「宏兄、花火しよ」
 七月七日。夜、八時二十分。
 バイトから帰った俺を待っていたのは、玄関前で立ち尽くしている従妹の由梨香だった。
 近所で夏祭りがあるわけでもないのに、きっちりと着込んだ金魚模様の白い浴衣姿。子供特有のさらさらとした細い髪は結い上げてアップにしてある。片手には空っぽのバケツ。もう片方の手にはぎっしり買い込んだ様子の花火をまとめたビニール袋。
 唐突な由梨香の姿に呆然としている俺にかまわず、由梨香は大きな目で俺を見上げながら、
「――宏兄、花火しよ」
 有無を言わさない口調で言い切った。



 十歳年下の従妹の由梨香は、今年で小学四年生。そろそろ小生意気になろうという年頃ではあるんだが、未だに兄離れが出来ないでいるらしい。
 互いの家が歩いて五分という場所にあるせいか、感覚的には従妹というよりは妹に近い。由梨香からしても、俺はたぶん兄代わりなんだろう。普段から付きまとってくるのだが、時折今日のような奇行に走る。
「……なんでいきなりそんな格好」
「花火」
 こちらの問いかけなんてまるで無視で、由梨香は言いたい事だけきっぱりと言ってくる。
「由梨香ちゃん。宏兄帰ってきたばかりで多少こう小腹がですね」
「花火」
「……ゆり」
「は・な・び」
 ――拒否権はないらしい。
 俺はため息を飲み込むと、小さい由梨香の頭に軽く手を滑らせた。
「かばん置いてくるからちょっと待ってろ」
「っ♪」
 満面の笑顔で由梨香が小さく飛び跳ねた。





 由梨香の手を引きながら、近くの公園まで足を進める。もともと歩幅が狭い上に今日は浴衣なので、由梨香の歩みは普段以上に遅い。時々軽く跳ねるように歩く由梨香にあわせて、ゆっくりとゆっくりと歩いていく。右手には空のバケツ、左手には由梨香の小さな手。
 梅雨の合間の晴れた夜空は、ただ一色の濃紺ではない。雲のかかっている部分は濃く、星が瞬く部分は明るく見える。僅かに鼻腔をくすぐる雨の匂いは、昼間の名残だろう。
「今日七夕だよ、宏兄」
「ん?」
 手をつないでいる由梨香が俺を見上げながら言ってくる。
「た・な・ば・た! 織姫と彦星が会える日」
「ああ、そうだっけか。短冊書いた? 由梨香」
 普段生活していると、そんなことは忘れてしまう。俺たちの年齢なら仕方ないだろう――ただ、こうして由梨香がいると、こういったことも覚えていられるのはなんとなくうれしい。
「書いたよ、二つ」
「……欲張りだな、お前は」
 いつものように頭に手を乗せようとして、由梨香の頭が綺麗に結い上げられているのを見てやめにした。どんなにちんまくても女は女というべきか、髪を綺麗にセットした後にやると怒られるのだ。代わりに軽く、頬を叩く。
「女は強欲な生き物なのよ」
「……どこで覚えてきたそんな台詞」
「宏兄の知らないところ」
 ああそうかい。
 はぁとため息をついたところで、公園に着いた。この公園の外灯は、ベンチのそばに一本だけ。それでも近所の家々の明かりがあるせいで、思ったよりは暗くない。
 そばに、笹の葉飾りが作られていた。子ども会のものらしい。色とりどりの短冊が、風に吹かれて揺れていた。
 由梨香ご持参の花火の入ったビニール袋をベンチにおいて、空のバケツを片手に水のみ場まで移動する。じっと待ってるか、花火の袋を開けだすかと思ったが、由梨香は水を入れる最中も俺のそばを離れないでぴったりとくっついてきた。これはさすがに、少々珍しい。
「どしたよ?」
「んーん」
 水を入れ終わったバケツを持って訊ねるが、由梨香はあいまいにそう答えるだけだ。しかし俺の服の袖をきゅっと握っている様を見る限り、何もないとは言えないだろう。
 ――友達と、喧嘩でもしたかな。
 苦笑をこらえてぽん、と由梨香の背中をたたく。何があったのかは判らないが、ともあれ今はこいつが気晴らしをしたいのなら心行くまで付き合ってやろう。それが、あと少ししか一緒にいてやれない兄の役割だ。





