■第一章:天才は天災を拾う 1


 葉は白かった。葉脈は白く透き通っている。幹は生気を失った色をしていて、しかし何故か枯れずに天に向かって伸びている。
 ここ、スレヴィの森にある木々はだいたい同じようなものだった。数年前から死化が始まり、森の大部分が今はもうこの死病に侵され白くなっている。いつしか、死の森、とさえ呼ばれるようになっていた。
 死化した木々の合間を、トスティナは重い足取りで歩いていた。
 年の頃なら十五、六の、華奢な少女だ。金色の髪を揺らしながら、危なっかしい動きで進んでいく。ふ、と短く息を吐いて彼女が空を仰いだ。元気な木だったら良かったのに。そっと、口中で呟いた。元気な、青々しい緑の木々であれば、この時期の暴力的な陽光さえ多少は遮ってくれただろう。けれど、この死化した葉では陽光はそのまますり抜けてしまうので、遮るものはないに等しい。
 肩から斜めに下げていた水筒に手が触れる。同時に、トスティナは暗澹たる気持ちになった。何度目だろうか。こうして同じ気持ちを繰り返すのは。何度振っても逆さまにしても、水筒の中にもう水は一滴も残ってはいない。
 暑い。けれど、いつしか汗も掻かなくなっていた。最初のうちは暑い、喉が渇いた、などと呟いてもいたのだが、そのうち呟けば呟くだけ乾いていくだけだと気づいてやめた。
 ただ重い足を、ゆっくり動かすだけだ。
 スレヴィの森は広い。そんなことは子供の頃から知っていたはずだが、実感として理解したのは今日が初めてだった。村を出て、どれくらい経ったかは判らない。街へ抜けるための近道があったはず、と不用意に知らない道へと足を踏み込んだのが間違いだった。街へ抜ける道は見当たらず、いつしか村へ戻る道も見失った。結局こうして、ただただ歩き続けるしか出来なくなってしまった。
 ふいに、視界がぐるっ、と廻った。
(え――?)
 声を出す前に、軽い衝撃とともに土を食んでいた。苦い。心臓がどくどくと早鐘を打っている。その頃になってようやく、自分が倒れたのだとトスティナは理解した。
(あれ……困りました……)
 不安定に揺れる地面の上で、目をぱちくりと瞬いては何とか意識を保とうとするのだが、上手く行っている気がしなかった。ぐるぐると白い葉が廻る空を見上げる。
 気持ちは悪い。けれど、何となく美しいとさえ思った。
 白い葉。青い空。太陽を反射する自らの金色の髪。それらがぐるぐると回転する世界。
(きれい……だぁ)
 浮遊感。熱に浮かされたようにそれを感じながら、トスティナはそうっと目を閉じる。まぶたの裏にちらつく赤や黄色の斑点が、それもまた踊っているかのように見えた。
 このまま眠れたら気持ちいいかな。ぼんやりとした思考の隅で考えた。その時だった。
 ガサリ――と。
 風の揺らす葉擦れの音とはまったく異質の音にトスティナはぱちりと目を開いた。
 視界に飛び込んできた土を見て、これじゃない、と理解する。重い頭を何とか持ち上げる。
 人がいた。
 降り注ぐ陽射しを吸収してしまいそうな黒い髪。驚いているのか、見開いた目は陽光を反射する黒瞳だった。寝転がった状態のトスティナからはよく判らないが、たぶん背はトスティナよりはずっと高い。
(男の人……)
 まだふわふわした頭のまま理解できたのはその程度だった。あとは恐らく何かを採取していたのだろう――籠らしき物を抱えているということ。
 ただしそれは、トスティナにとっては無用な情報だった。
 人がいた。それだけが、大きなひとつの情報として脳裏に焼きついていく。そして、人がいたのなら、そしてそれが見かけたことのない顔なら、することはひとつだった。少なくともトスティナにとってはそうだった。
 倒れたまま、トスティナは微笑った。
「こんにちは」
 ――そして、トスティナは意識を手放した。



