■第一章:天才は天災を拾う 4


 カーラはその光景を目にして、こくりと一度喉を乗らした。短い前髪をそっと上にかきあげてから、橋の脇にあるちいさな階段から水路へと降りていく。
「ティナ!」
「あ……カーラさん」
 水路の脇。ささやかな土手になっている場所で、緑の絨毯の上にトスティナは仰向けになっていた。よろよろと身を起こす彼女の背に手を回す。
「怪我は!」
「わたしは大丈夫です。あの、さっきの男の子たち!」
 カーラの腕に、きゅっとトスティナの爪が食い込んだ。すがるように、こちらを見上げてくる緑玉の瞳。
「追いかけて、捕まえてください」
「でも、貴女怪我」
「してないです、大丈夫。だから、お願い、カーラさん!」
 真摯に想いだけをぶつけられて、カーラははっと短く早く息を吐いた。立ち上がる。
「判ったわ。宮廷魔法師の名にかけて」
 小さく囁く。そして、カーラは意識の中で理を展開する。魔法式と呼ばれる手順。世界の理を、ひとときだけ自分の理想とする理と同期させる術。
 それこそが――魔法だ。
「――跳べ」
 一言。同時にカーラは地面を強く蹴った。空気が耳元で鳴り、視界の中の景色が一瞬にして変わる。階段も使わず、もとの道に戻る。地面。触れた。また、蹴る。
(――あれは)
 二度目。すぐだった。空中から見下ろした景色の中に異質なものを見つけ、カーラは眉根を寄せた。地面に降り立つと同時に理を解除し、異質な光景へと走り寄る。
 そして、カーラは息を呑んだ。
 少年たちが三人。いずれも先ほどの彼らだ。鞄もある。それは間違いはなかった。だが、目の前の光景にいまひとつ理解が及ばなかった。
 通りの脇にある一本の大木。その根が絡んだかのように揃って地面に転んでいたのだ。それぞれがそれぞれ、抜け出そうともがいている。
 カーラは水色の目を細め、そっと口を手で覆った。
(これ……は)



 険しい顔をしたカーラが鞄を手に戻ってきて、少年たちも治安警察に引っ張っていかれ、これでようやく落ち着けるかと思ったのもつかの間、トスティナはそのままカーラに腕を引かれて早足で道を進んでいた。
「カ、カーラさん?」
 最初のうちはこちらに怪我がないか心配してくれてゆっくりと進んでくれたのだが、怪我が一切――擦り傷や打撲ほども――ないのが確かだと判ると、カーラの歩みは早くなった。橋をいくつか渡り、通りを何度も曲がり、やがてお洒落な煉瓦造りの建物の前へと出る。
 大きさはそれほどでもない。診療所、の看板がかかっていたが、その言葉から受ける冷たい印象は欠片もない、あたたかな雰囲気の建物だった。それは診療所の周りに植えられている花々が、どれもきちんと手入れされているように見えるからだろうか。
 その診療所の扉を、カーラは無造作に開けた。
「ネロ、いる?」
「あ、いらっしゃい、カーラさん。奥ですよ。今はお暇なので大丈夫」
「ありがと」
 受付台から向けられた女性の笑顔に、トスティナはきょときょとした。しかしカーラはまたトスティナの腕を掴んで奥の扉へと進んでいく。深い緑色の落ち着いた扉。診察室、と札が掛かっていたが、こちらもカーラは合図すらせず無遠慮に開けた。
「ネロ!」
「毎回毎回少しくらい合図してくれたっていいでしょうに」
 呻くような言葉とともに、その部屋の中、椅子に座っていた男性が苦笑した。トスティナは状況を理解出来ないまま部屋に入り、呆然とその男性を見上げた。
 背が高く、細身の男性だ。整った洋装の上から、白衣を羽織っている。眼鏡、というものだったか、丸い硝子の装飾品を顔につけていた。柔らかそうなふわふわとした茶色の髪が、この建物に良く似合っているようにトスティナには思えた。
 男性はカーラから視線を外し、こちらに目を止めた。眼鏡の奥の細い目が、少しだけ丸くなる。
「カーラ、この子は?」
「スレヴィの天災」
 短い言葉。だが、それだけで男性の表情が険しくなった。
「この子が……?」
「そうよ。――ああ、ティナごめんなさい。その辺座って」
「え? えと」
 唐突にこちらに話を振られ、トスティナは慌てて辺りを見渡した。近くに簡素な椅子があるのを見つけ、おずおずとそこに腰を下ろす。
「し、失礼します」
