■第二章:時代の歯車 1


 少年は走っていた。
 疲労が確実に溜まっていく足は重くなる一方で、前へ進んでいる確証すら持てなくなる。もつれ、何度となく転びかけながら、それでもただ走っていた。
 悲鳴が背後から、まるで追いすがるように聞こえてきて、それが怖くて、それから逃げるように、彼は走っていた。
 時折、思い出したかのように地面が突き上げられた。踏み出す足の先、夏草がぬるりと溶けているかのような感触を伝えてくる。地面が突き上げられ、あるいは横に揺さぶられ、その度に地面に手を付き身を屈めて何とか耐えた。幾度か。数えることも出来なくなった頃、林を抜けた。
 ――ミズガルド!
 聞きなれた声。顔を上げた。見慣れた顔がそこにあり、彼は安堵の息を吐いた。駆け寄る。
 ――無事だったか。
 見慣れた顔の少年が、強張った顔でこちらを見つめてくる。その表情がふいにぐにゃりと闇に溶けたバターのように歪んだ。それはすぐに消え、先ほどより幾分大人びた、けれどまごうことなき同じ少年の顔がそこに浮かぶ。しかし、その表情は強張りはしておらず、多分に嘲りを含んでいた。
 そして、彼は気づいた。
(夢だ)
 いつもの、夢だ。理解する。そうであれば、この先もいつもどおりの展開だろう。考えるまでもなく、夢はいつもどおり進んでいく。
 嘲りを浮かべたその人物は、伸ばしたこちらの手を無造作に払いのける。
 ――哀れだな、ミズガルド。
 ――五月蝿い。
 ――もういない。誰もいない。父も母もいない。誰が殺した、誰のせいで死んだ、何故そこから逃げる、過去から逃げる、逃げて何になる哀れな自分を自分で慰めるだけの時を歩むのを選ぶか――
 堰を切ったように溢れ出す、呪詛のような言葉。強固な蔦のように自らを絡め縛り、動けなくしてきた声。払いのけたくても、逃れられない。だから彼はいつも夢の中で、悲鳴を上げる。
 ――やめろ!

「――せんせい!」

 覚醒は急速だった。闇の中に、金色の光が割り込んでくる。それが、覗き込んでいる少女の長い髪だと理解して、ミズガルドは腹腔から短く息を吐き出した。寝汗がひやりと首筋を冷やす。
「先生、大丈夫ですか?」
 先生。
 呼ばれなれない言葉に思わず軽く身じろぎした。見下ろしてくる少女は、宝石のような緑玉の瞳を、不安げに揺らめかせている。一繋ぎの服は、年頃の少女にしてはレースやフリルといった飾り気もなく、ただただ麻の味気のないものだ。純朴な少女は、無言のまま見上げるこちらに不安を抱いたのか、もう一度「先生?」と呼びかけてきた。
「入ってきたのか。鍵は閉めていたはずだが」
「え、あ。ごめんなさい! あの」
「どうやって入った?」
「あ……アグロアが開けてくれました」
「へっへェ、可愛いお嬢の頼みごとは、オイラ断れねェンだなァ」
 声の方向に首を向けると、いつもの白髪の風が、いつもの調子で浮かんでいた。舌打ちし、身を起こす。
「だだだ、大丈夫ですか」
「何がだ。君は落ち着きがないな」
「だ、だって、うなされてました」
 そう言われ、ミズガルドは眉を顰めた。
「うなされていた。俺がか」
「です」
 こくん、と無造作に頷かれ、ミズガルドは髪を掻き揚げた。声に出ていたということなのだろう。それを心配して入ってきたというのなら、咎めようがない。
「判った。悪かった。何でもない」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。……出て行ってくれないか。着替えたい」
 告げると、少女ははっと顔を強張らせる。頬を紅潮させながら、一度ぺこんとお辞儀をして慌てた様子でアグロアと共に出て行った。見送って、ようやく安堵する。
 寝台から抜け出し、板張りの床へと裸足のまま降り立つ。窓辺で、にゃあ、と声がした。若干立て付けの悪い窓を開けると、張り出た一階の屋根に黒猫がいた。最近よくやって来る一匹だ。白い森と降り注ぐ朝日の中で、際立って艶やかな黒い毛並みに目を細める。
「おはよう」
 にゃ、と短く鳴いて、猫が部屋に入ってきた。そのまま、ミズガルドは衣装を着替える。寝間着を脱ぎ、いつもの長衣に袖を通す。黒く重い雰囲気の長衣は、いいかげんやめたら? と何度かカーラに言われている。が、不自由もないのでこのままだった。
 鏡代わりに、窓に自分の姿を映す。眠そうな、不機嫌そうな男の顔だった。襟元にあの頃のような印章は見当たらない。あれは、自分が引いた後の空席を埋めた、カーラの襟で今は光っている。
 宮廷魔法師ミズガルド。かつては、そう呼ばれた。もうずいぶん昔のことだ。歴代最年少で宮廷魔法師に選ばれ、一時期は騒がれもした。しかし、過去のことでしかない。
 自問する。
 あの印章すら手放し、時折舞い込む薬の仕事程度で生計を立てている自分に、いまさら魔法使いを名乗る資格はあるのか。あまつさえ、弟子をとるなどと、暴挙が過ぎるのではないか。
 そうは思っても、結局のところこの事態は変えられはしないだろう。嘆息を飲み込み、ミズガルドは寝室をあとにした。

