■第四章:ほんとうのこと 2


 少しの沈黙の後、ミズガルドが軽く頷いた。
「――どこから……話せばいいのか。君は何から聞きたい」
「……えと、じゃあ……あの人のことが知りたいです。さっきの、怖かった、人のことを」
 カーラも、アグロアもネロも、誰も喋らなかった。静かに、それぞれ壁に背を預けたり手近な椅子に座ったり、宙に浮いたりしたまま、沈黙を保っていた。
「あれは、マイセルという。俺の双子の兄だ。今は宮廷魔法師の第一位……カーラの上官にあたるな」
「お兄さん」
 呟きに、首肯が返ってきた。あの瓜二つの容姿はそういうことだったのだろう。ひとつ疑問が氷解し、トスティナはまた少し、ほっとする自分に気づいた。訳が判らない、理解できない。それは、知っていて判る恐怖よりずっと不安になる。知らないより、知るほうがいい。
「判りました。じゃあ……あの人の、言っていたことを知りたいです。……わたしの、ことを」
 誰かが息を吐いた音が聞こえた。ふっと、師が微笑んだ。柔らかで、けれど何かを諦めたかのような笑みだった。
「歴史の講義とでも思って聞いてくれ。昔、俺が生まれた頃に戦争が始まった。民と人の間でな。きっかけはいろいろ言われているが……まぁ、始まってしまえばどうしようもないものだろう。俺とマイセルはまだ子供だった頃に街も親も失った。正直なところ、君が生きていくために魔法を、という気持ちは良く判ったんだ。俺もそうだった。マイセルは判らんが」
 懐かしそうに、痛ましそうに、少し目を伏せてミズガルドは続ける。
「馬鹿だったな。無理やり詰め込んで、ものにした。正直汚い手も使ったが、とりあえず宮廷魔法師にはなった。それがどういうものかも判らずに」
 膝の上に組んだ指を見下ろしながら、ミズガルドはどこか自虐的な笑みを浮かべている。
「まだ、戦時だった。当然宮廷魔法師は戦にも赴く。派遣された村は……地の民の村だったんだ」
「地の……民」
「火はいずこ」
 アグロアが言葉を割り込ませてきた。目をやると、なぜか少し泣き出しそうな面立ちで、アグロアは口を開いていた。
「知ってッかな、ティナ。そういう歌」
「知ってます。おじいちゃんも、時々口にしてました」
「そっかァ。……火はいずこ、地は絶えた、水はまだある、風はやまない。……あれサ、時代とともに文言変わってンだァね。オイラが昼間に歌ってたヤツ、あれはあの歌の、最初の頃の、みィんなして楽しかった頃のなんだァ」
「そう、なんですか?」
「うん。オイラ、さっきは民の言葉で歌ってたンだけどさ。こンな歌詞なんだぜィ」
 アグロアが泣きそうな顔のまま続けた。


 火はぬくもりを
 地は萌ゆる
 水は輝き
 風はやまない


「……だからサァ、地だって、ちィと前まではいたんだ」
 ミズガルドが頷く。
「いたんだ。確かに。いや、いる、だな。――君だ、ティナ」
 見つめられ、ティナはきゅっと胸元を握り締めた。思わず視線を逸らしたくなったが、その衝動を押さえつけ、ミズガルドと正面から視線を交差させた。
「わたし」
「地の民だ。その髪色も、瞳の色も。君は確かに地の民なんだ。――噂は前からあった。俺は、確かめこそしなかったとはいえ、マイセルの言葉を否定できない。知っていた、ことになるんだろう。黙っていてすまなかった」
 言葉が上手く出て来なかった。トスティナは自らの鼓動の音を聴きながら、ゆっくり口を開く。
「先生は……」
(――その時のお仕事をどうされたのですか?)