「はい、どうぞ。すいません、色々唐突でしょう」
 苦笑して、男性が言った。少しだけほっとして、トスティナも微笑を返す。
「僕はネロ。カーラの幼なじみです。お名前を伺っても?」
「ト、トスティナです。ティナでもいいです」
「そうですか。よろしく、ティナ」
 彼もまた愛称で呼んでくれた。そのことが何だか嬉しくて、トスティナはにこっと笑みを浮かべる。
「ネロ、今時間はある?」
 壁にもたれかかったカーラが訊く。
「予約は入ってません。それで、どういう経緯で?」
「村を追放されたらしいわね。で、死の森で迷って、偶然あの森の引きこもりが拾ったみたい」
 森の引きこもり。
 それがミズガルドを指すのだと理解して、トスティナは小さく苦笑する。それはネロも同じだったようで、曖昧に笑みを浮かべていた。
「相変わらずの拾い癖ですね。それで、カーラ? それだけじゃないんでしょう?」
「ええ。さっきちょっと、そこで物盗りにあってね」
「無事でしたか」
「やられたのはこの子じゃなくて、巻き込まれた、というより首を突っ込んだ感じなんだけどね」
 少々呆れられているのが声の調子から判ったので、トスティナは少し視線を外した。ふ、と短いため息が降って来る。
「正義感が強いのは良い事なんだけど、やっちゃダメよ、本当は。あんなこと」
「はぁ」
 今度また同じような状況になった場合やらないか、と問われれば、やるとしか答えられなかったので、トスティナは曖昧に返事をした。その事を理解したのか、カーラはまた短く嘆息する。
「この子はちなみに橋から落ちたわ」
「え。診ましょうか」
「怪我はないみたい。よね?」
「はい。痛いところとかないですー。地面、ふわふわでした。草のおかげみたいです」
 ネロが怪訝な顔をした。そっと、カーラを見上げる。カーラは肩をすくめて、こちらに一度視線を向けた。それから、壁から背を離し、ゆっくりネロに近づく。座ったままのネロへと腰をかがめて、何かを耳打ちした。
 こういうとき。
 大人たちがトスティナの前で何かをこちらに聞こえないように話しているとき。自分は口出ししないほうがいいとトスティナはよく知っていた。多くは自分に対してのことで、そしてほとんどがあまり良くないことだと判っていた。
 案の定、ネロの表情から穏やかな雰囲気が一瞬消えた。困ったように眉根を寄せ、トスティナを見て来る。視線が合うと、一瞬瞳が揺れた気がした。ネロはそのまま、ゆっくり視線をカーラに戻す。
「――どう思う?」
 カーラの言葉に、ネロは短く頷いた。
「噂どおり、ということでしょうね」
「あ、の」
 関わるべきではない。口を出すべきではない。そんなことは判っていた。頭では理解していた。けれど、到底納得できるものでもなかった。
 椅子から立ち上がり、トスティナは一歩前へ出た。
「教えてください。スレヴィの天災、って。ネロさんも知ってらっしゃるんですか? 皆知ってるものなんですか? わたしのこと、なんですよね?」
「……ええ。知ってます」
「ネロ」
 カーラの囁きが、ネロを諌める言葉だとは判った。だが、ネロは軽く肩をすくめただけだった。
「ただ僕が知っているのは、カーラやミズガルドと仲良しだから、ですね。カーラとミズガルドは仕事柄……まぁ、ミズガルドは昔の仕事柄、ですけど。そんなところですし、皆が皆知っている、というわけではありません」
 微笑まれ、ほんの少しだけ胸のつかえが取れた気がした。それでも、まだ疑問はあった。
「あの。何なんですか? スレヴィの天災って。噂ってなんですか?」
 何度も。養父にも訊ねた言葉だった。けれど、返ってきたのもまた、養父と同じ言葉だった。
「噂は、あくまで噂です、ティナ」
「でも」
「すみません。僕にはそれ以上は今は言えません。時が来ればいずれお話しする機会もあるでしょう」
 微笑は、問いかけに対する明確な拒絶に思えた。答えられない、という拒絶だ。視線を落とし、トスティナは自らのつま先を見つめた。
「……ティナ、ごめんなさいね」
 カーラの声に、ゆるく左右に首を振る。
「それで、カーラ」
 ネロが声を上げた。
「どうするつもりで?」
