■第五章:人と民と 1


 どれくらいそうしていただろう。薄く目を開けると、少し森に落ちる影の向きが変わっている気がした。トスティナはさすがに冷えすぎてきた足を引き上げて地面へと下ろした。
 背後でかさりと音がした。動物か何かだろうかと振り返り、トスティナは動きを止めた。
「――先生……」
 すぐに判った。マイセルではない。同じ黒髪に同じ色の瞳でも、よく似た顔立ちでも、纏う気配は気難しくても柔らかい。
 困ったような、怒っているような、曖昧な表情のままミズガルドが歩み寄ってきた。
「先生……どうして」
「おせっかいな風が部屋に吹き込んで散々悪態を吐いてどっかに行きやがったからな」
 アグロアだ。思わず苦笑する。
「おせっかいな風さんは、先生のことが好きなんです」
「君のこともな」
 微笑みながら頷いて見せた。
 隣に並んで、静かにミズガルドが腰を下ろした。
 葉擦れの音がする。
「……先生。わたし、記憶、戻りました」
 小さな声で告げる。ミズガルドが隣で僅かに身じろぎしたのが判った。ややあって「そうか」とだけ返ってくる。それ以上は問いかけてこなかった。経緯を話すのがつらかったので、訊かれなかったことに少し安堵する。
「ティナ」
「は、はい」
「……喉は、渇いていないか」
 明後日の方向へ飛んだ言葉に、目を瞬かせた。
「ちょっと……渇き、ました」
「うん」
 ずいっと水筒が差し出される。受け取って、口をつけた。心配しているのだろうに、差し出すのはただの水。この無骨さこそ、ミズガルドなのだろう。そう思うと少し暖かい気持ちになる。
 時々ぽつりと、他愛ない会話をした。空の色のこと。風の匂いのこと。カーラのこと。アグロアのこと。言葉数は多くない。長くも続かない。そんな時間がゆっくりと過ぎていく。
 いつしか日が落ちて、辺りの影が濃くなっていく。
 思わず身震いをした。風が冷たくなってきている。
「さすがに、この時期とはいえ冷えるな」
「はい。ちょっと……寒いです」
 頷くと、ミズガルドが小さく苦笑した。
「火をおこしてみろ。暖は取れる」
「えと……」
 火の一式。図式は覚えているはずだ。何も見ないでやったことはないが――大丈夫。ミズガルドが傍にいる。
 目を閉じて、息を整える。
 小さくていい。宙に浮かぶ暖かい炎――
 その瞬間、目の前で熱が膨れ上がった。
 あわてて目を開けるが、少し遅かったようだ。弾けた熱が前髪を焦がす匂いがした。
「馬鹿!」
 怒鳴り声とともに、腕を強く引っ張られた。
 ミズガルドがきつい眼差しで覗き込んで来ている。
「怪我は」
 強い声音に、思わず苦笑する。火傷はしていない。
「だいじょぶです」
「診せてみろ」
 ぐっと顔を寄せられた。
(わ……)
 ミズガルドの顔が視界いっぱいに入ってきて、思わずきゅっと眼を閉じてしまう。息がかかった。怪我がないか診ているのだろう。額に手を添えられる。指先が額を撫ぜていく感触に、何故か鼓動が跳ねた。
 ややあって、短く、ため息が降ってくる。
「……まったく」
「へへ……また、失敗しちゃいましたね」
「君は」
 ミズガルドが微笑した。目を細めて、どこか呆れたような表情。
「まったく、未熟だ」
「……はい」
 頷く。握られている腕が痛い。痛いけれど、少し、安堵もある。複雑な気持ちが揺れている。
 黒い瞳の中に、曖昧な顔をした自分を見つけてトスティナは少し恥ずかしくなった。けれど、視線を外せない。
 ミズガルドも視線を外してこなかった。少し、口を開いて――閉じて。それから、もう一度、薄い唇が開かれた。
「――かえる、か。ティナ」
 帰る。
 そんな、ただ一言がどうして嬉しく思うのだろうか。
 まだ、判らないことは多い。自分の気持ちも、人と民のことも。これからのこと。これまでのこと。戦争ということ。マイセルのこと。カーラのことも、養父のことも、ネロのことも、もちろんあの風の少年のことも。判らない事だらけで、自分がどう行動を取れば正解なのかも判断付けられない。
 それでも――
 帰りたい。あの場所に帰りたかった。
 だからトスティナは頷いた。すこし、恥ずかしかったけれど。
「はい、先生」
 ミズガルドが手を差し伸べてきた。その手に、トスティナは自分の手を重ねた。きゅっと握られる。
 ミズガルドの手のひらは少し皮が厚くて、固かった。
 そしてなにより、あたたかかった。



 翌朝、いつもどおり朝食を食べ終えた頃、カーラがやってきた。
 赤い外套を纏い、少し複雑そうな顔をしていた。
「招集命令なんだけど、さて、どうしようかしらね?」
「しょう……しゅう?」
 紅茶の入った木杯を持ったまま、ミズガルドが怪訝そうな顔をした。
「これ」
 カーラがぴらっと羊皮紙を取り出す。トスティナはよく判らなかったのでただ首を傾げた。
「――王からの招集命令よ。ミズガルドと、トスティナにね」
 そのまま――首を傾げたまま――トスティナは動きを止めた。
(おう……さま?)
 足元で猫が、にゃあ、と鳴いた。