 続けたい言葉はあったのに、言葉が音に乗らない。乗れば、それは痛みを伴って返ってきそうだった。
 しかし、ミズガルドは音にならない言葉を察したのだろう。すっと立ち上がると、こちらに背を向けるように窓から外を眺めた。背中で、答えてくる。
「俺とマイセルは、仕事を遂行した。その時からあの歌で地は――地は絶えた、と歌われ始めた。スレヴィの森にも死化が広がった。理由は判るだろう」
 判る。判るが、理解りたくはなかった。何も言えず、トスティナは俯いた。
 地の民。何の事なのか判らない。唐突に足場がなくなったかのような不安定な感情が、ゆらゆらと揺れ動いていて形を成さないようだ。
「せん、せい」
 震える声が、聞かないほうがいいであろう事を聞こうとして口をついた。止められなかった。
「わたしは、人じゃないんですか?」
「……民だ。しかし民もまた、人と同じだ。詭弁のように聞こえるかもしれないがな」
 ミズガルドが振り返った。緩やかな笑みが痛くて、トスティナは俯いた。言葉がもう、出てこない。
 俯いたトスティナの頭に、誰かの手が触れた。驚いて振り返ると、ネロが困ったような顔で微笑んでいた。
「混乱しているでしょう」
「……ネロさん」
 にこりと、やさしく微笑まれた。
「カーラ、それから引きこもり坊ちゃんと風の子」
「……誰のことだ」
「あんたですよ、ミズガルド。部外者がこういうのもあれですけど、いろいろ、急すぎるんじゃないですか。大人はいつも、事をいそぎすぎますから。ね」
 ね、と微笑まれ、トスティナはあいまいに笑って見せた。笑えるだけの心が残っていたことが、少し自分でも驚いた。
 そのまま、ネロは頭をくしゃりと撫でて来た。
「ティナ? 大丈夫ですか?」
「えと……」
「もし良かったら、一晩うちに泊まりますか?」
 唐突な申し出に、トスティナは思わず目を見開いた。
「ミズガルドの家にいるのがつらいなら、です。どうですか? ミズガルドは?」
「……そうだな。少し、時間をおいたほうがいいだろうな。俺は今、普通に接することが出来そうにない」
 あいまいに微笑まれた。カーラも、アグロアも何も言わない。トスティナは、自分に決定権が託されていることを理解した。目を閉じ、茹るような頭をそっと手で押さえながら呟いた。
「ネロさん」
「はい」
「……おねがい、しま、す」



 昇り始めの月はまだ赤みを強く帯びたまま、空に浮かんでいる。
 ネロの診療所は、奥で居住用の建物と繋がっていた。居住用の二階、露台の手すりにもたれかかって、トスティナはぼんやり空を見上げていた。
「風邪、引かないようにしてくださいね。この季節でも夜は冷えますよ」
 やわらかな声に振り返ると、ネロが入り口で立っていた。部屋の明かりが、ひっそりと彼を夜の中で浮き立たせている。
「大丈夫です」
「髪、湿ってますよ」
 近寄ってきたネロにぽんっと頭を叩かれて、思わず苦笑した。肩口を滑る髪の一房を手で撫でる。僅かな明かりでも、いつもならゆるくきらめくはずの髪はこの程度の明かりでは黒髪のように思えた。
「髪」
「はい?」
「……気に、いってたんです。お日様の色みたいって」
 口にして初めて、自分がそんなことを考えていたのかと思った。ぐっと、何かが喉の奥で詰まっている。急に顔が熱くなって、トスティナは俯いた。
「ごめんなさい」
「いいえ。当たり前の感情でしょう。僕はこの髪色も綺麗だとは思うんですけどね」
 裏がない明るい声で言われると、俯いているのが恥ずかしくなった。顔を上げて、笑ってみせる。
「ネロさんは、驚かれないのですか? こんな髪の色になっちゃっても……何もおっしゃらないです」
「うーん。そうですねぇ。こう言ったら失礼でしょうけど、僕、貴女の事ほとんど知りませんし、貴女自身が変わったようにも見えないですし。ちょっと若気のいたりで髪の毛を染めちゃった、ぐらいの感じでしょうか?」
 真顔で首を傾げられる。その様子がなんだかおかしくて、トスティナは思わず小さく笑い声を立てていた。
「知らないうちに、染まっちゃいました」
「災難ですよねー」
「はい」
 くすくすと笑いながら頷く。それから、はっと大きく息を吐いた。夜の空気を肺に吸い込むと、少し、世界がクリアに見える。
「わたし、よく判ってないんです。今の状況。たぶんすごく、大変なことなんだと思います。先生も、あんな顔していたし。でもわたしって、結局髪の色変わっちゃったなぁ、ぐらいの所でしか考えられていないんです。おかしいですよね」
「普通でしょう」
 トスティナの隣で、手すりに肘をついたネロが器用にそのまま肩を竦めた。
「あの状況でなにもかも理解出来るなら、究極の馬鹿か頭のおかしい天才かってところでしょう」
 あまりの言い草に、やはり苦笑するしかない。それから、ふと思いついてトスティナは聞いてみた。
「天才……っていまおっしゃいましたよね。あの、先生って天才、なんですよね?」
「あー……そうですねぇ。あれの魔法見たことありますか?」
「あります。ただその、わたしにお手本見せるくらいので……どれくらいすごいのか、実はよく判っていなくて、その」
 師がいない所でこういう話をするのは礼に欠ける気もした。ただ、ミズガルドは自分のことを話したがらないので、こうでもしないと聞く機会もない。
「そうですね。ミズガルドの能力……というと、あれですね」
 穏やかな顔のまま、ネロは言った。
「むかつきます」
「むか……え?」
