――夕間暮れの緋には、魔女が住む。






 指先で触れた鍵盤は面倒くさそうに身を震わせ、歪な音をひとつ、部屋に響かせた。
 調律もされていない狂った音。判ってはいたけれど、耳に触れるその音はとても心地よいものではなかった。僕はひとつ、息をついた。ため息は空気を震わせて、音になる。歪なピアノの音よりは、まだため息のほうが耳に優しい。
 そこは、通学路を少し逸れたところにある豪奢な空き家だった。海外の写真集にでも載っていそうな外観の、大きな屋敷だ。緑の蔦が外壁を覆い、人気のない屋敷を飾り立てている。それでも、廃墟と言うには少し足りない。威厳とか、時間とか、朽ち果て具合とか、そういったものが足りない。ただの空き家だった。捨てられて、どれくらいか。それは知らない。二年か、三年か。五年は経っていないだろう。そこまで考えてから、僕は僕の思考に頭を振った。
 この屋敷はまだ、捨てられていない。
 捨てるという言葉の意味を、定義をどこにするかにもよるだろうけれど、僕の十七年の歳月の中で照らし合わせて思考するなら、捨てられてはいない。
 電気は来ていない。蛇口を捻っても水も出ない。住んでいる人間もいない。家具や調度品の殆どもなく、ただ居間の中央に座するグランド・ピアノと、奥の部屋に、二冊だけ本の入ったままの本棚があるだけだ。何故、本棚だけが、しかもたった二冊だけが入ったままなのかは知らない。ミヒャエル・エンデの果てしない物語と、アガサ・クリスティのそして誰もいなくなった。豪奢な赤銅色のハードカバーと古ぼけた文庫本。ちぐはぐな二冊が、寄り添うように本棚の一番上の段にひっそりと佇んでいるのを見たとき、僕は意味もなく舌打ちしたのを覚えている。
 この家に、住人はいない。存在するのは、古ぼけた本二冊と、調律もされずに佇むグランド・ピアノだけ。それでも。僕は、知っている。この家は捨てられていない。住む人間はいない。けれど、訪れる人間はいる。でなければ。
 もう一度、鍵盤を押す。滑らかな鍵盤。手ごたえのある重みに、軋んだ音。
 ここに訪れる人がいる。僕がここに入ってから一度も、出逢ってはいないけれど。僕は誰かがここを訪れていることを知っている。何故なら、一度もないからだ。本棚の二冊の本が、グランド・ピアノが、埃を被っているのを見たことが、一度もない。この一年間、一度もだ。
 去年の夏休みが始まる日だった。僕は通学路を逸れて、この家を見かけた。そして、入った。不法侵入という行為だということくらい頭では理解していたが、足を止める気もなかった。何故。理由は、判らない。何故、通学路を逸れたの。何故、空き家に入り込んだの。人は何故を問うてくる。何故。何故。何故。知らない。そう答えるしかない。嘘をつかないのなら、そう答えるしかない。理由のない現象はいくらでもあるし、理由のない衝動もいくらでもある。僕が明日人を殺したとして、警察に問われたとして、僕はどう答えるのだろう。何故、人を殺したの。知らない。そうとしか答えられない。理由なんて知れないことは、いくらでもある。そうだろうか。僕は本当にそう答えるだろうか。判らない。未来のことなんて、不確定なことなんて、今の僕が知るはずがない。
 僕が知っているのはただひとつ、あの日から時折――そう、時折だ。気まぐれに、僕がこの家に訪れて、本の頁を手繰ったり、弾けもしないピアノの音を確かめる時、一度もそれらが埃を纏っていないということだけ。僕は一週間毎日訪れることもあれば、二、三ヶ月全く来ないときもあった。それでも、そこにある様は変わらない。一度だけ、戯れに赤銅色の表紙の本を、グランド・ピアノの上に置いて行ったことがある。翌日来て見たら、それはいつもどおり本棚の中、古ぼけた文庫本と隣り合って並んでいた。
 その日、僕はこの家に訪れて二度目の舌打ちをした。
 何故を問うても意味はない。そのことは僕が知っている。僕が一番、なんて莫迦な台詞を言うつもりはない――僕ごときの男が一番になれることなんて、どんな些細なことでさえこの世界には転がっていない――けれど、僕は知っている。何故、本は元に戻っていたの。そんなことは、どうでもいい。事実が横たわっていたなら、曖昧でだって構わない。
 緩慢な思考。くだらない夢想。その中に割り込んでくる現実の音。
 きしっ。
 最初、家鳴りかと思った。けれどそれは、もっと実態のある音だった。顔を上げた。グランド・ピアノの向こう。緋色に染まりかえった夏の空を背景に。
 小さな女の子が、そこにいた。
 肩口で揺れる艶やかな黒髪。セミロングというには少し古風に過ぎる髪型に、喪服のような長袖の黒のワンピース。鮮やかな深紅の靴をぶらぶらさせて。
 女の子は窓辺に腰掛けて、薄く微笑み、僕を見つめていた。
 鷹のような――射抜くような目が、まだ十ほどの彼女の幼すぎる面立ちの中で、際立って大人びていた。その目だけは、笑みを浮かべず。唇にだけ薄く笑みを浮かべ。
 彼女は僕を見つめていた。