 もはや何が起きているのか判らなかった。
 自らを包む煌びやかなドレスも、隣に立つ正装姿のミズガルドも、そして目の前の――王も。
 トスティナには何ひとつ理解できなかった。
 服装も意味が判らない。なんなのだろう、この身を包むドレスは。白と黄色の布地で作られたドレスは、スカート部分がやわらかな薄い黄色のオーガンジーで彩られていて、その下は幾重にもフリルを重ねた白。その下から黄色のパニエがチラチラと顔を出す。胸元には黄色のコサージュが付けられていた。こんなものはもちろん、着たことがない。半ば無理矢理カーラに着せられたのだが、どう動けばいいのかすら判らない代物だった。
 状況も理解出来ない。どうして一介の庶民であるはずの自分が、こんな場所にいるのだろう。王宮の、しかも謁見の間だ。赤い絨毯の上でトスティナとミズガルドは膝をついていた。いくつか段を登った先に玉座があり、そこに一人、男性が座っている。
 そして何より――謁見している『王』が理解出来ない。
「久しぶりだね、ティナ」
 にこにこと、玉座で笑みを浮かべているのは知った顔だった。
「ユ……ウさ……」
 金髪に、端正な顔立ち。身を包むのは高価な服――玉座に座っているのだから当たり前なのだが。
 あの湖水の畔で逢った青年だった。
「あ。ごめんよ、ティナ。僕は本当はユークリッドっていうんだ。ユウのままでいいけどね」
 パチリとウィンクを飛ばされ、混乱と恐縮で泣き出しそうになってしまう。縋るように隣を見やると、ミズガルドは頭を垂れたままだった――が、微かに見える横顔が、苦虫を噛み潰したような表情だ。
「いい加減顔あげれば? ミズガルド」
「……恐縮です」
 心底嫌そうな声で応えながら、師は顔を上げる。
 満足そうに、ユークリッド――現グレシス国王は笑った。
「ティナは、記憶が戻ったって? 地の民の噂は本当だったんだね。美しい陽の光の髪が見れなくなって残念だけれど、その夏草のような髪も神秘的でよく似合うよ」
「え……あ、は……」
 どう応えればいいのか全く判らない。えうえうと妙な音が口から漏れるだけだ。
「あ、ごめんよ。唐突で。いやほら、僕王様だからね、そういう情報は頑張れば手に入れられちゃうんだ」
 無邪気な子供のように、さらっと告げる辺りが何故か怖い。
「でね。今日君たちを呼んだのはお願いごとがあったのさ」
「お願い……ですか?」
 ミズガルドはむすっとした顔のまま会話をしようとしないので、トスティナは恐る恐る問いかけてみる。
「うんそう。まずは、ティナ君に」
 反射的にぴん、と背筋が伸びた。
「地の民の生き残りがいて助かった。和平を結びたいんだ」
「――和平……?」
 目を瞬く。
 それはマイセルと真逆の申し出だ。
「利用するようで申し訳ないけれどね。僕はこんな馬鹿馬鹿しい休戦状態なんて長くやっていたくないんだよ。くだらない。起こってもいない戦に、休戦状態っていうのはどれだけ予算を割けばいいんだか。ま、それはそれとして。楽しくないでしょう? お姫様」
「えっ……ええと……そ、その、せ……戦争は、いや、です」
「うん。だから考えて欲しいんだ。それからミズガルド」
「……はい」
 至極面倒くさそうに、ミズガルドが返事をした。
「宮廷魔法師に戻らない?」
「辞退します」
 即答だった。判っていたのだろう――ユークリッドはにこにこと笑みを浮かべたままだ。
「あ、そういえば言ってなかったの? ミズガルド。ティナ驚いてるよ?」
「言いません。必要がない」
「ちょっとくらい話せばいいのに。ねー、ティナ」
「えっ、えっ、あ……え?」
「僕とミズガルドって、昔は仲良かったんだよ。ま、歳が近かったんで僕が懐いてたんだけどね」
 くすくすと、懐かしそうに言いながらユークリッドが笑う。
「さて。どうかな、ティナ。地の民の代表として、この国と和平を結ぶ口上をして欲しいんだ」
 この――国。
 ざっと脳裏を過ぎったのは赤だった。赤い炎。赤い熱。赤い兵士たち――赤くて怖い、人の波。
 カタ……と小さな音が聞こえた。それが、自らが震えているせいで靴がたてた音だと気づいた頃には、カタカタカタ、と際限なく音は続いていた。
「――ティナ!」
 ぐっと肩を掴まれる。ミズガルドだ。
 それは――あの時の少年だ。
(こわ……い!)
 思った瞬間、振り払っていた。
「いやっ!」
「ティ……」
 ミズガルドが息を呑んだ。そして――風が雪崩込んだ。

「ミズガルドォ、ティナァ!」

 悲鳴だった。
 それはあの風の少年にはとても似つかわしくない――悲鳴だった。
 唐突に部屋に現れたアグロアが、縋るようにミズガルドにしがみついた。その様子に、王座からユークリッドが立ち上がる。困惑したまま、ミズガルドが口を開いた。
「……も、申し訳ありません、王。無礼な風で」
「いや、気にしないよ。風はどこにでも吹く。――どうしたんだ?」
 アグロアがはっと、顔をユークリッドに向けた。その横顔が、今にも泣き崩れそうになっていた。
「アンタァ、王様か。人の王様か」
「この国の王だよ」
「こンのうすらとんかちが! アンタァ、戦争やんねェんじゃァなかったのかよォ!」
 さっと、ミズガルドとユークリッドが同じ速さで顔色を変えた。トスティナ自身も、全身の血がざっと沈み込むのを感じた。
「民と人との戦は終わりにしたいと僕は思っている。――何があった。風の子よ」
「アイツが……」
 震えながら、アグロアは叫んだ。
「マイセルが来たんだ、赤い軍団引き連れて! オイラの、オイラたちの風の村がァ……!」
 ミズガルドが唇を引き結んだ。アグロアは、縋りつくように――もう一度、叫んだ。
「助けてくれよォ、ミズガルド、ティナァ!」