■第四章:ほんとうのこと 3


 翌朝。トスティナはネロに礼を告げ、その後ろ姿を見送った。彼の姿が見えなくなってから、ふうと息を吐いた。顔を上げる。夏色の空の中、白い木々が今日も映えている。まだ朝早いので、暑さはそれほどでもない。
 ゆっくりと視線を前へと戻した。
 そこは小さな村だった。とても小さくて、ささやかな村。
 スレヴィの村。
 胸の奥がきゅうと絞めつけられる。本当は、来てはいけない。判っていた。追放とはそういう事だ。けれど、欲求が足を運ばせた。
 まだ朝早い空気の中、トスティナは駈け出した。
 ――もう戻れないと思っていた、家へ。



 養父は驚きと安堵を混ぜあわせたかのような複雑な顔で家に招き入れてくれた。一歩室内に入ると、それだけでトスティナは込み上げてくる何かを覚えずにはいられなかった。
「座りなさい、トスティナ」
 居間に通されて、トスティナは素直に言葉に従った。いつもふたりで向かい合って食事をとっていた小さな食卓に座る。養父は向かいに腰を下ろした。
「ティナ」
「……はい」
「誰にも会わなかったか?」
 頷く。こんな髪を見られるのも嫌だったので薄い布をかぶってきたし、十年も住んでいれば人気のない道も時間帯も判る。
「そうか」
 養父は養父で、やはり戸惑っているようだ。髪の色もそうだろう。そして、追放したはずのトスティナがわざわざ来たということも戸惑うばかりのはずだ。養父の言葉に逆らうようなことも、今まではなかったのだから。
「どうして、来た?」
 静かで、深い声音。きゅっと一度唇を引き結んでから、トスティナは顔を上げた。しっかりと、養父の瞳を見つめる。
「聞きたいことがあって来ました」
 部屋は静かだった。静寂が耳に痛い。ふと、気がついた。いつからか、動物がひっきりなしに闊歩するミズガルドの家での生活が、心地よいとさえ思っていたのだ。
 沈黙を割ったのは養父だった。
「地の民のこと、か」
「――!」
 その言葉に、弾かれたようにトスティナは立ち上がっていた。指先がしびれた。
「知っ……て……」
「知らないでお前をうちにおいては置けなかったさ。……座りなさい、ティナ」
 喉がヒリヒリしている。無理やり椅子に座るが、地面がふわふわと揺れている気がして仕方なかった。
 養父ははしばみ色の目をひっそりと細めて微笑んだ。
「解けたのか、魔法が」
「これはその……ちょっとした、トラブルで」
 視線が髪に移っていることに気づいて、トスティナはそっと髪を梳いた。
「おじいちゃんは、知っていたんですね」
「お前がこの村に来た時、お前はその髪の色だったんだ。地の民だということも知っていた。黙っていてすまなかった」
 ゆっくり養父が頭を下げたので、トスティナは思わず声を大きくした。
「ややや、やめてくださいおじいちゃん!」
「――ティナ」
「やめてください……、わたし、感謝してます。だから」
 喉が詰まったような音が出た。もう一度。トスティナはゆっくり息を吸って告げた。
「感謝してます、おじいちゃん」
 少しの沈黙のあと、養父は席を立った。お茶をゆっくりと入れ始める。養父がこうして自らお茶を淹れる時は、何かを考えている時だ。トスティナはその背中を見守ることにした。ややあって、お茶をふたつ持ってきてトスティナの前に置いた。
「お前が五つの時だった。近くに地の民の村がひっそりとあったのだが……戦犯を隠しているという噂になってな」
「戦犯……」
「ササロエルという、地の民の若者だ。戦争のきっかけくらいは、お前も知っているだろう」
 確かに教わった、とトスティナは頷いた。
「民側の反乱――ですよね?」
「そう言われている。ただ、何故人に刃を向けた? 唐突にか? そんな、一方的にどちらかが悪いだけの戦なんてないんだよ、ティナ」
 入れられたお茶は、どちらも口をつけなかった。ただ、指先の熱を奪って冷えていく。