 ◇

 魔法。それは理想を象る理であり、理想を律する術である。
 この世界は通常、違えることの出来ない理がいくつも組み合わさりその上で出来ている。安定した不安定――と、魔法使いたちはよく口にした――の上で、人は、否人をはじめとしたすべての生物は生きている。
 魔法とは、その理の中に杭を打ち込み、一瞬出来た隙間の中に自らの理想とする理を展開することだ。勿論それらは非常に不安定なものだから、長くは続かない。それが、魔法というものだ。
 ――と。
 目の前で繰り広げられる講義に、トスティナはただただ目を瞬くしか出来なかった。
(む……むずかしい!)
 正直なところ、ミズガルドが何を言っているのかさっぱり判らなかった。用意してくれた手元の黒板に判るところだけ書こうとはするのだが、先ほどからチョークを持つ手は動いていない。
「その自らの理想とする理を展開するのが魔法式だ。式にはいくつかの規則性があって、それらを組み合わせて意識の中に展開する。魔力というのは意思の力ひとつであって、種別に過ぎない。誰でも持っているんだ――ただそれを普段は魔力と認識してはいない。その意思を選別し、練り上げることで意思の力を意志――こうしたい、という魔力に変える。展開した魔法式に魔力を注ぎ込むことで、それは通常の理の中に入り込む」
 そこまで一息に喋ってから、ふ、とミズガルドは言葉を切った。
「……判るか?」
「すごくよく判りません」
「だろうな」
 短く頷かれ、トスティナは頭を垂れた。頭上で、大きなため息が聞こえる。
「顔を上げろ。君が悪いわけじゃない」
 素直に顔を上げると、苦虫を噛み潰したような顔をしたミズガルドが、卓に手をついてこちらを見据えていた。
「俺は久しく大きい魔法なんて使っていないし、人に教えるなんてのも不得手だ。正直、俺を師とするのは間違っていると思う。だが、カーラがああ言った以上教えるしかない」
「はいー……」
 怒られているのか迷惑がられているのか、正直よく判らない。
「だいたい、俺は理論が苦手だ」
「はー……え?」
「苦手だ、と言っている。魔法は理論の学問だとお偉方は言うけどな。正直理論を正確に理解した覚えなんてない。だから、人に教えるのは苦手なんだ」
「そうなんですか?」
 天才、と呼ばれた魔法使いの言葉に驚いて首を傾げる。
「先生は……えっと、いつ頃から魔法を?」
「俺か? 八つか九つか……そのくらいだったと思う」
「すごい!」
「すごくはない。だからたぶん、理論が苦手なんだ。感覚だけで覚えたからな」
(あ……)
 肩をすくめるミズガルドの口元が僅かに緩んだのを見て、トスティナは小さく微笑む。
「どうした?」
「あ。いえ。そ、それで……どうやったらわたし覚えられますか?」
 問いかけに、ミズガルドの口元の緩みがするすると消えた。すっと、立ち上がる。
「あれ、先生?」
「外に行こう。実践のほうが君には判りやすそうだ」