「こんにちは、おにいさん」

 それが、僕と頼子との出会いだった。

 ◇

「あら、おにいさん。おどろいたって顔をしているのね」
 耳に残る声音で、彼女は言った。風鈴というには少し甘すぎて、鈴というには可愛らしさが少し足りない、そんな曖昧な声音で、まるでからかうように微笑んで言う。子供の口から紡がれるには、少しばかり大人びて、現実味を伴わない口調で。
「……そりゃね。気付かなかったから、驚きはするよ」
「ふふ。だっておにいさん、ピアノに夢中なんだもの」
「そうかな」
「違ったかしら。考え事に夢中だったのかしら」
「どちらかといえば、そっちかな」
「そう。つまらないひとね」
 静かに頷くと、女の子はとんっ、と床に降り立った。板張りの床が微かに軋むが、埃はやはり舞い立ちはしない。
 背は、やはり小さい。僕の胸ほどもない女の子は、じっと僕を見上げて口元に笑みを浮かべている。緋色の陽光を背負いながら。
「幽霊だと、思った?」
「まさか」
 悪戯めいた言葉に、僕は軽く肩を竦めた。
「君は嫌になるくらい生きている匂いがするよ」
「そう?」
 戯れに戯れを返す言葉遊びに、彼女は何を思ったのか楽しそうに声を弾ませた。そうすると、大人びた表情が一変して、子供らしい幼い顔があらわになる。
「果てしない物語」
「え?」
「おにいさんなの? ピアノの上に置いて行ったのは」
「ああ……」
 納得して、僕は頷いた。なるほど、この家を捨てないで守り続けているのは、この女の子らしい。
「そう。おにいさんがこの家にやってくるお客様だったのね」
「君が、この家の主?」
「違うわ。わたしじゃないの」
 女の子は不思議と幼い仕草で首を左右に振り、そっと唇に人差し指を添えた。内緒よ、と言うように。
「わたしのおねえさんが、ここに住んでいるの」
「そうなのか。見かけたことはないけれどね」
「おねえさん、恥ずかしがりやさんなの。わたしにも姿を見せてくれないのよ」
 それは他愛もない、子供の戯言に思えた。戯言、狂言、何でもいい、そういった類の嘘だ。別段それを暴いてどうこうするつもりもなければ、僕は幽霊を信じる気にもなれなかったので、曖昧に頷いて見せた。害のない嘘なら、付き合ったところで僕に不利があるわけでもない。
「それは残念だね。君は淋しいのかな?」
「どうかしら。姿は見せてくれなくても、いるのは知っているから。淋しくはないかもね」
 考えるように小首を傾げて、女の子はふふっと笑った。
「おにいさん、変な人ね」
「君ほどじゃないな。僕は一年ぐらい前から時折ここを訪れるけれど、君も、君のお姉さんも見かけたことはないよ。君はいつ、ここに来ていたんだい?」
「あら。それはわたしの台詞よ。わたし、ほとんど毎日来ているのに、おにいさんには会わなかったもの。まぁ、わたしがこの時間に来るのは初めてだけれどね」
「僕はいつも、この時間だね。君はいつ来ているの?」
「お日さまが、地球の裏側を照らしているとき」
 微笑んで、彼女はそっと鍵盤に指を走らせた。狂った音が、屋敷に響く。停滞していた空気が、微かに揺れて彼女の前髪をさらりと靡かせた。
「ねぇ、おにいさん、何者?」
「しがない学生だよ。特筆すべきことは何もないな。君こそ、何者?」
「わたし?」
 彼女は少し考えるように、もう一度小首を傾げ、それからはじめて逢った時に見せた笑みを浮かべた。
「わたしは頼子。――魔女の妹よ」