「ササロエルははじめに民側から反乱を起こした一派の一人と言われている。もともと、人と民は考え方が違っていたり、合わないことも多かった。だが、人はその数で民を圧倒していた。……あるいは、そうだな。圧迫していた、とも言えるだろう。ササロエルはそれに反旗を翻したとも言える。それが、時を経て、あの頃は地の民の村にいるとされたんだ」
 低い声音が重い。養父はもうこちらを見ていないようだった。ただ淡々と、どこか感情を押し殺したかのように続ける。
「酷く熱かったのを覚えているよ。赤い服を来た騎士団や魔法師団がやって来ていたのも覚えている。詳しくは判らない。庶民には知らせて貰えるような事じゃなかったからな。ただ、しばらくしてうちの家の戸を叩くものがいたんだ」
 その時、養父は少し微笑んだようだった。
「驚いたな。なにせすぐ近くでそんなことが起きていたから、村じゅう誰も外なんて出歩かない。なのに戸を叩くんだ。兵士たちかとひやりとしたんだが、違ったんだ」
「はい」
「戸を叩いたのは、トスティナ、お前の姉さんだ。シュシュリ、と名乗っていた」
 姉。
 その情報もまた、トスティナにとっては未知のものだった。
「わたし……お姉さん、いるんです……か」
「黙っていてすまなかった。いたよ。今のお前によく似ている。シュシュリはおまえと二人できた。酷い火傷を負っていたし、身なりはぼろぼろだったが、お前と同じ翡翠の目は弱っていなかった。彼女は、私に願ってきた。お前を、人として育てて欲しいと」
 遠い昔話はまるで現実味がない夜伽話のようで、色が見えてこない。それでも、祖父はゆっくりと、ただ、言葉を続けた。
「それは国に逆らうことになる。シュシュリも恐らく死に物狂いで逃げて、ようやく見つけた家の人間に助けを乞うたのだろうが、私もすぐに頷くことは出来なかった。その場でシュシュリはお前に魔法を掛けたよ。お前の髪は金色になって、人と同じに見えるようになった。私は……色々考えて、結局お前を受け入れることにした。人だとか民だとか、小難しいことより、ただ目の前の子供が哀れに思ってな」
 トスティナは自らの手を見つめた。白い指先に、薄いピンク色の爪。この身体は、救われたからこそ存在しているものなのだろう。現実味がない、誰かのお話のように聞こえても、それだけは理解できた。
「シュシュリは私にお前を預けて、消えた」
「どこへ」
「判らん。酷い怪我だったのは確かだ。あの状態でお前に魔法を掛けたのも、負担はかかっただろう。だが、彼女は行ってしまった。……生死も、判らん」
「そう……ですか」
 喉の奥に、何かが閊えている。
「最初はな、黙っていた。だがまぁ、隠し切れないものだ。いつしか、村人にはばれはじめて、私は結局、村の人間には話をした。天災みたいなものだと……皆は言っていた」
「天災、ですか」
「国側にばれたら、村全体が反逆罪とみなされるかもしれない。危険物とみなされても仕方がない状況だった。だから、そう呼んだのだろう。降って湧いたものだ、受け入れるしかない。だが、恐ろしいもの……そういう、意味だろうな」
 反逆罪。もしそれが適用されたなら、村自体が消される恐れもあるだろう。それを含めてなお、見捨てないでいてくれたのだ。そう考えると、浮かんでくるのは天災と呼ばれた痛みよりも、受け入れてくれたことに対する感謝だけだった。
「ありがとう……ございました」
「もうひとつ。伝えておきたいことがある。ティナ、少し待っていてくれるか」
「あ……はい?」
 養父は席を立ち、自室へと向かっていった。暫くして、なにか小さな袋を手に戻ってきた。
 机の上で、袋の中身が広げられた。袋から滑り出てきたのは、小さな青い石――否。
「ペンダント……?」
 石から、紐が伸びている。石も加工されているようできらきらと輝いていた。
「トスティナ。考えて欲しい」
「……はい?」
 ペンダントから視線を上げると、養父は真面目な顔でこちらを見下ろしていた。
