夜霧よ、全てを覆い隠すのならば。
どうかこの想いでさえも、隠し賜え。
絶望は朝と共に来た。
寝床についた赤の染みは、子供の時が終わったことを示していた。其れは絶望であった。悲しみではない。怒りでもない。ましてや諦めでもなかった。歓びであろう筈もない。
数え十二の蓮花にとって、其れは絶望であった。
子供の時が終わった。十二の歳月は儚い夢の気泡のように、その朝消えた。
鵜族。
華州の東、神霊山とされる鵜山でのみ暮らす、女が戦場に赴く部族である。まして蓮家は、鵜族の長となる家系だ。初潮を迎えた時、鵜族の子供は女になる。女になると言う事は、紅を引き、戦装束に身を包み、戦場に赴くと言うことであった。
乱世である。
帝は崩御し、幼い新帝を巡り力は渦を巻いている。そんな世だ。鵜族の大いなる母であり父である鵜山も、戦火を完全には免れないでいる。鵜山を守ること。其れは、鵜族の大いなる誇りであった。
誇りである。其れは理解していた。母は良く口にする。鵜族の女たるもの、鵜山を守り、子を守り、誇りを守り、死んでいくべきなのだと。
子供ではない。もう、子供の時は終わった。女になった。其れは、鵜山を守り得ると言うことだ。誇りだ。其れは分かっていた。だがそれでも、理解とは別の絶望が身を焦がした。
女中が来た。印を認めると、報告へと行った。母は直ぐに来てくださり、祝いの言を口にした。
蓮花はその日初めて、紅を引いた。
身を清め、戦装束を纏い、小刀を渡された。其れらを身につけたまま、蓮花は家を出た。足は自然と、鵜山の中の湖へと向いていた。華湖と呼ばれるその場所には、先客がいた。
男児だ。
輪郭にまだ幼い丸みを引きずり、髭も生えていない容貌は、子供であることを確かに示していた。
「蓮花、遅かったではないか」
子供は、笑った。昨日までのように、屈託なく笑った。
「応灯」
答えた声は、震えていた。応灯の顔が、怪訝に歪んだ。
「蓮花。その紅は」
「応家長子、灯よ」
顔を上げ、紡いだ言葉に、応灯は口を閉ざした。応灯の闇のような双眸が、蓮花を見据えていた。
「私は蓮家の花である。今朝、紅の儀を済ませた」
応灯の眼が、見開かれた。紅の儀が、何を示すのか。応灯には分かったのであろう。一歩、足が出た。手が伸びる。
「触れるでない」
叫んでいた。応灯の手が、止まった。その指を見つめ、蓮花は紅を引いた唇を震わせた。
「紅の儀を、済ませた。分かるな、応灯」
「分からぬ」
「応灯」
「分かろうとも思わぬ」
手を、握られた。強い力だった。振り払おうとした。敵わない。
「応灯」
「確かに私は、応家長子の灯だ。しかし其れが何だと言う」
「手を離せ、応灯。無礼が過ぎるぞ」
「離さぬ」
「応灯」
もう一度、叫んだ。慣れぬ紅を引いた唇が、煩わしくさえ思った。顔を上げ、応灯を見た。強く、歪なほどに熱のある眼差しが其処に在った。
「私はもう、子供ではない。分かれ、応灯。離してくれ」
「離さぬと言った」
「なら私は、おぬしを斬らねばならぬ」
「蓮花」
「乱世だ、応灯」
応灯の手が離れた。鳥が微かに鳴いていた。高い音で鳴く鳥は、百舌であろうか。泣いているように聞こえた。誰の声を、真似ているのか。
「父上は、確かに鵜族を嫌っている」
応灯が、低く呟いた。その顔を見ることが出来なかった。朝影を見下ろす事だけで、精一杯であった。
「女が戦をするのが我慢ならぬと言うが、滑稽だと私は思う。私は、蓮花、お前が美しいと思う。美しくなると思う。気高くとも」
「応灯よ」
朝の絶望は、この言葉を吐くことを分かっていたからだ。
「もう、逢えぬ」
風が吹いた。乾いた、秋の風だ。木々の間をすり抜けていく。
もう逢えぬ。其れが、全てであった。応家と鵜族は、長年危うい均衡を保ってきた。だが、今の応家の長であり、灯の父である安は鵜族を嫌っている。乱世の中、いつ牙を向いてくるとも知れなかった。鵜山は、応家の収める華州に在るのだ。その長子と、共に居られる訳がなかった。そんな事は、分かっていた。分かっていた筈だ。
今までは子供であったから、過ごせたのだ。過ごしていても、両家ともが眼を瞑っていた。ただ、其れだけであった。だがもう、子供の時は、終わった。朝と共に、終わりを告げた。
「蓮花」
風に乗るように、応灯の声がした。その頃には、駆け出していた。応灯に背を向け、蓮花は鵜山の奥へと駆け出していた。その背中に、声が掛かる。
「いつか、お前を迎えに行こう。蓮花よ」
其れが、十二の秋だった。
●
応灯が実父である応安を殺害し、その軍を纏めたと言う知らせが入ってきたのは、其れから二年後の事だった。
暫く、鵜族は安泰かとも囁かれた。だが、この世の中で確かなものなんて何一つない。
鵜山に応灯軍が入り込んだと言う知らせを受けたとき、蓮花はただ静かに瞼を下ろした。
●
月が出ていた。
篝火が、遠く揺れている。夜霧の向こうで、微かにながらも確かに揺れていた。
「逃げてきたか、応灯」
