■第三章:真実の足音 2



 たんっ――!

 軽やかな音と同時に、視界がぶれた。日陰から、日なたへと。眩しさが一気に目を刺し、風が頬を叩く。
「ひゃ……」
「しっかり捕まってろよォ、ティナ!」
 飛んでいた。アグロアに抱えられ、トスティナは空に浮かんでいた。眼下に見上げている二人の男が見え、それもやがて視界から消えた。石造りの街並みが離れていく。青い空に抱かれるようだった。
 街が、小さく見える。
「ティナ! 大丈夫かァ?」
「はっ、はいいっ……」
「そこに降りっぜィ」
 ふっと、心臓が揺れる感覚に襲われる。次の瞬間、トスティナはアグロアに抱えられたまま、どこかへと降り立っていた。とはいえ、まだ、高い。
「こ、ここは?」
「時計塔だァねィ。判るかィ?」
 尖塔の一部に当たるらしい。そっと降ろされて、トスティナはその場に座り込んだ。高くて、さすがに立ってはいられない。
 石で出来ている時計塔の端に腰をかける。背中を壁にもたせかけ、短く息を吐いた。アグロアは怖くはないらしい。飄々とした様子でその場で立っている。
 下は見ないほうがいい。自分で自分に言い聞かせ、顔を上げる。
「あ」
「ン?」
「アグロア、髪」
「あァ。解いちまった。まァ、そのほうが飛びやすいかンなァ。なァんか胡散臭くて、オイラあの場でいたくなかったんだァねィ。悪イねェ」
「いえ。ありがとうございました」
 ぺこり、と頭を下げる。白髪に戻ったアグロアは、服装もいつもどおりの軽やかなものとなっていた。
「大丈夫かァ、ティナ」
「あは……まだ、ドキドキいってます」
 胸を押さえて笑ってみせる。「でも」とトスティナは続けた。
「わたしも、なんか変だと思いました。……助けてくれてありがとう、アグロア」
 ゆるく微笑むと、アグロアは少し困ったように苦笑した。その顔を見上げ、トスティナは静かに切り出した。
「これ、持って。先生のところに行ってくれますか?」
 先ほど購入したばかりのルーシャの実が入った袋を差し出す。アグロアは戸惑った様子で受け取った。
「ティナ?」
「先生に、伝えに行ってください、アグロア」
「何言ってンだい、ティナ。それならオイラ、アンタ連れて行くさァ」
「でも、アグロア」トスティナは小さく笑った。
「飛ぶの、いつもよりずっとずっと、遅かったです。わたしを気遣ってくれたのでしょう?」
 抱いて空を飛んでいるとき、ゆっくりにすら感じたのはそのせいだろう。いつも、アグロアは一瞬でいなくなる。それほど、早い。
 アグロアがバツの悪そうな顔をしている。少し首を傾げ、トスティナは囁いた。
「風は身一つで吹くほうが早いです。大丈夫。ここなら誰も来ません。お願いできますか? アグロア。これを先生に届けてください。それから、お話ししてください。なんだかおかしいです、こんなの。先生にお話してください」
 アグロアは少しの間、迷ったようだった。だが、ややあってゆっくり頷いた。
「オイラ、すンぐ行ってすンぐ戻ってくっから、ティナ、絶対ここ動くなよ?」
「はい」
 頷く。アグロアはふっと短く息を吐いたかと思うと、その瞬間にはもうその場にはいなかった。
 空が青い。
 不安が胸の奥を押し上げてくるのを感じながら、トスティナはじっと空を見上げた。
 ――信じよう。
 きっと、大丈夫だと。



