■第五章:人と民と 3


 光が弾け合う。風が吹き荒れる。幾重にも音が重なる。
 眼の前の攻防は、トスティナの理解の範疇を軽く凌駕していた。判るのはただ、マイセルとミズガルドが攻防を始めてしまったということだ。お互いに何かを呟いてはその度に光が弾けている。いつだったかミズガルドは、魔法がある程度使えるようになると、他人がどんな式を展開しているのかも判ってくると言っていたが、とてもじゃないが判りようもない。
 それを横目にアグロアが飛び上がった。
「ア、アグロア……!」
「でェじょうぶサァ、ティナ。オイラだって風の端くれだ。皆をあつめてくらァ!」
 言うなり、アグロアの姿が消えた。風が吹き抜けていく。
 銀色の草原は徐々に色付いていく。それは優しさではない――暴力的に、色付いていく。
 赤くなり、黒くなる。余波で傷ついていく大地を、家々を、ミズガルドは横目で見ては合間を縫って火を消していく。
 この二人の攻防が尋常じゃないことくらいはトスティナにも判った。判るからこそ、その合間を縫って消火までしているミズガルドの腕を理解せざるをえない。
(すごい……すごいんだ)
 ドレスの胸元を握り締める。ふと、背後で小さな泣き声が聞こえた。振り返り、トスティナは慌てて駆け寄っていた。
 そこにいたのは小さな男の子だった。風の民の子だろう――銀色の髪に藍色の瞳。容姿は少しアグロアに似ている。まだ五つにも達していないかもしれない。そんな子が泣いていた。しゃがみ込んで、視線を合わせる。
「大丈夫ですか?」
「おねえた……」
 ひしっと抱きついてきた。そのまま大声でママ、ママ、と泣きじゃくり始めてしまう。
(あ……ああ――)
 小さな体を強く抱きしめた。そのまま、男の子が歩いてきたであろう方向を見やる。
 魔法師団だろか。その一部だと思えた。赤い制服が数人隊をなしている。なんとなく、理解した。マイセルを慕い、マイセルの考えに強調した者たちが王に反旗を翻したのだろう。これは、全身からの拒絶と主張だ。民と人とは判り合えない。我々は判り合わない。和平には納得しない。その、叫びだ。
 その気持ちが、全く判らないわけじゃない。自分だって怖い。師と手を触れることすら、安堵したり震えたりと忙しいぐらいに感情が制御できないのだ。それでも。と、トスティナは思った。
 それでも、こんなのは哀しいだけだ。
 火が揺れている。目の前で全てを燃やし尽くしていこうとしている。背後でも熱が上がる。ミズガルドもさすがに全てを消すのが難しくなってきたようだ。異臭が辺りを占めていき、膨れ上がる熱に肌がぴりぴりした。男の子抱きしめながら、景色を見つめ続ける。赤く燃える風の村。

(あ……か)

 どくっ――と心臓が大きな音を立てた。男の子を抱きしめて、トスティナは強く目を閉じた。頭が痛い。何か、何かわたしは知っている。
 赤い色。炎の色。あの夜の色が体中を駆け抜けていく。
(赤。赤は――ああ――)
 目を見開いた。知らずに涙が溢れていた。声もなく、トスティナは泣いていた。
(思い……だした)
 姉の言葉が蘇ってきた。そう。そうだ。赤は――

