指先の宇宙そら




『指紋認証完了。虹彩認証完了。マドカ・アサクラと確認。オープンします』
 合成音と同時にぷしゅ、と僅かな音を立てて扉が開かれる。そして部屋の中に想像通りの光景が広がっているのを確認して私は小さなため息を漏らした。
 煌々とついた電気にモニタの数々。散乱した書類や論文や書籍。その中に埋まるように縮こまっている白衣の背中。
「教授、教授。起きてください、風邪引きますよ」
 近寄り無防備なその背中を揺する。幾度か揺すっているうちに「むぅ」と低い声が聞こえる。さらに揺する。揺する。揺する。私の根気が尽きる寸前でようやく顔が持ち上がった。ぼさぼさの髪に無精ひげ。おしゃれとは程遠い黒ぶち眼鏡。教授にしては若すぎる、しかし正直少し残念な面立ちかもしれないその男性はぼんやりした顔のままへらりと笑った。
「あれぇ……おはようマドカくん」
「おはようございます教授。今日も情けないお目覚めで」
「あはは、マドカくんはひどいなぁ」
 言いながら教授はぐうと伸びをした。その反動でそこらの書類がばさばさと音を立てて床に広がる。
「あわ。あわわわわっ」
「落ち着いてください、やりますから。というか手を止めろ無駄に動くな仕事が増える」
「……マドカくん」
「なんですか?」
 にっこり笑うと教授はそろそろ四十だというのにそうは見えない子供じみた仕草で肩を落とした。
「はい。とりあえずお風呂行って来てください」
「え!? 待って待って、これやらせて! 昨日おもしろいところまで」
「行って来てください」
「マドカく」
「行け」
 もう一度微笑んでみせると教授はようやくおとなしくなった。部屋の隅に寄せてあったシャツとジーンズとをもって部屋を出て行く。この研究所は教授のような残念な生活能力しか持っていない人間が多いため、仮眠室も食堂もシャワールームも完備されている。その残念な背中を見送って私はもう一度短く息を吐いた。
 ――なぁんで、こうなっちゃったのかなぁ。
 浅倉まどか、二十七歳。大学を卒業してこの研究所に務めだしてそろそろ五年。あの情けない教授の助手となってそろそろ四年。
 残念すぎることになっている部屋を見渡してもう一度考える。
 ……これでいいの? 私の二十代の青春って。