 ◇

 その日から、僕と頼子は共に過ごす時間を持つようになった。
 狂ったように照り付ける夏の陽が、ほんの少し力を弱めて西へと沈む頃、街は緋色に染まる。その、短い時間。僕らはそこで共に過ごす。約束を交わしていたわけではない。ただ、いつのまにか二人並んで、グランド・ピアノの傍にいた。陽射しに蒸された屋敷の空気は、お世辞にも過ごしやすいとは言いがたく、開け放した窓から流れ込んでくる微かな夕風だけが、唯一取れる涼だった。そんな場所でも、彼女は喪服のような、長袖の黒いワンピースをいつも着ていた。
「頼子は、黒が好きなの?」
「わたし? 赤が好きよ。赤い色が好き。靴もそうでしょ?」
 いつもどおり窓辺に座り、彼女はぶらりと足を揺らした。確かに彼女の足元は、真紅のおでこ靴だ。
「そう、綺麗な色だね」
「ありがとう。これね、ざくろで染めたのよ」
 頼子は、最初に思ったとおり虚言癖のある娘だった。僕はそれを怒りもせず、苦にもせず、特に楽しむわけでもなく、ただ受け入れていた。
「ざくろ? ざくろで染まるの?」
「ええ。おにいさん、知らないの? ざくろは人が魔女の手で変えられたものなのよ」
「へえ?」
「もともとは人間なのよ、ざくろって。だから真っ赤な血が滴るの。わたしのこの靴はね、おねえさんがプレゼントしてくれたの。人の血で染めた、真っ赤な靴よ」
「ざくろじゃないと駄目なのかい? すいかやいちごではいけないの?」
「だめよ。すいかやいちごは、人じゃないもの」
 始終、こんな調子だった。頼子との会話は、実体がない。流れる水のようで、つかみ所がない。普通の人なら――そう、たとえば僕の同級生たちなら、すぐに飽いてしまうか疲れてしまうかで、頼子との会話を長引かせたりは出来ないだろうと思う。けれど僕にとっては、頼子との会話はとても楽なひと時だったのだ。現実味のない場所で交わす、虚言だけで模られた会話。そこには、錆色の現実も、無駄に美しい言葉も入り込んでは来ない。あるのは、曖昧な声音と、窓から射し込む緋色と、嘘っぱちの言葉だけだ。それが僕にとっては、何より心地良かった。
 白でもなく黒でもない、灰色の世界。正でもなく負でもない、零の世界。非現実な空間に満ちる、現実的な湿った空気。虚構を告げる、真実の唇。全てが曖昧に揺らぐこの時間と空間が、僕は何より心地良かった。
 不思議でなかったと言えば嘘になる。恐らくは十前後の小さな女の子が、夜中にこの家に出入りしているというその事実。いや、どうだろうか。それはもしかしたら虚言かもしれない。何せ僕は、彼女の口からしかそのことを聞いていないのだ。真実は判らない。だとしても、僕は事実としてこの一年間、埃の積もったことがないピアノを、本棚を、片された果てしない物語を知っているのだ。疑問には、思った。そんな小さな女の子が夜中に出歩くことを、彼女の家族がどう思っているのか。
 ただそれは、意味のない疑問に思えた。何せ僕は、頼子のことを、頼子の口からしか聞いていない。虚言癖のある彼女の口から漏れた言葉しか、僕は知らないのだから。果てしない物語がいつ片されたのか、僕はまだ、頼子にきちんと問うてはいない。
「ねぇ、おにいさん。知っていた?」
 ある日、頼子は扇子をひとつ持ってきた。黒地に桜の花びらの散る大人びたものだった。彼女はそれで扇の手風をおこしながら、僕の瞳を覗き込んできた。
「こうして風をおこすとね、この花びらは色のない風になって窓から外へ飛んでいくの。そうして落ちた花びらはね、また新しい桜の樹になるのよ。真っ赤な真っ赤な花びらをつけるの」
「それはすごい。その扇は頼子のもの?」
「ちがうわ。おねえさんのものよ。魔女の道具なの」
 少し淋しそうに微笑むと、頼子は誰もいない、本棚だけがそこにある奥の部屋へと視線をやった。
「ねぇ、おねえさん」
 呟きだけが、緋色に溶けた。
 僕と頼子の時間は、こうして過ぎていった。夏休みだった。それでも学校では補講があり、帰り道にあるこの空き家に寄ることは別段面倒なことでもなかった。補講がないときでも、僕はその家に行った。それもまた、面倒なことでもなかった。僕は友人も少なく、予定もない夏休みを過ごしていて、どうやらそれは頼子も同じようで、そんな頼子に逢いに行くことは、面倒なことではなかったのだ。
 雨の日は、頼子はやって来なかった。いや、僕のいる時間には来なかった。お日さまが地球の反対側を照らしている時間には、来ているのだろう。頼子が来ないとき、僕は僕が来た証として、果てしない物語をピアノの上に置いて行った。翌日来てみると、頼子がいなくてもそれは元に戻っていた。それは僕らの合図のようだった。二週間もする頃には、僕らにはそんな合図に似た行動が、いくつか増えていった。僕がこの家に来たときは、音の歪んだドの音を、頼子が来たときにはやはり少し歪んだシの音を鳴らす。僕が帰るときにはレを二度続けて、頼子が先に帰るときは、鍵盤を端から端までそっと撫でて音を出す。帰り際、僕は頼子にさよならだけを囁いて、頼子は僕と見えない彼女の姉にさよならを告げる。どっちが先に帰るのかは、その時々の気分次第だった。引き止めたことは、お互いなかった。
 そして、あの雨の日が訪れる。