「むかつきますよー。なかなか手に入らない薬すら、ぽろっとこっちが口を滑らせただけである日唐突に持ってくるんですよ、効能の似た、むしろ求めてたものよりいいやつをサクッと作って。で『買うか?』と聞いてくる。こっちは患者さんがいるから買うしかないわけですよ、そんなもの見せられたら。それが何度あったことか。だいたい『なんとなく』で作れるあたりが腹がたって仕方ないわけです」
「あ、あの」
「カーラも似たようなこと言ってましたけどね。これこれこういう魔法を組み合わせたいんだけどって相談に言ったらしれっと『出来たぞ』って言うらしいですよ、七式展開して。馬鹿じゃないですかね、あれは。七式なんてどれだけの人間が出来ると思ってるんですかね。想像力が欠如しているんじゃないですかね、まったく。普通は一流と呼ばれても五式くらいなもんですよ」
 そこまでべらべらと告げて、ネロはにこっと、無垢に笑った。
「理解出来ました?」
「は、はいー……」
 へらっと笑い返すしか出来なかった。なんとなく、師の姿を初めて理解出来た気がした。
 ふわりと、風が髪を揺らして過ぎていく。街の夜は遅いのだろう。微かなざわめきもまた、風に乗って聞こえてくる。
 揺れる緑の髪を目の端で追いかけて、トスティナは姿勢を変えた。手すりに背中を預ける。
「てんさい」
「ミズガルドですか?」
「いえ。……わたしのこと、です」
 小さく答えると、ネロが「ああ」と困ったように頷いた。
「気になりますか」
「ネロさんも、知ってらしたんですよね」
「噂だけです。……カーラやミズガルドと付き合いがあると、どうしてもそういう情報は入ってきてしまう」
 こくん、と頷いてみせた。その理屈は、判らないではない。
「今なら、答えて下さいますか? 天災ってどういう意味なんですか?」
 リリリ……と虫の鳴く音が聞こえる。ネロは静かに微笑んで、頷いた。
「スレヴィの天災……と呼ばれていました。噂です。スレヴィの村には天災が住んでいる」
「わたし……なんですよね?」
「そうです。まぁ、ただの噂話です。とはいえ、あまり人の口には上らない。……知っているのは、昔を引きずる年寄りの一部か、もしくは国の中心を支えている人たちか、と言ったところですね」
 どこか懐かしそうに目を細め、ネロは続けた。
「戦時でした。人は、自らとは違う文化や力を持つものを受け入れることが出来るほど、余裕はなかったんでしょうね」
「それが、天災の意味なんですか? ……民、だから?」
「あなたはどう思いますか?」
 逆に問いかけられ、トスティナは目を瞬かせてしまった。
「判ら……ないです。その」
 じっと見つめてくるネロの瞳がすこしつらくて、トスティナは視線を落とした。
 脳裏にちらちらと、遠い記憶が映像として見える。
「わたし、ずっと判らなかったんです。みんながわたしを天災とよぶこと」
「不思議だった?」
「はい」
 頷く。それから、短く息を吸って、トスティナは吐き出した。――押し込んでいた思いの欠片。
「たしかに時々、誰かがやってきて、帰っていって……そういうことがあったのは記憶にあります」
 それは養父に拾われたあとの記憶だ。まだ幼くて、周りのことがよく見えていなかった頃の話だ。
 それでも、誰かの奇異の目はずっと残っている。
「その時、わたし、先生と練習しているときみたいになにかやっちゃったみたいで、村の木が大きくなったり、逆に牧草が枯れちゃったりしたこともあったみたいです。でも、それだけ……って、言い方も変ですけど。そういうことで、天災って呼ばれて、村を追い出されるほどなのかなって、ちょっと、思ってました」
 ネロが目を細める。少し、鼓動が早い。
 人と、少し違うのはなんとなく気づいていた。それを周りが怖がっていることも気づいてはいた。
 どうしようもないことだと、受け入れていけば傷つかないことも知っていたのだ。
 だけど。
 心の奥でくすぶる思いは、消せなかった。
 ――どうして? の、思い。
「いま、なんとなく思うんです。村の人たち、私のこと、民だって知っていたんじゃないかなって」
 ネロが困ったように苦笑する。否定する理屈が見当たらないのだろう。
「戦時でしたからね。人の中に民があれば、たしかに災いを招くかもしれません。それに、人は臆病です」
「おくびょう?」
 小さく頷きが返ってくる。風が、柔らかく髪を撫ぜていく。
「ええ。……地の怒りは大地を揺るがします。水の怒りは大雨をもたらせます。風の怒りは、嵐を招きます。そういったことがあるのは事実で、ですので人は民を恐れるのでしょうね」
「こわい、ですか?」
「僕は全然」
 けろっと言われて、思わず笑みが漏れた。
「ネロさんは不思議ですね」
「どうでしょう? まぁ、僕、民にも仲良しいますからね」
「え……」
「内緒です」
 ぱち、と片目をつぶってくる。問いたくて口を開こうとするが、言葉が出るより早くネロが話を続けた。
「僕は怖がるのは愚かだと思いますよ。そういったことは、誰を怒らせなくても起きる可能性はある。それこそ、天災です。それに怒らせて怖いなら排除しようとするのではなく、ともに生きる道を模索すればいい。今の王は、前王と違いその考えが強いお方のようですね」
 言っていることは、難しいのだと判る。
 理想だということも判る。理想は、理想故に、難しいのだろう。
 すっと、ネロが手すりから離れた。部屋へと戻っていく。
「ネ、ネロさん」
「戦は人を狂わせます。ですが、トスティナ」
 ネロが振り返った。なんとなく、養父を思い起こさせるような顔で微笑む。
「民でも人でも何でもいい。あなたはあなたとして、堂々とあればいいんです」