一人、蓮花は呟いた。護身の者もつけていない。時折こうして、寝台を抜け出しては灯りひとつ持たず外へ出た。今夜も、同じだった。ただ一つ違うのは、遠く見えるのが月明かりばかりではないと言うことだ。
鵜山に入り込んだ応灯軍は、大きな動きを見せていない。数も、二千程度か。酷く少なかった。理由は、直ぐに知れた。華州の直ぐ隣、清州軍との戦いで敗走したのだ。逃げ込んだのが、この場所だったと言うだけだ。国の中でも神霊山と呼ばれるここには、どの軍もおいそれと手は出さない。
「生きておろうな、応灯」
蓮花は十四になっていた。戦のことも、鵜族のことも、世のことも、二年前よりは知っている。だが二年前から、あの男の事は何も知らないままだ。
短く、息を吐いた。息は、白い。ゆっくりと、歩を進めた。応灯軍の事は気にはなったが、考えるのはやめた。放っておいても、鵜族に手を出してくることはないだろう。それだけの余力が、あの軍にあるとも思えなかった。
清かな月明かりだけを頼りに、夜道を歩く。木の根が、草が、影を伸ばしている。自らの影は、霧の中に映りこんでいて、さながら幻のようだ。幻夜。そんな単語が、脳裏を掠る。
こんな夜、歩を進めるのはいつもあの場所だ。霧に覆われた視界では、まともに物も見えはしないが、そこに行くべき道程は眼を瞑っていたって身体が覚えている。幼い頃から繰り返し足を運んだ場所。
華湖。
華州の中で最も小さな湖でありながら、華州の名を受け継いだその場所。
ふいに声がした。
耳を澄ませる。幾つも鳴き交わす虫たちの音色の向こう、確かに、声がする。
幻聴ではなかった。不意に蓮花は泣きたくなった。だから、笑った。
唄が、聴こえる。
擦れた、低い唄声だ。視界を閉ざす霧の向こう、誰かが小さく、唄っている。
懐かしい調べだ。まだ子供だった頃、母が寝床で唄ってくれた其れと同じ旋律だ。華州に伝わる、古い子守唄だった。湖の畔で、誰かが調べを口ずさんでいる。
「良い唄だと、思わぬか」
霧の向こうから、声がした。闇夜の中だ。月明かりさえ頼りなく、ましてや霧の出ているこんな場所では、相手の姿さえ見えぬ。見えぬが、蓮花は其れが、嬉しかった。
見えぬのなら、逢う事にはならない。
「良い唄だ。しかしおぬしは、唄が上手くない」
「悲しいことを言ってくれる」
声の主は、そう言って笑った。
夜を、これほど有り難いと思った事はなかった。
絶望は、朝と共に来た。だからだろうか。今のこの苦しい歓喜は、夜と共にある。
見えぬ。頼りない月明かり。視界を覆う夜霧。そして、闇と夜。霧の向こう揺れる人影を、誰かだなど認識出来はしない。それが、酷く優しく思えた。
「唄ってくれぬか、誰かよ」
声の主が、霧の向こうで言った。そして、その言葉尻に、僅かに咳が混じった。ふと、悪寒がした。足が、一歩前に出る。
「近寄るな、誰かよ」
咳の中、声の主が言った。蓮花は知らず、足を止めていた。
「それ以上近寄ると、互いの顔が見えるぞ」
優しい声音だった。蓮花は足を止めたまま、空を仰いだ。月が、霞んでいる。
霧よ。もう少しだけ、時を稼いでおくれ。そう、願う。
「怪我を、しているのか。誰かよ」
「酷くはない。死なぬよ」
「真だな」
「私は、死ねないのだ、誰かよ。約束がある」
「約束とは」
風が、吹いた。ひやりとした空気が鼻腔に入り込む。懐かしい匂いがした。この風の香を、霧の向こうの誰かも感じているであろうか。
もう一度願う。夜霧よ。もう少しだけ、晴れないでおくれ。月明かりよ。もう少しだけ、頼りないままでいておくれ。
夜よ、もう少しだけ、誰かを覆い隠しておくれ。
「好いた女を、迎えに行かねばならんのだ」
誰かが、笑う。霧の向こうで。夜の向こうで。
「何年掛かるとも知れぬがな。なあ、誰かよ。唄ってくれぬか」
秋の風が、頬を撫でて過ぎる。風よ。もう少しだけ静かにしていておくれ。でなければ霧が、晴れてしまう。
「私がか」
「おぬしは、好いた女と声がよく似ている。下手な私が唄うより、月も華湖も喜ぶであろう」
蓮花は笑った。
誰も、見咎めるものはいない。
夜が、今は味方だ。夜も。月も。霧も。風も。全てが味方だ。
「仕方あるまいな」
微笑んだ。
ゆっくりと、口を開く。
互いの顔を見ぬままに、言葉を交わす事を哀れと影が叫ぶなら、其れは歓喜だと私は月に叫び返そう。
母が繰り返し、唄っていたあの唄を秋の夜風に乗せて唄おう。
霧の向こうの、誰かのために。
せめてこの夜だけは、許してくれるであろうと、蓮花は願った。
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夜霧よ、全てを覆い隠すのならば。
どうかこの想いでさえも、隠し賜え。
――了――
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お題バトル参戦作品。テーマは『夜』。お題は『月』『寝床』『照明』『華』『夢』『闇』『子守唄』『夜霧』。制限時間二時間。