 火はいずこ 
 地は絶えた
 水はまだある
 風はやまない

 養父の目はいつも何かに怯えているようだった。あるいは、痛みを抱えているかのようでさえあった。トスティナは何度かその理由を問おうとして、結局一度も問わなかった。怖かったのは、返ってくる答えが、もし自分を拒否するものだったらということだった。
 それでも、養父は優しかった。
 低く、よく響く声で紡がれる言葉のひとつひとつに、優しさが織られていることをトスティナはよく知っていた。
 ――トスティナ。これは判るかい?
 ――トスティナ。しっかりと食べなさい。
 ――トスティナ。こら。それはいけないことだ。
 時々はティナ、と愛称で呼んでくれた。養父とはいえ、スレヴィの村の長である彼とトスティナの間は、親子というよりも祖父と孫ほどの歳の差があった。だからトスティナは養父をいつもおじいちゃん、と呼んだ。
 その養父は、最後の日とても哀しい目をしていた。
 ――ティナ。
 ――はい。
 ――私たちを恨むかい?
 静かな声音に、トスティナは何も答えなかった。どう言えば養父を哀しませないですむのか、結局判らなかったから。
 ――どうか。
 ゆらゆらと。夜の闇のように視界が揺れている。
 その闇の中。擦れた声で、養父は言った。
 ――どうか、生きてくれ。トスティナ。
 響いてくる声に頷いた。
 ――はい。
 強く、頷く。
 ――はい、おじいちゃん。……生きます。
 生きます。