「世界中の人は全て宇宙と、そして全てのものと繋がっているんです」
 彼のその言葉を聞いたのはまだ大学生だった頃、当時から付き合っていた彼氏についていった講習会でだった。
 当時からまぁ少し残念な身なりだった教授は、それはもう楽しそうな顔をして講義を行っていた。彼氏――アツヒロは何かの本で読んだ彼の理論がいたくお気に召したらしく、その講義に私までもを誘ったのだ。
 教授の理論は、別に珍しいものではない。
 通常素粒子と呼ばれるそれを素粒糸――つまりは糸と考える理論。二十年ほど前にアメリカの教授が発表し、当時はいわゆる「とんでも理論」だったそれだ。ところが最近では意外と認める派閥も出てきて立派に素粒子物理学の中で地位を気付いている理論。超ひも理論の延長とも言われるけれど、教授の場合少しずれている。
「俺、あの人の考え好きなんだよな」
 アツヒロはいつもそう笑っていた。高校時代から付き合っていたアツヒロは言ってしまえば物理学オタクみたいなもので、高校の教師は良く彼に泣かされていた。頭は良かったと思う。酷く、ロマンチストではあったけれど。
 教授はいつも講義をするときこう告げる。
「光は糸です。素粒子も全て糸として考えられます。それら全ては繋がりあっています。世界はそうして出来ている。そして光とは電磁波であり、宇宙からのものです。我々は全てと繋がっていて、我々の全ては宇宙と繋がっているんです」
 我々の全ては宇宙と繋がっているんです――
 教授もアツヒロと同じで、ロマンチシズムが少しすぎている。物理学者というよりは、哲学者のほうが似合っているのかもしれない。
 散乱した部屋を片しながらぼんやりと思う。
 子どもの頃夢見た空。憧れた夢。宇宙ステーションから送られてくる映像を毎晩食い入るようにパソコンの前で見続けていた。理系に進んだとき、周りはほとんど男子ばかりで珍しがられたものだ。アツヒロはその中で出逢った。彼は教室の隅でリサ・ランドールの著書を食い入るように見つめていた。思わず声を掛けた。「それ、面白いよね」。きっかけは、ただそれだけ。
 付き合い始めて、十年。昨日までは、繋がっていたのに。
 積みあがった教授の本を崩して棚へと戻していく。そのうち、ポケットに突っ込んでいた携帯電話がことりと落ちた。
「っと……」
 慌てて拾おうとしゃがみこむ。そして、手が止まった。
 白い携帯電話は一冊の本の上にあった。リサ・ランドールの著書。――あの時の、アツヒロとの出会いのきっかけになった本。
「……なんで」
 どうして、こんなタイミングで見つけてしまうのだろう。いや、教授のこの狭い部屋の中だ。この本の溢れた部屋の中だ。しかもリサ・ランドールの本ならあって当然だろう。そうは判っていても。判っては――いても。
 ぽたり、と。その本に雫が落ちる。頬を滑っていく熱い雫を手のひらで押さえ、そのまま座り込んだ。
 嗚咽が漏れる。
 どうして。どうして。どうして。
 耳の奥に木霊する、昨日のアツヒロの言葉。電話の向こうで低く呟かれた、短い言葉。
『もう、別れよう』
 私は何も言えなくて。不様でも何でもいいから嫌だとかどうしてとか言えばよかったのにそれすら出来なくて。判った、と短く呟いて電話を切った。だって、判ってた。簡単な方程式みたいに、そうするのが当然だと答えは出ていた。すれ違い続けていた生活。交わす口付けもセックスもなんだか味気なくなっていた。愛、なんてバカな言葉を確かめてみたくなるくらいに、アツヒロに何を感じたらいいのかわからなくなっていた。
 だから十年を過ぎてのさよならも当然だと判っている。それなのに、涙が溢れてくる。
「マドカくん!?」
 その時――強い手に肩を掴まれた。