 火はいずこ
 地は絶えた
 水はまだある
 風はやまない

 ――古くからある伝承歌。その本当の意味。

 火はいずこ。
「ティナ!」
 耳元で叫び声が聞こえた。驚いて振り返ると同時に、全身を衝撃が襲った。弾かれるように吹き飛ぶ。男の子をお腹のあたりでかばうように倒れてから、トスティナはちかちかする目を無理やりこじ開けた。黒が見えた。瞬きをしてからもう一度目を凝らす。男の子は火がついたように泣いていたが、怪我はなさそうだ。
「離れるなと、言ったはずだ」
 黒い頭だった。呻くような声がした。血の気が引いていく。そうだ。いつの間にか師より離れていた。
「先生!」
「怪我はないか」
「わた、わたしは大丈夫です。でも」
 声が掠れる。自分を庇ったのだろう――それで師は、覆いかぶさってきたのだ。だとすれば、怪我は自分じゃない。多少ドレスは敗れたが、怪我は全くない。怪我の心配をするべきは師のはずだ。
「なら、いい」
 低く平坦な声で呟いて師が身を起こす。その腕から赤い液体が滴ってきてトスティナは目を見開いた。
「せんせいっ!」
「騒ぐな。大したことはない」
 ふらりと立ち、ミズガルドがこちらに背を向けた。その背中すら、服が破れて傷ついた肌から血が滲んでいる。
「無様だな、ミズガルド」
「俺はいつでも無様だよ、マイセル」
 師の前。マイセルが嘲るような目をして立っていた。その瞳を見た瞬間、頭に血が昇っていた。
「――いいかげんにしてくださいっ!」
 叩きつけるように叫んで、立ち上がっていた。ミズガルドがぎょっとした顔で振り返ってきている。男の子も背後でひくっと泣き声を引っ込めるのが判った。その全てを無視してトスティナは破れたドレスを引きずって前に出た。マイセルの目が細まる。師の隣に並んでから、もう一度唇を濡らしてから、告げた。
「どうして、ご兄弟でここまでやるのですか」
「民は滅ぶ必要がある。その為なら、致し方ない」
「あ、なたは馬鹿です……っ!」
 喉が震えた。マイセルは何も答えない。
 それは知らないからだ。そう思うと、哀れみすら覚えた。トスティナは静かに続けた。
「民が滅ぶ必要があるのなら、貴方たちだって滅びなければいけないんですよ」
「何を言っている」
「判りませんか」
 トスティナは自分の声がいつもよりずっと低いことに気づいた。
「火はいずこ。地は絶えた。水はまだある。風はやまない。……知っていますか。この歌の本当の意味」
「何が言いたい」
「火の民はここにいます」
 言い切った。息を深く吸い込む。熱い空気が肺を焦がしそうで――それでも、告げなければいけなかった。
「だって、本当は人も民も違いなんてないんです。火の知恵を得た人こそが、火の民なんですから」
「――バカなことを」
「うそだと思いますか。なら何故。何故今この場所は火に包まれているのですか!」
 声がひしゃげるほどに大音声で叫び、トスティナはばっと辺りを手で示した。
 
 ――緋色。

「思い出したんです。昔、お姉さんが言っていたこと。あの歌の本当の意味を。火は忘れたんです。火に対する感謝を。火を、あなた達はぬくもり以外に使い始めたから――!」
「……火の徒……か」
 微かな声はミズガルドだった。小さく頷く。
「ひと……です」
 ミズガルドが複雑そうに小さく頷いた。
「地の民ごときが」
 マイセルの呻くような声に、何故だろうか――トスティナはふっと、笑みが零れるのを止められなかった。
 同時に、涙が頬を伝う。
 泣き、笑いながら、トスティナは続けた。
「はい。わたしは地の民です。でも、わたしはわたしが誰であろうと、何であろうともうどうでもいいんです。だってわたしは」
 息を吸った。
 難しいことは判らない。人も民もすべて同じだと判った今、戦争の意味すら判らない。そんなことはもう、些細なことでしかなかった。
 誰が誰を殺めたのか。ひとがひとを殺めたのだ。それ以外にない。そしてそれは変えられない過去だ。変えられないのなら、受け入れるしかない。受け止め、受け入れ、その上で今があればいいだけだ。
 そっと、隣にある手を握ってみた。
 握り返してくれた。
 その手は人を殺めた手だ。けれど、自分を救ってくれた手でもある。その事実は、消えない。
 怖くなんてもう――ない。
 判るのはただ、ひとつだけだった。

「――わたしは、天才魔法使いミズガルドの弟子です!」

 叫ぶと同時に、トスティナの中から何かが放たれた。大地が揺れる。不意を突かれたのだろう――大地に唐突に生えた大木に、マイセルは避け損なってよろけた。一式。他愛ない、簡単な魔法だ。刹那、たんっ――と軽い音と共に、師がマイセルに肉薄していた。黒い影が切迫し交差する。一瞬の瞬き――そして。
「……っ!」
 息を呑む。たゆたうような一瞬の後、ぐらりと身体が揺れた。そのまま地面にどうっと倒れ伏す。
 ――倒れた影はひとつだった。
 マイセルの身体が地に沈んだのを見てトスティナは駈け出した。ミズガルドが肩で息をしながら振り返ってきた。
 気がついた時――トスティナはミズガルドの腕の中に飛び込んでいた。傷ついた背中に手を回すことは出来なかったが、それでも、飛びつかずにはいられなかった。
 少ししてから、そっと頭をなでられた。顔を上げると、微苦笑したミズガルドがそこにいた。
「先生」
「……とりあえず、地の一式は合格、だな」
 そんな言葉が、状況とちぐはぐに思えて――それがなんだか、愛しくて。
 トスティナは泣きながら笑っていた。
「はい。先生」