 ◇

 栗鼠やら鳥やらを踏みつけないように外に出ると、白い木の上にアグロアが座っていた。
「アグロア! 急にいなくなっちゃうからびっくりしました」
「ンぉ。外に来たのかィ? だーって、オイラあーいう小難しい話聞いてらンねェやァ」
 にか、と無邪気に笑みを向けられ、トスティナは少しほっとして笑みを返した。
「わたしも、難しくて」
「実践だ。邪魔するなよアグロア」
「へィへーィ」
 ミズガルドはざっと辺りを見渡し、手にした本を近くの切り株の上に置いた。黒い表紙の、重くしっかりとした本だ。
「トスティナ」
 呼ばれて、とてとてと近寄る。ミズガルドは重い表紙をゆっくりと開き、数頁捲る。
「これでいいか」
 呟いて手を止めた頁には、何やら複雑な図形が載っている。丸と、その中に描かれたいくつもの直線や曲線。
「林檎?」
「……どう見たら林檎に見えるのか知らないが、まぁ、そう見えるならそれでいい。これが魔法式のひとつだ。見ながらでいい。これをその辺りの地面に描いてみろ」
「描くんですか?」
「初心者のうちは、描いたほうが意識の手助けになるからな」
 トスティナは頷いて、きょろきょろと辺りを見渡した。傍に落ちていた木の枝を手に取り、本を見ながら図を引いていく。
「大きさ、このくらいですか?」
「適当でいい」
「はーい」
 ざりざりと土を掻いていく。何度も本の元へ戻り、見ては描き、見ては描きと繰り返しているうちに何とかそれらしい図が出来上がった。
「出来ました!」
「ああ。上出来だ」
 ミズガルドが頷く。顔を上げた。
「上から、どうだ。アグロア」
「問題なさそうだぜェ」
「だ、そうだ」
 良かった、とトスティナは微笑んだ。ミズガルドが腕を組む。
「――今描いて貰ったそれを、通常魔法使いは意識の中で描く。ひとつの欠けもなくな。描いて貰った分、一本一本の線の場所が判り易いはずだ。この先はそれをしっかりと見据えながらやれば、自然に意識の中に展開出来る」
「はいー」
「ちなみにその魔法式は、一番基礎となる光明の式だ。それだけは徹底的に叩き込め。魔法式は基礎の上に二式、三式と重ねて展開するのが基本になる」
「はぁ……」
 こんなごちゃごちゃとした難しい図案を基礎といわれても、正直呑み込めるかどうか不安ではあった。ただ、不安はいつだってある。不安だけを抱いていても仕方ない。
「その前に立って、図案を意識の中に定着させる。そして光明……光だな。手のひらに乗るくらいのちいさな明かりを思い浮かべるんだ」
 ちいさな明かり。トスティナは頷いて、描いた式の前に立つ。じっと、式を見据えた。
「白い、無機質な光だ」
 ……白い。
「月光に似ているかもしれない。中空で、支えもなく浮くちいさな明かりだ」
 ……支えもなく。
 式だけを見据えている中に、ミズガルドの低く澄んだ声が染み込んでくる。それこそ、意識の中に流れ込んでくるようだった。
「熱はない。ただ、静かで硬質な明かりだ」
 ……熱はない。
 静かな声の中に、見えるのはただ式だけだった。頬を風が撫でていく優しさが、心地よい。
「……声に出してみろ。明かり、と」
 どこかふわふわとした意識のまま、トスティナは薄く唇を開いた。
「あか……り」
 呟いた瞬間だった。パンッ、と水面を空気が叩くような大きな音がした。
「うっひゃァ!」
 素っ頓狂な声が聞こえて、トスティナははっとした。続けざまにパンッ、パンッと弾ける音があちらこちらでして、その度に雷の夜のように視界が白くなる。
「まぶしっ……おいおいお嬢やりす……きゃーっ」
 頭上からアグロアの声が降って来る。式を凝視したまま、どうしたらいいのか判らず動けずにいるとぐっと肩を引かれた。そして、地面に描いた式が誰かの靴底で消される。
(あ……)
 式が消えた瞬間、硬直が解けた。顔を上げる。ミズガルドが隣に立っていた。どうやら式を消したのはミズガルドだったらしい。
「せんせ……」
「――上出来、と言いたいところなんだが」
「や・り・す・ぎ! オイラァ目ン玉ぐっらぐらだぜィ」
 何が起きたのか理解出来ず、トスティナはアグロアとミズガルドを交互にきょときょとと見上げた。ミズガルドは微苦笑を浮かべ、
「目視した限りでは十二個。君が作った明かりの数だ」
「え」
「……俺はそんなに作れといった覚えはないが、まぁ、普通は出来ない。すごいな」
(褒められ……た?)
 驚きが先に立ち、嬉しさは出てこなかった。ただ呆然と、ミズガルドを見上げる。
「力はありそうだ。……制御かな。問題は」
「は、はい」
「俺はさっき言ったとおり、教えるのは下手だ。多分相当、下手だ。ただ、出来る限りのことはする。……それでいいか?」
 声に含まれる確かな優しさに、トスティナは大きく頷いた。
「はい。お願い、します」