「――生きてンのかィ? この嬢ちゃん」

 ふいに明朗な声が闇を割って入ってきた。
「え……!?」
 おじいちゃんの声じゃない。瞬きし――
「ひゃあ!?」
 トスティナは素っ頓狂な悲鳴を上げた。身を起こし、思わずおしりで後退さる。が、すぐに背中がなにかに当たった。
「あンれ。驚いてらァ。生きてンのなァ」
 不思議な抑揚がついた言葉で、トスティナを覗き込んでいた少年は言った。
「え。え?」
 トスティナは緑玉の瞳を丸くしながら、少年を見上げる。そう、見上げる必要があった。それは身長差といった話ではない。何故なら少年は、浮いていたからだ。
 空中にふわふわと、支えるものもない状態で彼は浮いていた。
 ツンツンととがった白い髪。夜空のような藍色の目。色彩は少し変わっているとしても、体格はトスティナとそう変わらない歳の少年に思えた。けれど、違う。人はそんな風にプカプカ浮いたりはしないはずだ。
「えっ……え?」
 それに。と混乱する頭の中でトスティナは何とか考える。
 知らない人だった。見たこともない人が、何故自分を覗き込んでいたのか。
 だが、何となく判った。悪意はない、ようだ。
 その頃になってようやく、自分のいる場所が見えてきた。どこかの家の部屋、だろうか。客室か何かに思えた。質素ではあるがしっかりとした作りの家具や調度品が、必要最低限並べられている。自分はその部屋の隅、窓際の寝台に寝かされているのだと気づく。
「あ、あの」
「はイよォ。なンだィ?」
「こ、ここ、どこれしょうか」
 混乱のせいか、呂律が上手く廻らない。それでも何とか言葉を発したトスティナの耳に、またひとつ、別の声が触れた。
「起きたのか」
 低く、心地よい声音。それは扉のほうだった。目をやる。
「――あ!」
 トスティナは思わず高い声を上げていた。
 そこに立っていたのは、黒髪の男だった。歩きづらそうな黒の長衣を着ている。その顔立ちに、記憶が蘇ってきた。
 森の中、気を失う直前に見た顔だった。
 ほっと、安堵の息が漏れる。
「こ、こんにちは」
 笑いかける。が、返ってきたのは苦虫を噛み潰したような顔だった。歳はトスティナより十近く上だろうか。二十を過ぎていくつか、というように見えた。しかし面立ちのせい、というよりは浮かべている表情のせいでもう少し上にも見える。目鼻立ちのはっきりとした、整った顔ではあるのだが、どうにも重たさが抜けない。
 彼はその難しい顔のまま、つかつかとトスティナに歩み寄ってきた。彼の後ろから、猫が二匹、とことこついて来ている。
「気分は」
 短い言葉。それが自分に掛けられていると判ってトスティナは慌てた。
「え、えと。えっと。あ、喉が渇きました」
「ああ、だろうな」
 彼は小さく頷き、「アグロア」と傍で浮いていた少年に声を掛けた。
「水」
「へィへィ。民使いの荒ェ兄ちゃんだぜ、まったく」
 肩をすくめて言ったとたん、部屋に風が吹いた。反射的に目を閉じ、そして開いたときにはそこに少年の姿はなかった。
「……あれ?」
「あれは風だからな。すぐ戻る」
「そのとおりさァ!」
「わっ」
 短く声を上げてしまった。瞬きもしないうちに、白髪の少年はまたそこに浮かんでいる。
「へへっ、オイラァ、風だからなァ。ほら、嬢ちゃん水だぜェ」
 差し出された木の杯を受け取る。水がたっぷりと入っていた。恐る恐る口をつける。一口飲んですぐ、トスティナはまた小さく声を上げていた。
「つめたい」
 水が喉を過ぎていくのが確かに判るほど、キリッと冷えていた。この時期なのに、と二度、三度と瞬いてから顔を上げる。
「冷やしてあったからだ」
「はぁ」
 曖昧に頷く。体が水を欲していたので立て続けに二、三口と飲んでからようやく落ち着いた。大きく息を吐く。
「あのぉ」
「なんだ」
「ここ、どこでしょうか」
 問いかけに、男性の眉間に皺が寄った。やはり少ししかめっ面だ。
「言い忘れていたか。俺の家だ」
「……どこにあるんでしょう」
「スレヴィの森ン中サァ」
 ――と、これは白髪の少年のほうだ。
「えと」
「アグロアでいいぜィ、お嬢ちゃん。なんだい?」
「あ、えと。スレヴィの森の中に住んでらっしゃるんですか?」
「あァ。こいつァ、偏屈なのサァ」
 にこっと、アグロアが笑った。八重歯がのぞく幼い笑顔だ。それと相反するかのような表情を浮かべた男性が、低く息を吐く。
「アグロア。少し黙ってろ」
「はーいよォ」
「――それで?」
 おじいちゃんみたいだ。と、とっさに思った。だがそれを口にすればこの男性の眉間の皺がさらに深くなることは、さすがにトスティナにも容易に判ったので口にしなかった。だが、よく似ていると思う。養父が叱る時の口調にそっくりだった。その養父に酷似した口調のまま、彼は続けた。
「君、歳は」
「じゅっ、じゅうご、です」
「親は」
「え……」
「何をしていたんだ。ピクニックか。そんな軽装で森の奥にまで入り込むとは馬鹿なのか?」
 矢継ぎ早に繰り出される質問と叱咤の言葉に、トスティナは普段ゆっくりとしか働かない頭を何とか急いで回した。
「あの、あのえと。わたし村を追放されちゃって」
 ありのまま伝える。その言葉を聞いたとたん、男性は眉間の皺を緩め、眉をぴくんと跳ね上げた。驚いた、のだろうか。
 一瞬の沈黙。にゃあ、と足もとをうろついていた三毛猫が鳴いた。沈黙を割る鳴き声が合図だったかのように、彼は深く長い息を吐く。
「――そうか。君はトスティナ、か」
 今度驚くのは自分の番だった。トスティナは小さく首を傾げる。さらりと、長い金糸の髪が肩口で揺れた。
「ご存知なんですか?」
「このあたりでは有名だろう」
 嫌いな食べ物を無理やり飲み下した時のような顔で、彼は囁いた。
「スレヴィの天災」
「はいー」
 こくん、と頷く。
 スレヴィの天災。それはトスティナを指すもうひとつの名のようなものだった。実のところ、どうしてそう言われるのかは詳しくは知らない。何度か訊ねてはみても、養父は決して口を開こうとしなかった。ただ、物心ついたときから村人にはそう呼ばれていた。
 スレヴィの天災と。
 トスティナの反応が気に入らなかったのか、男性は渋面のまま黙り込んでしまった。さっきまで煩かった筈のアグロアさえ黙り込んでしまっていて、薄い笑みだけを浮かべて宙に浮いている。
 無言の男ふたり。一人の足もとを猫二匹が何度も行き来するが、沈黙は到底それでは埋まらない。居た堪れなくなって、トスティナは手にしていた木杯を寝台脇の飾り机にそっと置いた。コトン、と音がなる。それでも静かなままだったので、トスティナは男性を見上げながらゆっくり口を開いた。
「あのぉ、おにいさんは誰ですか?」
 男性が目を瞬く。質問をすることは考えていても、質問されることにまでは気が廻っていなかったらしい。少し頭をかくと、短く告げた。
「俺はミズガルド」
 ミズガルド。どこかで聞いたことのある名前だった。唇に指を当てて――思考するときのトスティナの癖だ――記憶を漁る。
 そうして引っ張り出した答えに気づいたとき、トスティナはぱっと笑顔を浮かべた。そうだ、知っている!
「知ってます! おじいちゃんが言ってました!」
「ん?」
「スレヴィの森には、インケンでネクラな天才魔法使い『ミズガルド』が住んでいるって!」
 息を呑む程度の時間の、短い沈黙。
 次の瞬間には、アグロアの大きな笑い声が響いていた。当のミズガルド本人は、これ以上ないくらい渋面を深くしている。実のところ、トスティナはよく知らなかった。――インケンとネクラ、の意味を。
「あ、あの!」
 だからこそ、記憶から引っ張り出したその情報は、トスティナにとっては明るい光でしかなかった。自分の中から突き上げてくる衝動に身を任せ、彼女は叫んでいた。
「わたしを、弟子にしてください!」