「そうね。どうしたほうがいいかしらね。話を聞く限り一応四則演算も読み書きも出来るみたいだし、簡単な仕事くらいなら探せるでしょうね。住むところなら、わたしが借りてもいいわ。もともと、その手配はするつもりだったの」
 そこまで面倒を見てくれるつもりだったのか、とトスティナは目を丸くして顔を上げた。
 気になることは答えてくれない。けれど、カーラはこちらを、とても気にしてくれていたのだと改めて判る。
 ネロは難しい顔で首を傾げ、
「いえ」
 と短く囁いた。
「やめたほうがいいでしょう。この街にいるのは得策ではありません」
「……よね、やっぱり」
「制御は?」
「さっぱりでしょうね」
 また、判らない会話だ。それでも、トスティナは口を挟めなかった。ふたりが真剣にこちらを心配してくれているのは、声の響きから判ったからだ。
「ミズガルドは」
「わがまま坊ちゃんに頼まれて、あたしはこの子を街に連れて来たのよ」
 はぁ、とネロが大きく息を吐いた。
「相変わらず面倒くさい思考回路してますね、あの人」
「ミズガルドなんだから仕方ないわ」
(酷い言われようだなぁ……)
 トスティナはこっそり胸中で呟く。ネロがゆっくり立ち上がって、窓を開け放した。子供の喧騒と一陣の風が吹き込んでくる。
「彼のもとにいるほうがいいでしょう。制御も学べる。森は街でも村でもない。この際ミズガルドの面倒くさい思考回路は無視しましょう」
「それが一番よね、やっぱり。あーあ。あたし何してるのかしら。振り回されて行ったり来たり」
「僕に会いに来たんでしょう」
「だまらっしゃい」
 ネロの軽口を切り捨て、カーラはトスティナに向き直った。
「ティナ、ごめんなさいね。勝手に色々話しちゃって」
「……いえ」
「せっかくここまで来て貰って申し訳ないんだけど。森に戻りましょう」
 手を差し伸べられ、トスティナは目を瞬かせた。
「え?」
「勝手にごめんなさいね。ミズガルドの弟子になってくれる? 貴女にとって、それが一番いいことだとあたしたちは判断したの。……理由は、今はまだ少し、どう話せばいいのか考えさせて」
 カーラの申し出に、トスティナは混乱したまま動けなくなっていた。
「弟子……? ミズガルドさんの?」
「ええ。魔法の弟子。あの子には、あたしから話すから」
 嬉しい、はずだった。
 確かに魔法は学びたかった。それが、養父の言っていた『天才』に学べるのなら言うことはない。実際、自分から一度志願したのだから。
 けれど、どうしても胸の奥に何かもやもやしたものが巣くっていた。
 魔法はそんなに良いものでもない。そう告げたときのミズガルドの表情を思い返す。そしてなにより、この事態を大人たちが勝手に決めたということ。それらが、ちいさな雨雲の切れ端みたいに、胸の奥で漂っている。
 それでも、自分はひとりで生きていくには弱すぎた。資金も微々たる物だし、生きていくための能力もない。ここで大人たちの言葉を跳ね除けることも出来なくはないだろうが、あまりに心もとなかった。
 そして何より、カーラとネロが真剣に自分のことを考えてくれているのは確かだった。それだけは理解出来た。だからこそ、その彼女らの考えを無碍に一蹴することは、トスティナには出来なかった。
「――はい。お願いします、カーラさん」



 カーラに手を引かれ、街を出て、また、来た道を戻っていく。華やかな景色は遠ざかり、白い、どこか寂しげな森が視界を覆う。馬車を降り、日が傾き始めた森の中を早足で進んでいく。
 小さな、赤い屋根の家。
 カーラが扉を開けると、栗鼠たちが飛び出してきた。少し遅れてから顔を出したミズガルドがトスティナを見付け、目を見開く。
「カーラ、どういう」
「スレヴィの天災は本物よ。制御を学ぶ必要がある。それがあたしとネロの見解。ここに連れて来た理由が判るわね?」
 短い言葉に、ミズガルドの表情が一変した。強張った顔で、何かに怯えるような――そんな瞳でトスティナを見据える。
 胸の奥が、キシ、と小さく音を立てた気がした。
 張り付いた唇を何とか引き剥がし、トスティナはミズガルドの揺れる瞳を見上げた。
「あの」
 服の胸元を握り締め、トスティナは言った。二度目の、言葉を。
「わたしを、弟子にしてください」