕は、愛花ちゃん、僕はね、君を止められない。
 だって僕は、見てしまったから。
 夕方の君の笑顔を。
 あんな幸福そうな笑みを、僕は見てしまったから。
 僕は泣き崩れた愛花ちゃんの小さな背中をさすって、それから決意して微笑んだ。
「愛花ちゃん。別れよう?」
 愛花ちゃんは泣いていた。自分勝手に泣いていた。
 僕はそれでも、愛花ちゃんが好きだった。だから、愛花ちゃんに笑っていて欲しかった。
 僕と一緒にいると、愛花ちゃんのあの綺麗な笑顔が消えるんだと、気付かされてしまったから。
「幸せになってよ、愛花ちゃん」
 僕の言葉は雪みたいに、ゆっくり部屋で溶けていく。





 愛花ちゃんのいなくなった空白は、少し切ない。
 僕は感情のランプが壊れていて、その隙間を埋めてくれる愛花ちゃんをやっぱり必要としていたのだと気付かされる。
 それでも時間は過ぎていって、やがて痛みは思い出に、空白は日常になる。
 一人で食器を洗っていて、僕は少しだけ微笑んだ。一人分の食器だと、洗剤だって少なくてすむ。そんなことを考えていたら、つるっと手が滑って、食器が流し台の中で派手な音を立てた。
 でも、割れない。
 割れない陶器で出来ているお皿だから。いつも愛花ちゃんがお皿を投げるから、これは危ないと思って僕は愛花ちゃんに内緒で、家中のお皿を割れない陶器に変えたんだ。
 部屋にはやっぱり、そうやって、愛花ちゃんの匂いが残っている。
 リビングのテーブルに置いた花瓶は、一度は片したのだけれど、ないとやっぱり寂しくなって、結局再び出してきた。カスミソウは切なくて飾れなかったから、それ以外の花を飾った。
 窓の外に雪はもう降ることはない。
 愛花ちゃんが好きだった日めくりカレンダーは三月末。もう春だ。

 
 春は愛花ちゃんの季節だ。
 今年は、怒らないで笑顔で誕生日を迎えてくれていたらいいのだけれど。


 だって春は、花の季節だから。
 愛花ちゃんの笑顔が美しく咲けばいいと、僕は願う。



――Fin.

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お題バトル参戦作品。
テーマ:悲恋 お題:空白 散る 背中 過ち 
制限時間一時間半スタートの、誰も完成しなかったので結局三十分延長で二時間に。