「落ち着いた?」
「……はい」
 短く頷くと、教授はにっこりと子供じみた笑顔を見せる。教授の入れてくれたホットココアのマグカップを両手でつつんで、短い息を吐く。
「申し訳ありません教授、お仕事邪魔をしてしまって」
「いえいえ。気にしないで」
「でも。私助手なのに」
 助手が邪魔をしてちゃ意味がない。
「でも僕、一応君の上司だから」
「……は?」
「マドカくんの上司だから。お世話になるだけじゃなくて、たまには立場逆転してもいいでしょう」
 ……変な理論。
「あ、良かった。笑った」
 思わず苦笑すると、教授は心底ほっとしたように微笑んだ。それから少し首を傾げる。
「聞いていいかな? どうしたの、って。リサ・ランドールのあの本に感動して、なんてわけじゃないでしょう」
 その言葉に、少し手に力が篭った。マグカップを包む指先が震えている。
「……マドカくん?」
「アツヒロと」
 息を詰めて短く、告げる。
「アツヒロと別れたんです。昨日」
 教授が少し息を呑む。アツヒロのことは教授も知っている。いつだったか、アツヒロがふざけて「俺らの結婚式には絶対きてくださいね」なんて教授に言ってた。そりゃそうだ。だってもともと、教授のことを慕っていたのはアツヒロなんだから。
「そっか」
 無造作に頷いて。それ以上何も言わず。教授はくしゃっと私の頭を撫でる。教授の手は大きい。身体はそんなに大きくないのに、不釣合いなほど手だけが大きくて――なんだか、それがやさしくて。
「教授」
「うん?」
「私、繋がってると思ってたんです。アツヒロと」
「……赤い糸?」
「そこまでロマンチストな考えじゃないですけど。なんか、そういう感じで。……教授は全てのものが繋がってる、って言うでしょう?」
「ああ、うん」
 なるほど、と教授が頷く。無精ひげのなくなった少し童顔な顔を見上げて、小さく微笑んでみせる。
「でも、そうじゃない人もいるんですね。少なくとも、私とアツヒロは」
「……切れた、といいたいわけか」
 苦笑する教授に小さく頷く。教授は少しの間天井を睨んで、それからゆっくり立ち上がった。小さな部屋にひとつしかない窓辺へ歩いていく。
「教授?」
「おいで」
 窓を開け放って教授が手招きした。近づいていく。ほら、と身をずらして教授が外を見せてくる。
 高層ビルの立ち並ぶ町並み。薄い青色の空。せわしなく歩く人々の小さな姿――
 すうと教授の指先が空を向いた。
「この世界の物質の全ては糸で、それらは全て繋がっている。僕らの身体を作っている塩基ももちろんそうで、アミノ酸なんかももちろんそうだ。塩基なんかは判りやすいね。A・T・C・G全ての糸が長く繋がってDNAになっている。そしてその全てが水やアミノ酸に繋がって、僕らになる。僕らは酸素や窒素の中で生きていて二酸化炭素を糸として出している。その糸は樹に繋がっていて、樹は光の糸を使ってそれらを酸素にする――そして光は、あそこから来る」
 太陽を指差して、教授は続けた。
「宇宙の始まりから、僕たちは繋がっていた。もちろん、君も全てと繋がっている。アツヒロくんとも、僕ともね」
「でも」
「その糸が赤じゃなかった。それだけの話。何も途切れてはいないよ。それは宇宙があり続ける限りかわらない」
 そう微笑んで、もう一度無造作に私の頭を教授は撫でた。
「君から伸びる糸は無数にある。その中に一本、赤いのが混じっていて、それを探すのはなかなか困難だ。でも、あると思うよ」
 不器用な慰め方だ、と思った。
 また次の人がいるよ、なんて誰でも言う言葉。
 でもそれを、こんな理論的に言われるとなんだか苦笑しか浮かばなくて。
 涙はこぼれる術を持たなかった。
「ありますかね」
「うん。まぁ望むなら」
「なら?」
 問いかけると教授は手を引っ込めて私に背を向けた。
「僕だったら嬉しいなぁ、とは思う」
 ――え?
 一瞬ぽかんとしてしまった。教授は何事もなかったようにもう一度パソコンの前に座る。
「あの、教授?」
「宿題だよマドカくん。まぁ、そうだなぁ。僕が四十をきっちり迎える前に出してくれると嬉しいけど、まぁ今はいいやー」
「ちょっ……待って!?」
「あとでアツヒロくん殴りにいーこうっと」
「教授!」
 それから何度怒鳴っても、教授はこっちを向いてくれなかった。
 仕方なしに私は息を吐く。もう一度、窓から外を見上げる。

 青い空。降り続く陽射し。手をかざしてうっすらと血色が透ける自分の手を見つめる。
 私の全ては宇宙と繋がっている――
 この指先からも全てに繋がる糸が紡がれていて、それは決して目には見えないけれどちゃんとアツヒロともまだ繋がっている。
 そう信じてもいいだろう。それは結局赤色じゃなかったのだけれど。
 この身体全てから繋がるものの中、指先から紡がれる糸の中、一本だけきっと赤色はあるはずだ。それがどこに繋がっているのかは判らないけれど。

 大きく息を吸う。
 風の匂いが心地よく肺にしみこんできた。

 ――我々の全ては宇宙と繋がっているんです――


――fin.

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お題バトル参戦作品。
テーマは「糸」。お題は「繋がる」「電話」「赤」「指先」

*あえて書くまでもないと思うのですが、一応。
作者はとことん文系人間なのでここのは見事にでっちあげ理論です…。
超ひも理論とかは確かにありますけど…。でたらめ設定です…。
リサ・ランドール女史は五次元時空論を提案してたりする実在の方ですが、
名前借りちゃってすいませんすいません…。