「きゃーっ、きれいきれいきれいっ! 見て見て宏兄!」
 甲高い歓声をあげながら、由梨香が走り回る。人気のない夜の公園に、赤と緑の花が散る。
 花火とはよく言ったもんだ、と思う。飛び散る火は一瞬あでやかに咲いて、そしてすぐに終わりを迎える。確かにその様は花に良く似ている。
 火薬独特の匂いが鼻を突いて、またひとつ花が散る。由梨香はその度に切なげな顔をして、水の入ったバケツへ一度花火を突っ込んでから、ビニール袋へごみを捨てる。
「花火って、何ですぐ終わっちゃうんだろうね」
「ずっとバチバチやってたら、綺麗でもなんでもないだろ」
「そんなもの?」
「たぶん。一瞬だからいいんだよ、そういうのはな」
「ふぅん」
 刹那ゆえに持つ美しさなんて、小学四年生の女子に説いたところで判るとは思えなかったが、俺はいつもどおりの口調でそういった。由梨香は子ども扱いされることを極端に嫌う。だからこそ、対等に話すのが、俺なりの由梨香との付き合いだった。
 由梨香は浴衣の袖を口元に当てて、何か考えるように目を伏せた。もともと顔立ちは大人びているほうだから、こういう表情をすると幼いながらに叔母を思わせるような雰囲気をかもし出す。ここの母子は、よく似ているんだなと改めて認識させられる一瞬だ。さすがにまだまだ色香には程遠いが、愁いを帯びた、なら通るだろう。そんな横顔に、一瞬心がざわめいた。憂い――何を、憂いている?
「由梨香?」
 呼びかけに、由梨香は答えない。
「どうした? お前今日変だぞ?」
 その一言に、憂い顔が一気に子供じみたふくれっ面になった。ふくれっ面のまま、残ったわずかな花火から適当なのを二本選び、一本こっちに突き出してきた。
「付き合ってくれるんでしょ?」
「……はいはい」
 聞いて欲しくないのなら、そっとしておくべきなのだろうか。昔は何でも相談してきたのに、この頃じゃさすがに全て話してくれるわけじゃなくなった。兄離れはまだまだだとしても、由梨香も成長はしていて、そして俺との距離が生まれてくる。それはきっと、どうしようもないことなんだろう。
 ふいに思い出すのは、由梨香が幼稚園の卒園アルバムに書いた『しょうらいのゆめ』だ。叔母が大笑いしながら見せに来たそれには、つたない子供の文字で『ひろにいのおよめさん』とあった。うれしかったり恥ずかしかったりひたすらばかばかしくて笑えたり、と一度にいろんな感情が俺の中で膨れたせいでどういう表情をすれば判らなかった。そんな俺の姿を見て、叔母はもう一度大笑いしていた。
「宏兄?」
 花火の火で赤く色づけされた由梨香が、俺の顔を覗き込む。にっと笑ってやると、由梨香も満面の笑みを返してきた。
 赤い花が散る。
 青い花が咲く。
 緑の花が開く。
 少し前まで濃紺だった公園は、今は色鮮やかな花が次々と咲いては消えていき、色彩のパレードのようになっていた。ひとつ花が終わるたび、火薬の匂いは増していき、初夏の風に濃く混じる。火薬の匂いが混じった風が短冊と笹を揺らし、さらさらと音を広げる。
 屈託なく由梨香は笑い、俺も笑っていた。その笑顔は、大学で浮かべるそれとはきっと、質が違うものだ。ただ美しいものに笑顔を浮かべる、浮かべられるそれは、年を経ていけば失われてしまう、言葉にすれば陳腐な『純粋』ってやつなのかもしれない。由梨香は大人びてはいるがまだ子どもで、両方を兼ね備えていられる時期なのだろう。
 それもまた刹那ゆえの美しさのひとつなのかもしれない。花火と同じで、一瞬の時期だからこその、美しさ。
「あーあ。もう花火、これしか残ってないや」
 ふうっと寂しげに息をつき、由梨香が最後の花火を手にした。
 線香花火が、二本。
「はい、宏兄」
 由梨香が一本、こっちに渡してくる。受け取ると、由梨香が静かに微笑んだ。それからふっと空を仰ぐ。
「見えないね」
「え?」
「織姫と彦星。雲、出てきちゃった」
「あ。ああ……」
 見上げると確かに、先ほどまでは微かに覗いていた星空もなく、雲に覆われた夜空がぺったりと広がっているだけだった。由梨香は寂しげに足元の石を蹴ると、ゆっくりと笹飾りのほうへと歩き出した。途中で振り向いて、告げてくる。
「宏兄。線香花火、短冊の下でやろう」