「……毎回ここに来るたびに訊いている気がするけれど、今日も訊くわね。何ごと?」
 扉を開けるなり、カーラは冷ややかに呟いた。
「……うるさい」
 ミズガルドは低く呻き、頭に残った切り株をそっと手で隠してみた。無意味だと判ってはいたのだが。
「頭になに生やしてるの貴方」
「……木だ。馬鹿がしくったんだ」
「解きなさいよ」
「材料が足りん」
 呻くように答えると、カーラは諦めたような仕草で頷いた。座るわね、とその場の椅子に無造作に腰を下ろす。
 ミズガルドはそっと頭の上の切り株を撫でてみた。多少、切ってみたのだが――邪魔で邪魔で仕方なかった――根が髪の根本と絡んでいるらしく、これ以上はどうしようもなかった。
「……で? そっちこそ何のようだ。今日は会議とかで来れないんじゃなかったのか」
「ええ。終わったから来たの」
 端的な答えに、思わず眉根を寄せた。
「早いな」
「会議って名前だけね。ただただ決定事項の報告みたいなものだったから。――ティナと風は?」
「使いに出している」
 頭を指すと、それだけでカーラは理解したようだった。短く頷きを返してきた。
「そう。ちょうどいいかしらね」
「何がだ?」
 膝に飛び乗った子猫を撫でながら、カーラが囁く。
「とうとう、王が決めたみたい」
「決めた?」
「和平を」
 短い言葉。思わず、ミズガルドは息を呑んだ。ややあってから、静かに細く息を吐き出し、自らも近くの椅子に腰を下ろす。足元に近寄ってきた子犬を抱き上げて膝に乗せた。
「……そうか」
 沈黙が落ちた。小動物たちの足音が耳に痛い。ややあって、カーラが微笑した。
「複雑?」
「いや。……いいことだろう」
 九年前。長きにわたる人と民の戦争は休戦という形を持っていったんは集結した。しかし、あくまで休戦だ。終戦とは違う。それが危うい状態だと国の上層部は常に理解していた。現国王はその危うさに終止符を打とうとしているということだ。悪いことのはずはない。
「――反応は?」
「賛成が四人、反対がふたり。どっちでも、上の決定なら従うってのがひとり」
 訊かれることは想定していたのだろう。カーラはすんなりと答えた。
「【国王の為の七人】でそれか」
「ええ。こうなると他の重臣たちも揃って大歓迎とはいかないでしょうね」
 いわゆる【国王付き】と呼ばれるのは、宮廷魔法師【国王の為の七人】(キングズ・セブン)に、近衛兵団【国王の為の五人】(キングズ・ファイブ)、政務官【国王の為の九人】(キングズ・ナイン)、それと数名の側近がいる。政務官たちは国王付きの名は課せられてはいるものの、政治のために国王にノーを言うことも少なくはない。しかし、宮廷魔法師うちから反対意見が出るようでは、他の国王付きからもどういう反応があるか、難しい所ではある。
「前王の威光はまだでかいか」
「小さくはないでしょうね。今の王とは考え方が違いすぎるわ。前王の崩御も、正直きな臭いところはあるし」
 ミズガルドは軽く頷いた。公で人の口に上ることはないが、以前からそういう噂は囁かれている。現王は、もともと王位継承権四位にあたる末弟の王子だった。それが兄たちが次々と亡くなり、まだ若かった王も病死し、結果的に王になった。王位についた時にはまだ十代で、あまりの若さに国民の間からでさえ危ぶまれる声が漏れたものだったが、数年の間に王は現行組織の組み換えや地域の医療制度促進などと見事に手腕を発揮し、今彼を若さ故に危ぶむ声はないといっていい。
 だが、現王は少々風変わりな所がある。その一つとして、国王付きの入れ替えを行わなかったのだ。王が変われば、国王付きは変わる。そんな今までの風習を、無駄だとあっさり切り捨てた。おかげで、今の国王付きたちは、現王とは忠誠の義を行なっていないのだ。
 それを含め、徹底的に民の排除を口にし続けてきた前王と、共存を口にする現王では考え方が違いすぎる。きな臭い噂が立つのも、ある意味仕方が無いとも言えた。
「――それで、どうするつもりだ? 民側は話し合いの場に出てくることはないだろう?」
 ミズガルドの言葉にカーラは難しい顔をした。
「問題はそこよねえ……」
 その時だった。
 ばんっと派手な音ともに窓が開かれた。大きな音に、ミズガルドとカーラの膝に乗っていた犬も猫も逃げ出す。
「ミズガルド!」
 ただならぬ緊張を帯びた声と共に、風の少年が飛び込んできた。一緒にいるべき少女の姿はない。
 椅子を蹴って立ち上がり、ミズガルドはアグロアと向き合った。
「何事だ」
「なンか胡散くっせェ事になっちまったィ」
 アグロアが、いつになく硬い声で状況を話し始める。宮廷審理会。その言葉が出た時、思わずミズガルドは舌打ちした。そこに手を回せるのは国王付きぐらいだ。
「アグロア、力を貸せ」
「あいよォ!」
 ミズガルドはふっと短く声を発した。
「風よ」
 呪文。それは理想を象る術の一つ。式を展開する。そう難しくはない。四式で足りる。
 風が身を包む。軽く床を蹴ると、体が浮いた。アグロアが何かを囁く。聞き取れない速さの呪文。それは身を包む風の上から、また風を重ねた。浮き上がりながら、ミズガルドはカーラを見下ろした。彼女もまた、表情は硬い。
「先に行く」
「ええ。すぐ追いかけるわ。こっちは馬車になるけどね」
「ああ」
 浮遊の術そのものはともかく、長距離移動は風の民の力がいる。民の力は、民が慕っているものにしか貸し出すことはない。今のこの状況ならアグロアなら貸してはくれるだろうが、一人に貸すのと二人に貸すのとでは力に差が出てくる。今は、とにかく急ぎたかった。
「気をつけて」
 カーラの言葉に頷き、ミズガルドは大きく息を吸った。
 ――飛ぶ。



 トスティナは後ろから吹きつけるやわらかい風に気がついた。塔の上に自然に吹く風とは違う、人為的な風だ。少しの安堵を覚えながら振り返った。
 塔の壁に手をつくようにして、トスティナのすぐ後ろに立つ人物がいた。
 少々野暮ったさのある黒髪。目鼻立ちの整った顔立ち。黒い長衣姿。
「――ティナ」
 見慣れた姿。聞きなれた声。そのはずだった。そこにいたのは、ミズガルド――によく、似ていた。
 すうっと、頭の血が降りていくような気がした。何か、何かが、違う。
 胸の奥で、理屈ではない感情が警鐘を鳴らしている。おかしい。おかしい――と。
「せん……せい?」
 自分の声が震えていることに気づいた。しかし、どうしようもない。見上げる人物は、見慣れた顔で、けれど見慣れない微笑を浮かべていた。
「ああ」
 ――違う!
 低い肯定の声に、トスティナは反射的に胸中で叫んでいた。そっと中腰で立ち上がり、距離を取る。
「ちがい……ます」
 目の前の、師によく似た誰かは口元にだけ笑みを浮かべている。そうだ。微笑はしているが、それは口元だけだ。眼は笑っていない。
「違います。貴方は先生じゃない、です。……どなた、ですか」
 すうと、手が伸びてきた。咄嗟に払おうとしたが、無駄だった。こんな場所では逃げることもままならない。強い力で手首を握られた。師と同じ声が、何かを囁いた。刹那。
「……っ!」
 トスティナの全身を刺すような痛みが襲った。息がつまり、視界が白くなる。身を支える力すら抜けていく。
(せん……せい)
 声も出なかった。トスティナは静かにその場に倒れ込み、意識を手放した。