■第四章:ほんとうのこと 4


 風の匂いがした。むせ返るほど濃い、緑の匂い。鮮やかな一面に広がる緑が意識を包む。
 ふっとその中に、笑顔のイメージが入り込んできた。今のトスティナと年の頃は同じぐらいの少女。たおやかな緑の髪が波打っている。その向こうで、優しそうな男女がこちらに手を振っているのが判る。駆け寄ろうとした時、風の匂いが変わった。
 何かが焦げているような匂い。
 次の瞬間、緑がかき消される。
 赤。火の色だ。揺れている。風に吹かれている。赤という色彩が押し寄せてくる。あれは何か。緑を消し去り、踏み潰し、赤が迫ってくる。否――何かではない。誰かなのか。
 切羽詰まった少女の顔が見えた。
(おねえちゃん)
 自らの喉が震えた気がした。手を伸ばすと、確かに掴まれた気がする。
 息が乱れる。風が乱れる。大地が揺れ、火が迫ってくる。

 ――わたしたちは、生きていてはいけないのですか?

 少女が――シュシュリが静かに告げた言葉は、誰かに向けられていた。
 トスティナは姉の手を握りながら顔を上げた。姉と同じくらいの年頃の少年が、火に照らされながらこちらを見ていた。
 暫くの沈黙の後、姉がそっと背中を押してきた。

 ――行きましょう。

 素直にトスティナは従った。だって、と思う。だっておとうさんもおかあさんも、さがさなきゃ。
 けれど、少年の声が遮った。

 ――待、て!

 姉は振り返らなかった。振り向いてはいけないのかと、姉の横顔を見上げた。見上げて、トスティナは驚いた。
(おねえちゃん、ないてるの?)
 けれど、姉はしっかりとした、涙など感じさせない声音のまま振り返らずに言葉を発した。

 ――わたしは地の民、シュシュリ。貴方は?

 姉がどうして泣いているのか、気になった。気になってトスティナはその時、姉の目を盗んでそっと振り返ったのだ。
 燃える村を背に、少年は立っていた。
 泣き出しそうな顔で立っていた。
(どうして?)
 疑念が膨らむ。
(どうして、なくの?)
 こんなふうにしたのは、おにいちゃんたちでしょう?
 言葉にするほど、纏まった考えではなかった。ただただ、溢れる水のように疑念だけが湧いていた。
 火風に照らされ、少年の顔が見えた。
 黒い髪。黒い瞳。目立つ印象はない。けれど、整った顔立ち。それにトスティナは――見覚えが、ある――
 薄い唇が、開く。

 ――僕……は。宮廷魔法師……ミズガルド。

「い、やあっ!」
 喉が避けるような悲鳴が漏れた。見開いた目の前、あの時の少年によく似た面立ちの男性がいた。もう一度、悲鳴を上げてトスティナは後ずさる。
「ティナ!」
 後ろから養父が支えてきたのが判った。その手に縋りつきながら、息を吸う。かたかたと指が震えた。
 マイセルは、嘲笑(わら)っていた。声を立てずに、けれど確かに嘲笑っていた。
「戻った、か」
「わた……わたしは、わたしは」
 ぽろぽろと涙が零れてきた。判らない。何も判りたくなかった。ただ、頭の中で急に色々なことが弾けたのだけは確かだった。
「憎いだろう、地の民」
 静かに、問いかけてくる。
「しかし、私も同じ思いをした。私もミズガルドもな」
 声に含まれる憎悪を感じる。
「まだあいつは、夢を見ているかな?」
「ゆ……め……」
「昔からよく夢を見ていたようだよ。私たちは戦で街を失くした。その時の夢をな」
(あ――)
 思い当たる節は確かにあった。ミズガルドは時々、悪夢を見ているのかうなされている。それはトスティナも気がついていた。
「私たちの街は壊滅したんだよ。子供の頃に。お前たち地の民によってな」
 冷たい声だった。
 頭が殴られたかのような痛みがあった。先ほどの養父の声が頭の中で繰り返される。
 ――そんな、一方的にどちらかが悪いだけの戦なんてないんだよ、ティナ。
(地の民……が……先生たちの街を……?)
「判るか。判りあえるか? 許せるか? 無理だろう?」
 畳み掛けるようにマイセルが言ってくる。目の前がチカチカした。
「私たち人と、お前たち民は判り合えないように出来ているのだ。どちらかが、尽きるまではな」
 完全なり拒絶に胸が痛くなる。
「わたしの、ちからがほしいって、さっきおっしゃってましたよね」
「ああ」
「この世を正しくするためにって!」
 ――なのに、示されるのは完全なる拒絶だ。その齟齬に目眩を覚えて、トスティナは叫んでいた。
 しかしマイセルは静かに頷いた。
「そうだ」
 カツ――と足音を立てて近づいてくる。
「正しくしたいんだよ、判るか、地の民よ。ここはグレシス王国。人が築いた国だ。人が、人のために築いた国だ。そのために静定した土地だ。そこにある、人でないものたちは、なんだ? 盗人ではないのか?」
「そん……」
 畳み掛けられる非難と拒絶に、声も出ない。
「人が、人のためにある世界。それが正しい。私は思う。だからな、滅び損ねた民であるお前に、願いたい」
 静かに告げられる。
「……再度の戦争のはじまりを」
 ――耳鳴りが、した。
 養父も息を呑んでいる。誰も喋らない。誰も音を立てない。沈黙が、痛みを増す。窓の外から差し込む日差しが、非現実的だった。
「地の民の生き残りとして君が立てば、他の民も立つだろう。その後は、尽きるまで戦うだけだ。なに、お前を簡単に殺しはしない。言っただろう、生活は保障すると。……一生涯の、地下牢での生活をな」
「いやです!」
 声が弾けた。マイセルはただ、笑っている。視界がゆらゆらと揺れていた。
「まあ、ゆっくり考えるがいい」
 ひらりと、まるで軽口を叩いた後かのように軽い仕草で手を振ると、マイセルは外へと足を向けた。
 消えて行く赤い外套を目に焼付け、トスティナはその場にしゃがみ込むしか出来なかった。