 笹の葉に括り付けられた色とりどりの短冊には、子供たちの夢が踊っている。野球選手になりたい。まんが家になりたい。中学受験受かりますように。100万円欲しい。――若干リアルなのもあれば、それは絵馬に書くべきだろうと思うものもあるが、それでも夢は夢なのだろう。
 その短冊の下で、俺たちは線香花火に火をつける。火をつける寸前で、由梨香がにっと笑みを浮かべる。
「比べっこしよっか」
「あ?」
「どっちが長く持たせられるか。早く落ちたほうが負け。負けたほうが言うことひとつ聞くの」
 ――子どもだなぁ。
 小さく笑って、頷いた。
「あいよ。いいよ」
「言ったね。約束だからね!」
 真剣な顔で由梨香は言って、花火に火がつけられる。微かな火薬と紙の燃える匂いを放って、金色の火花がぱちぱちと命を瞬かせる。由梨香の顔が金色に縁取られていた。真剣なまなざしが、何かを祈るようにも見えた。
 ……負けたら、何を言われるんだかなぁ。
 こういうことを持ち出すときは、たいてい由梨香にはもう決めた何かがある。俺はさてどうしようかと思案しかけたとき、ぽとっと切ない音を残して俺の花火の種が落ちた。
「あ」
「やった! 由梨香の勝ち!」
 由梨香が小さく歓声を上げた。まだ由梨香の花はきらめきを放っている。諦めて、笑った。少しの間、火が落ちるまで見続ける。やがて花火の種は地面に落ちて、今夜の色彩パレードは終了を告げた。
「あーあ、おしまい。残念」
「だな」
 由梨香はぐっと伸びをした。小さな手が、すぐそばにある笹の葉に触れる。風に吹かれる笹の葉を見上げて、由梨香は静かな声で言った。
「宏兄。由梨香、知ってるんだよ」
「ん?」
「大学卒業したら、宏兄、いなくなっちゃうんでしょ」
 短冊から視線をはずし、由梨香の小さな目が俺を射抜いてきた。
 小さな従妹は、俺を見上げて静かに告げた。
「叔父さんから聞いたの。大学出たら、東京に就職するつもりだって」





 それは高校の頃から決めていたことだ。俺がやりたいのは出版関係の仕事で、大手企業はどうあっても東京のほうが有利だった。バイトをしているのも、引越しその他の資金集めが目的だ。
 まだ就職が決まったわけじゃない。それこそ短冊に書くくらいのレベルの漠然とした夢だ。それでも、多分俺は東京に行くだろう。昔から、決めたことは行動しないときがすまない性質だった。
 言うべきだとは判っていた。由梨香に言わないといけないとは判っていた。ただ、言った後この小さな従妹がどんな顔をするか想像するたび、言葉は胸の奥で黒い色をした埃になって積もっていった。
 言うべきだった。
 本当なら、俺の口から告げるべきだったのに。
「由梨香……」
「怒ってないよ、由梨香。宏兄の夢、知ってるもの。よくは判んないけど、東京に行くほうがいい夢なんでしょ?」
 このまま福島にいるよりは。
 由梨香の台詞に俺は肩の力を抜いて、静かにひとつ、頷いた。
「……わかってる、もん。だから、さみしいなんて言わない。でも、だからいまは、ちょっとでもいいから、多く一緒にいたいの」
 小さな彼女の、精一杯の口調に、苦しいくらい胸が熱くなった。だから俺も精一杯、微笑んだ。
「ありがと、由梨香」
「どーいたしまして」
 さみしがってないわけがない。今夜のこの奇行は、きっとそのせいなのだろう。小さな体に、どれだけの思いと優しさを詰め込んで立っているのだろう。由梨香の視線にあわせて微笑んでみると、由梨香も精一杯の笑みをくれた。
「ま、まだまだ、時間あるから」
「うん。卒業まで、まだまだね。でも卒業まで、いっぱい遊んでね?」
「はいはい」
 小さなほっぺを軽くたたいてやった。由梨香がくすくすと笑う。
「ねぇねぇ、宏兄。由梨香、二枚短冊かいたって言ったでしょ?」
「あー。欲張りな」
「ちっがうよ。仕方ないんだよ。学校と、子ども会。二回書かされるのっ」
 さっきとは違う反論をしてきて、ぽかぽかとこっちをたたいてくる。
「でも、願い事はひとつなの。判る?」
「判るかい」
 もう一度ほっぺをたたいて軽口を返してやる。由梨香は腕を組んで盛大にため息をついた。
 空を見上げる。
 まだ雲の広がる夜空に、織姫と彦星は見えない。さらさらと静かな笹の音が耳に優しかった。
「もー、宏兄ダメダメね!」
 由梨香が笑った。
「それは今から由梨香が言う、お願いと同じだよ」
 ――ああ。約束。有効か、やっぱり。
「何ですか、由梨香さん」
 諦めて問いかける俺に、由梨香は大人じみた微笑みで、言った。