 それからすぐ、カーラが数十人の隊を引き連れてきた。マイセルには数人がついて、率いていかれた。マイセル以外の反乱を起こした者たちも同じように率いていかれたようだった。
 それでも、トスティナは悔しかった。
 燃え広がった火は、全てを燃やし尽くそうとしている。ミズガルドが消火をしようとした所で、焼け石に水といった体だった。
 アグロアも奔走したのだろう――先程の男の子の母親も無事で、風の民は一箇所に集められていた。
 生きている。それは大切だ。けれど、銀色に光る大地も、木々も、家々も、生きるためには必要なものだ。それが、消えて行ってしまう。
「ティナ。カーラの隊の連中と消して回ってみる」
「はい。お願いします」
 ぺこっと頭を下げる。草原の一角、カーラたちの馬車の側でトスティナは立っていた。
「手伝いましょう」
 涼やかな声に顔を上げる。銀色の短髪をなびかせてカーラが歩いて来ていた。
「カーラさん」
「マイセルたちは軍事馬車でスティンブルグへ送ったわ。あとは宮廷審理会の役割。そっちもテコ入れするみたいだけどね、我が王は」
「はい……」
「ティナ。落ち込んでいないで。あたしが力を貸すわ。消しましょう」
 トスティナは思わず小さく首を傾げていた。あまりにカーラの物言いが自信に満ちていたからだ。
 カーラが小さく笑った。そのまま顔をそっと寄せてくる。囁かれた。
「あたし、水の民なの」
 突然の告白に――トスティナは言葉を失っていた。
「あっは、やっぱり気づいてなかったか。ネロあたりが口を滑らせてるかなぁとも思ってたんだけど」
「えっ、え……あ……」
 ――まぁ、僕、民にも仲良しいますからね。
 ネロの言葉を思い出し、トスティナは驚きで口を手で覆っていた。ぱちり、と片目を瞑られた。
「やりましょう、ティナ。あたしだってこんなのは見たくないわ。――風!」
「呼んだかィ?」
「手伝いなさい。火を消すわ」
 宣言すると、カーラはまだ燃える村の中心へ足を進めた。慌ててついていく。
 アグロアが高く空へ舞い上がった。風が動きを変えていく。広がらないように、すこしでも、被害を抑えるように吹いている。
 カーラがすうと天に向かって腕を伸ばした。もう随分と西に傾いていた日が陰り、分厚い雲が空を覆う。やがてそれは大粒の雨をもたらせた。
 ぽつり、ぽつりと大地を打ち、やがてそれはざあと大きな音に変わった。
 水が大地を覆っていく。火を沈めていく。
 全身を雨に打たれながら、トスティナはその様子を目に焼き付けた。
 濡れていく。
 全てが濡れていく。
 やがて火が消えた頃、雨はあがった。さすがに大きな力を使ったのだろう。アグロアもカーラもその場に座り込んだ。二人がそれでも、ゆるく笑顔を向けてくれた。
「ティナ。あとお願いできる?」
「ティナァ、頼むぜィ」
 何を求められているのか。もう、理解していた。息を整えて、そっと隣に立つミズガルドを見上げる。不安が顔に出ていたのかもしれない。苦笑されてしまった。
「出来る。君は俺の弟子だろう」
「……はい」
 言葉が力強くて嬉しい。トスティナは頷いて、前を見据えた。
 焼けた大地は、痛々しい。銀色の草ももうその面影はない。でも。
(大丈夫ですよ)
 声に出さずに語りかける。目を閉じた。地の一式。ぷん……と鼻に緑の深い香りがした気がした。瞼の裏に鮮やかに見える、緑の海。どこまでも広がる、生命の草原。身体の中から、熱い力が湧いてくる。ぱっと、目を見開いた。想像が消えないうちに解き放つ。

「緑の大地――!」

 声と共にざっと緑が広がっていく。焼けた大地が生き返っていく。銀色の死化した大地ですらなく、鮮やかで活き活きとした深い深い、緑に。
 花が咲いた。風に吹かれて揺れる。焼けた枝で俯いていた木が天を向く。
 命が広がっていく。

(きれい)

 広がる景色に、胸中でトスティナは呟いていた。
 それは懐かしい景色だった。今なら判る。自分はずっと、この緑に守られて生きてきたんだ。ありがとうと、唇だけで囁いた。
 やがて緑は風の村を覆いつくした。背後でわっと声が上がる。
 身体が重い。かくんとその場に膝をつくが、倒れる前にミズガルドの腕に支えられた。
「……せんせい」
「ああ」
「くらい、です」
「……は?」
 ミズガルドが眉を潜めた。言葉が足りなかったと、思わず苦笑する。
「あの。いつの間にか、夜になってました」
「そうだな」
「暗くて、ちょっと、怖いです。先生。それにその、濡れちゃって、ちょっと、みんなきっと寒いです」
 言わんとすることを察してくれたのだろう。そっとミズガルドはこちらを座らせると立ち上がった。あたりにざっと目をやり、幾つか木切れを拾ってきた。濡れているであろうそれに何か呪文を唱え、それから少し離れたところに木切れを重ねて置いた。
 そして、薄い唇が再度呪文を唱える。
「――ぬくもり」
 パチパチ――と木が弾ける音がした。木切れが燃え上がる。
 辺りが光で照らされる。
「これで、いいか?」
 ミズガルドが振り返る。その顔を見てほっとして、トスティナは笑った。
「はい。あたたかい……ひとのちから、です」