 ◇

 雨の日に、頼子は来ない。知ってはいたけれど、僕は日課となった行動をやめられずその家へと向かった。じとりとした蒸し暑い空気がたちこめている。施錠の壊れた扉を開け、いつものように玄関を抜けて居間へと向かう。そしてやはりいつものように、僕は歪んだドの音を部屋に響かせた。それから、窓辺へ寄る。軋んだ窓を開け放つと、雨風が部屋に吹き込み、よどんだ空気を捕まえて飛び出していく。少しだけ目を閉じ、雨粒を頬で受け、僕はようやく人心地つく。古いピアノの椅子を引っ張ってきて、そっとそこに座った。
 細雨だった。粒の小さい、けれど霧雨というにははっきりとしすぎている、これもまた曖昧な雨が、小風というには少し強すぎ、夕風と言い切るには少し弱々しい風に乗って舞っている。恐らくは曖昧のうちに風に負け、いつのまにかやんでしまうような雨。その粒を落としながら、空は緋色に染まることなく、灰色のままやがて来る夜を受け入れていくのだろう。
 頼子は来ない。
 判っていたことだ。けれどその日はじめて、僕は帰宅することを躊躇した。指先は幾度かいつもの音へと伸びかけたけれど、その度僕はその指をそっと手のひらに織り込んだ。
 どうしてだろう。
 自問しようとして、それより先に自答が浮かび、僕は自嘲の笑みを消せなかった。
 決まっている。今日が今日だからだ。
 くだらない感傷。情けない事情。きしっと音を立てる椅子に深く腰を下ろし、僕は小さなため息を漏らす。今日――僕の妹の、命日。
 七つ下の妹のばらは、僕が十一のときに亡くなった。にいに、と舌足らずの口調で僕を呼ぶ彼女の声は、あの夏永遠に聞けなくなった。それはどこにでも転がっている不幸の果実と同じ味で、ようは単なる轢き逃げ事故だった。犯人はまだ、捕まっていない。六年――それはもう、捕まらないことと同義だった。どちらにせよ、のばらは帰ってきはしない。
 母は、今日はひどく荒れるだろう。毎年のことだ。のばらの母はあくまでのばらの母であって、僕の母ではない。僕の母は、僕を産み落としてすぐにどこかへと消えたらしい。別にそんなくだらないことを今更嘆くつもりもないが、しかしそれでも、毎年のこととはいえ、母がこの日ごとに荒れるのは少しばかり、辛い。
 どうしてあの子なの。どうしてあんたは生きているのに、あの子はいないの。
 どうして、あなたは、いきているの。
 ヒステリックに叫ばれる言葉も、泣き崩れる背中も、見慣れたものとはいえ身に刺さる。だからだろう。僕は帰ることを拒絶し、頼子を待っている。
 目を閉じる。音も立てずに降る雨が、静かに僕を濡らす。
 頼子にのばらを、重ねているのだろうか。
 のばらが生きていれば、ちょうど今の頼子と同じくらいの歳だろう。とはいえ、頼子はあまりにこの世界に足をつけていないような気配を纏っていて、のばらとは違いすぎる。それでも。
 それでも僕は、のばらを重ねているのだろうか。
 逢いたいのだろうか。再び逢い、あの舌足らずの口調で、にいに、と呼ばれ、そして微笑まれたいのだろうか。しかしそれは叶わぬ夢でしかない。幽霊。もしそんなものがいるのなら、僕より先に母に逢いに行くべきだろうし、どれだけ願っても、そんなものは結局存在はしないのだ。
 ふいに、音が鳴った。
 いつものシではなかった。鍵盤の一番端の、一番高いの音。微かに揺れた空気に僕はまぶたを持ち上げる。
 黒が、揺れた。
 いつもの長袖のワンピース。顎先で揺れる真っ直ぐな黒髪。それらが揺れたものだと、すぐに気付く。頼子が、僕を見つめて立っていた。子供独特の丸みを帯びた唇が、そっと開く。