「由梨香を、宏兄のお嫁さんにしてください」





 一瞬言葉を失った俺に、由梨香はくすくすと、まるで叔母の表情そのままに笑う。
「子どものせりふだなんて思わないでよ?」
 恐るべし、小学四年生。まるで獲物を見つけた猫みたいに、にっと笑みを浮かべながらそう言ってくる。
 頭の中では、由梨香の卒園アルバムの文字が躍っていた。
『しょうらいのゆめ ひろにいのおよめさん』
 ――ひろにいの およめさん――
「えーと……」
「宏兄超鈍い! 反応鈍い! もーっ、一世一代の告白なのよー!?」
 テンション高ぇよ、お前。
 言おうにも、声がでなかった。呆然とする俺の前で、由梨香は拗ねた様子で唇を突き出す。
「由梨香、本気だよ。ばかにしないでね?」
 小さな手が、俺の手を握ってきた。見上げてくる、茶色の丸い瞳に、俺が映っている。
「由梨香はずっと、宏兄のことが好きでした」
 子ども特有の甲高い声で、それでもしっかり告げられたその台詞は、微かな笹の音に揺られて風に溶けていく。
「今ももちろん、すごく好きです。由梨香を、宏兄のお嫁さんにしてください」
 小さくても、由梨香は本気で言ってくれている台詞だと、確かに感じた。
 ゆっくり、俺の顔に笑みが浮かんでくる。意識せずとも、自然にわきあがってくる優しい感情だった。
 ぽん、と由梨香の肩に手を置いて、視線を合わせる。
「由梨香」
 子ども扱いすれば、由梨香は傷つくのだろう。
 だからこそ、今の俺が伝えられる真実を、伝えるべきだと思った。
「ありがとな。すげー、うれしいよ」
「宏兄」
「だからな。もう少し待て」
 俺の台詞に、由梨香がきょとんと目を瞬かせた。
 小さな、小さな、それでも確かに恋をしている一人の女に、俺が告げられる思いを、伝えよう。それがおそらく今の俺が出来る、精一杯だ。
「別に、由梨香を子どもだと思って、答えをはぐらかしてるわけじゃない。ただな、由梨香はやっぱりまだ十歳で、これからいろんな人にあって、いろんな思いを抱いて、大きくなっていく。それで、綺麗になっていく。そうしている間に、すごく大切な人にも出会うかもしれない」
 十歳の彼女では見ることの出来ない世界がある。
 ひとつひとつ齢を重ねて、得られるものが確かにある。それを、彼女に知って欲しかった。
「だから、今宏兄は由梨香の願いをすぐには叶えることが出来ない。約束なのに、ごめんな」
「宏兄」
「だけど、由梨香が大人になって」
 何かを言いかけた由梨香の唇を、人差し指でそっとふさいで。
 揺れる短冊と、まだ残る花火の匂いの中で、小さな彼女に視線を合わせて、俺は言った。
「大人になってもまだ、宏兄のことを好きでいてくれるなら。そのときは、俺のお嫁さんになってください」
 その台詞に、由梨香の顔が確かに赤くなって、それから満面の花が開いていく。
「約束だよ、宏兄」
「ああ、約束な」
 小指を絡めあって笑う。静かな夜風が心地よかった。
「あ! 宏兄見て!」
 ふいに由梨香が声を上げ、細い指を天に向けた。
 ――あ。
 雲がちぎれて、星が瞬いていた。柔らかな風がゆっくりと、雲のヴェールをはいでくれたらしい。
「織姫と彦星、会えたね!」
「そだな」
「よかったねーっ」
 本当にうれしそうに笑う由梨香は、やっぱり子どもじみていて、さっきの態度とはちぐはぐには思えたが――
 由梨香はどうあっても、由梨香なのだろう。
 そんな従妹が、いとしく思えた。





「織姫様、離れ離れになっても、彦星様が確かにいるから、いいよね」
 帰り道、由梨香が口にした台詞に、俺は一瞬首を傾げた。
「どういうことだ?」
「彦星様と出会えてよかったね、ってこと。こんだけ星がたくさんある中でさ、たった一人の大切な人と出会えたって、すごい奇跡だって、由梨香は思うのね」
「あー。まぁ、そうかもな」
 東京に行くことになれば、おそらく見上げても少なくなるであろう幾粒もの星の光。確かにこれだけの光の中で、たった一人に出会えるのは奇跡なのかもしれない。
 由梨香が、俺の腕につかまってきた。
 小さな従妹が笑って告げる。
「由梨香の彦星は、宏兄だけどね」


 ――七月七日。
 何年後かの同じ日に、俺の隣で笑う俺の『織姫』になるのは――
 もしかしたら本当にこいつなのかもな、と。
 俺は確かにそう、思ったのだ。


 さらさらと、未来の願いを乗せた笹が、軽やかに揺れている。


――Fin.

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◆参照作品◆ >>君が待つ空の下へ、僕を迎えに行く。(七年後)