 その場所はあの日と変わらず、鮮やかな夏草と涼やかな湖水に見守られて存在していた。
「ここ……」
 頭の中にある微かな記憶を頼りに、ただ足を運んで来た。それは遠い記憶だ。戻ったばかりでも、掠れている記憶。
 それは地の民の村があった筈の場所だった。
 しかしそれは、いつだったかミズガルドとアグロアと共に来た場所だった。
 ゆっくりと、湖水のほとりに座り込む。
 鳥の鳴き声。風の音。草の香り。そして日差し。白い木々を通して降り注ぐ日光に、少し気持ちが緩んだ。大きく息を吐き、吸う。
 目を閉じる。頭の中の熱が、湖水を渡る風に紛れて消えていきそうだ。
「――ティナ」
 不意に優しい声が聞こえて、トスティナは目を開けた。
 湖水の上で宙に浮かびながら、見慣れた白髪の少年が座っていた。
「アグロア……どうして」
「ん。ちィとね。見かけたからさァ」
 隣いいかィ? と訊かれたので頷く。アグロアは隣にちょこんと座る。そのまま、彼は何を思ったのか素足を水につけた。ひゃっ、と声を上げる。
「ティナー、気持ちいいぜェ、水つめてェやァ。ティナもやってみねェかィ?」
「えと……」
 少し戸惑って、けれど、と思い直した。今は何か、自然に触れていたかったのだ。頷いて靴を脱ぎ、水に足を浸した。
 キリッとした痛みを伴うほどの冷たさが、足を刺す。それがなんとも心地よかった。
「あは、気持ちいいです」
「だッろォ? このヘンの水は地面のずぅッと下ンところで、水の民たちンとこに繋がってっからなァ。いい水さァなァ」
「水の民……さん」
「民にさんづけはヘンだぜィ、ティナ」
 にっと笑われて、思わず笑みが漏れた。
「そうですね。ごめんなさい」
「ティナァ」
「はい?」
「思い出した?」
 その言葉に、トスティナは微笑を浮かべた。
「少しは。ただ、まだちょっと上手く呑み込めません」
「そっかァ。うん、あのナ、オイラ、ちィと家に戻ってたンだけど。あのサ、みーんなティナのこと心配してたぜィ」
「みんな……?」
「みィんな。水の民もさ、オイラたち風の民も。カーラやミズガルドもさァ」
 ミズガルド。
 出てきた言葉に思わず俯いてしまう。湖面に映った自分の顔が情けない顔をしていた。
「どうしたら……いいんでしょう」
「ティナァ?」
「先生が怖いんです」
 震えた声が零れると同時に、水面に波紋が立った。自分の目から零れた涙のせいだと、少ししてから気づく。
「熱かった。赤くて、怖くて……あの人が、先生だったんですか」
 ミズガルドは優しい。不器用だとは思うが、優しさは感じている。だから安心できたし、弟子になれて嬉しかった。それなのに。
 戻ったばかりの記憶の中の彼は、赤いイメージだけが付きまとう。
「戦争ってさァ」
 アグロアがぽつりと言った。
「難しいことばっかで、こっちからこっちは敵ィ、こっちは味方ァってわけっけンど、オイラそれよく判ンなェんだ。風のジジィたちも、オイラがミズガルドんとこ行くの、嫌がってるやつらがいるさァ。でもオイラは知ったこっちゃァないねェ。オイラはアイツが楽しいンだもんさァ」
「でも……風の民も、人と戦争していたんですよね?」
「オイラが子供の頃までなァ」
 ふんっ、とアグロアが鼻を鳴らした。
「しょーじき言えば、オイラぁ、人って奴らに関しちゃァ、嫌ェだよ」
「アグロア」
「でもさ」と、アグロアが続けた。今度はいつもと同じ、屈託のない笑顔を向けてくる。
「オイラ、ミズガルドもカーラも好きだし、ティナだって好きさァ。それでいいじゃんかァ。難しいこたァ、頭のかってェお偉い方に任せときゃァいーんサァ」
 ケケッ、と笑って――そして、アグロアの姿が見えなくなった。風が吹いていく。
 目を閉じて、風を全身で受け止める。
 人。民。そんな難しいことは判らない。怖い? その気持ちも確かにある。けれど――
 毎朝の料理。風に吹かれる洗濯物。栗鼠や犬や猫のあふれる部屋。少し気難しげで、でも丁寧に教えてくれる師。それらは、愛しい以外に他ない。
「せんせい」
 声に出して呟く。少し、落ち着ける気がした。