「ようこそ、おにいさん」
 僕は目を細めた。澱んだ空気の中で立つ頼子は、幼いながらに美しかった。
「やあ、頼子」
「あら。ちがうわ」
 頼子は小さく笑い、いつもの彼女と同じように小首を傾げた。
「わたしは、頼子じゃないわ。あの子のおねえさんよ。この家に住む魔女なの」
 得意そうに呟かれた言葉に、僕は小さく唇に笑みを上らせた。いつもの、彼女独特の虚言だろう。
「そうか。君が頼子のお姉さんか」
「ええ、そうよ」
「逢えるとは思わなかったな。僕より先に、頼子に逢うべきじゃないのかな」
「あら、どうでもいいわ。そんなこと」
 まるきり頼子の声で、まるきり頼子と同じ口調で、彼女は微笑む。何のことはない。頼子だからだ。幽霊の類でも、双子というわけでもないだろう。それぐらいは、判る。頼子でしかなかった。
「どうして泣いているの、おにいさん?」
「泣いている。僕が?」
「ええ、泣いているわ。声も涙もないけれど」
「それは君も同じだよ、頼子」
 僕の言葉に、頼子はすっと顔を曇らせた。
「わたしは頼子じゃないわ」
「頼子だよ」
「ちがう!」
 拉げた音が弾けた。
 叫んだ頼子が、鍵盤を思いきり叩いたのだ。その叫び声が、拉げた音が全て空気の中に溶けてから、僕はそっと頼子の細い腕を掴んだ。
「――頼子だよ」
 びくりと、頼子の体が震えた。僕はそれを無視して、指先で頼子のワンピースの袖を手繰り上げた。
「だめっ!」
 幼子らしい甲高い声で、けれど異常なまでに切迫した声で頼子は叫んで身を捩る。しかし僕は見逃さなかった。頼子の、長袖の下に隠された白く細い腕。そこに刻まれた、赤や黒の、無数の痣――
 頼子は僕から身を剥がし、袖を下ろす。俯いた首筋が、震えている。
「頼子」
「……ちがうわ」
 精一杯の虚言。震える声音。僕はそれらを全く無視して、背を向ける彼女の小さな身体を抱きしめた。震える、小さな、雨に濡れて冷えた身体。
 何も言わず、何も問わず、僕らは暫くそのままでいた。
 いいかげん、気付いていた。この暑い中、頼子がいつも長袖の黒いワンピースを着ていることは、いくらなんでも不自然だった。夜中に出歩くこと。恐らくはそれを咎める家族がいないこと。それだけ確かならば、後は匂いで知れた。僕らは同じ匂いを纏っていた。同じ、親に愛されない子供の匂いを、纏っていた。
「……お姉さん」
 そっと、僕は囁く。背中から、小さな魔女へと囁く。
「……なぁに」
「君は、愛されているの?」
 頼子の身体が震えた。それから僕の腕を離れ、頼子はゆっくり窓辺へと移動した。虚像に満ちた、空虚な笑みを浮かべて。
「ええ。わたしは、愛されているわ」
 アノ子ト、違ッテ。
 緋色が、揺れていた。窓の外の空はいつの間にかうっすらと緋色に染まっていた。あの曖昧な雨はあがり、ソーダ水に溶け込んだ血のように、曖昧に揺らぐ緋が空を染め抜いていた。
 緋色を背負い、魔女は笑む。
 曖昧に揺らぐこの空間でのみ存在する幼い魔女は、僕を見つめて、ただ笑んでいる。
 彼女を見つめ、僕はただ目を細めた。
 頼子は――頼子は頼子を守りたかったのだろう。僕がただ母の言葉から身を守るためにこの家に留まりたいと願ったように、頼子は頼子を守るため、偽りの魔女を生み出したのだろう。
 曖昧に揺らぐ灰色の、曖昧なままの零の世界で、虚言に満ちた言動を、虚構の中で作り上げ、太陽が地球の裏側を照らす時間、頼子はただ唯一、親から愛される頼子になれる。頼子の姉、本当に愛される、もう一人の自分――それを、演じている間だけは。