「シュシュリ――お前の姉さんは、お前にふたつの魔法を掛けた。ひとつは、髪の色を金に。もうひとつは、お前が人を恨まないように……民であることや、それまでのこと、一切の記憶を封じたんだ」
「記憶」
 オウム返しに呟いて、トスティナは言葉を続けられなくなる。
 記憶――たしかに、残ってはいない。養父に拾われる前の頃のことは何一つ覚えてはいない。ただそれは、幼さ故だと思っていた。あるいは、何かあったのかもしれないとは思っていた。何か良くないことがあって、脳がそれを拒絶していて覚えていないのかもしれないとは考えたことはある。
 しかし、そのどちらでもないなどとは考えていなかった。誰かの手で魔法を掛けられ、そのせいで覚えていなかったなどとは考えたこともなかったのだ。
「シュシュリはこれを、私に託していった。私は魔法に明るくはない。だが、ある程度魔法に明るいものならこれに封じたお前の記憶を戻すことが出来ると言っていた」
(――先生)
 ふと、思い出した。
 ミズガルドなら。師ならきっと造作もなく解けてしまう類のものなのだろう。震える手で、ペンダントに触れる。ペンダント自体は特別おかしな所もないようだった。少し冷たくて、硬質な感触が返ってくる。
「必要か、不要か。悩んで、結局お前が村を出ていく時には渡せなかった。今、もう一度訊こう。お前はこれを必要とするか?」
「わたし……は」
 どうすればいい。どうこたえればいい。頭の中でぐるぐると思考が回っていて定まらない。知りたい。そう思ってここに来た。欲求はある。何故。どうして。どういう事。けれど、知る手がかりが今まさに目の前にあるとすると、浮かんでくるのは恐怖だった。
 ――それを知った時。
 自分は、自分のままでいられるのだろうか?
 トスティナという名の、養父に育てられ、今はミズガルドの弟子である自分のままでいられるのだろうか?
 チッ――と小さな音と共に、指先でペンダントの石が動いた。
「わたしは……」
 喉が渇く。判らないまま、唇が動いたその時だった。
「それをこちらへ貸してはいただけないかな?」
 ――男の声がした。
 反射的にトスティナはペンダントを握りしめて立ち上がっていた。振り返る。家の入り口にもたれ掛かるように男が立っていた。
 黒髪。黒い瞳。整った顔立ちに、やや皮肉めいた表情が浮かんでいる。身を包むのは、真紅の外套だ。その襟元には――宮廷魔法師の、印章。それはミズガルドではない。マイセルだった。
「い、いつ……」
「ノックはしたよ。気づいてはいなかったようだけど」
 しれっと、肩を竦められる。
「なるほど。私はスレヴィの村の秘密を知った、という認識でいいのかな?」
「っ……」
 養父が青ざめて、息を呑んだのが判った。そうだ。これは、国側に知られてはいけないはずだ。
「待ってください……!」
 叫んでいた。マイセルがニヤリと唇を歪めた。手のひらを、何も言わずに差し出してくる。すぐに何を求められていたのか、判る気がした。ペンダントを握る手に、汗の粒が浮かぶ。
「ティナ、気にする必要はない。それはお前が」
「わたしが決めていいんですよね、おじいちゃん」
 言葉を遮って、微笑みかけた。それから、視線をマイセルに移す。喉が乾いていた。
「解いてくださるのですか」
「もちろん」
「……なら、渡します。だから、この村のことは」
「ティナ!」
 養父の声を、ティナは初めて無視をした。
「この村のことは、責めないでくださいませんか」
「――私は何も知らなかったと、そうすることにしよう」
「ありがとうございます」
 安堵する。そのままゆっくりとマイセルに歩み寄り、トスティナはペンダントを差し出した。マイセルが受け取り、それをじっと見つめる。その間、もう、養父は何も言って来なかった。
 暫くしてから、マイセルがペンダントのトップをトスティナの額に当ててきた。ひやりと、冷たさが染みる。マイセルが低い声で何かを唱える。トスティナはそっと目を閉じた。
 そして――情報が、爆発を起こす。