 それはひどく歪んだ、愛の夢――

 ざくろは人だと嘯く。
 扇の手風から桜は舞うと嘯く。
 本当の自分は愛されているのだと、嘯く。
 そこに大差はなかった。少なくとも、この屋敷の曖昧な空間の中では。
 頼子はのばらではない。のばらよりももっと儚く、夏に降る淡雪の如く、実体のないまま消えていこうとするような、そんな頼りなさを体現した少女で。
 のばらを守れなかった僕は、まるで僕を慰めるように頼子を抱く。
 それもまた、ひどく歪な愛の夢だ。知ってはいた。それでも、僕らにはそれで十分だった。
 おためごかしな奇麗事も、ただ錆色だけの現実も、僕らには必要なく、曖昧であればあるほど、僕らはそれを愛おしむ。
 僕はのばらを守れない。頼子でさえも守れない。それでも、頼子はのばらと違い耳を持っていて、僕の言葉を、聞いてくれる。
「お姉さん」
「なぁに」
「頼子に伝えて欲しいんだ」
 愛される子供は、本当にはここにいない。誰も、いない。曖昧に揺らぐ、永遠の夢物語。
 それでも、僕らはここにいる。
「頼子を愛する人間は、二人いる」
「だぁれ」
「僕と、君だよ。……緋色の魔女」
 嘯いた僕の言葉に、魔女は顔を上げ、そして子供のように無垢に微笑む。
 夕間暮れの空を背に抱き、ふわりとただ、笑んだ。
 そして、誰もいなくなった。
 その瞬間――ここにはもう、誰もいなくなった。
 愛されない子供は、もう、誰もいない。

 ◇

 その日以来、魔女は姿を現さない。
 そして僕は今日も、歪んだドの音をこの部屋に響かせる。


――Fin.

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