第二章 :  閉ざされた世界の中で  


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「お茶、入ったわよ。――あら、どうしたの、あやちゃん。食べてないじゃない」
 トレイを持った椿が近寄ってきて眉を寄せる。ローテーブルにトレイを置く。
「まだ、気持ち悪い?」
 問われて、反射的に唇を噛んでいた。
 気持ちが悪い。確かにそれなら、食欲がない理由になる。けれど。
 気持ち悪さ、なくなってる……?
 胸中で呟いた。さっきまで強く感じていた不快感は、嘘のように消え失せていた
「あやちゃんー?」
 太蔵とは反対側に梨花が座り、腕を取ってくる。一瞬びくりとしてしまった。顔を梨花に向けると、真剣な眼差しとぶつかった。少しだけ、緊張が緩んだ。梨花がいれば、大丈夫だ。
「あやちゃん? 熱、もう一度計る? お薬、何か出しましょうか」
 椿の問いかけに、あやは首を振った。
「必要ない。気持ち悪くない」
「そう? じゃあもう少しでいいから、食べなさい。病人にこんな食べにくいもの渡すのも、あれだけどね。太蔵ちゃんに任せたアタシが馬鹿だったわ」
「メロンパンは元気が出るぞ」
「黙らっしゃい、メロンパン狂い」
 椿と太蔵の軽口の間にも、あやは動揺を悟られないように表情を取り繕うのでいっぱいだった。あの不快感が消え失せている。ただの風邪なら、こんなすぐに治るとも思えない。
「気にしちゃ、駄目だよ」
「うん、ありがと、梨花」
 椿がデスクの椅子をローテーブルの前に引っ張ってきて、食事が始まった。椿の入れた紅茶はホットで、クーラーの効いた保険室内ではちょうどいい。とはいえメロンパンオンリーの食事で何が楽しいと言うわけでもない。何しろ、この状況だ。梨花と椿はそれぞれひとつずつメロンパンを完食し、太蔵は一人で三つ食べたが、あやは結局半分も食べられないままだった。
 食事の間は静かだった。誰もほとんど何も言わない。会話があるうちは、保険室内だけを意識していられた。少なくとも四人いるということが、救いになった。けれど会話がなくなると、実感する。四人しか、いない。廊下からも、校庭からも、ざわめきは聞こえてこない。
「見回りしてくる」
 食事が終わるとすぐ、太蔵が立ち上がった。あやが驚いて見上げると、相変わらず表情が読めない顔のまま、太蔵が見下ろしてくる。
「何だ」
「見回りって」
「まだ誰かいるかもしれん」
 いるはずがない。そう思った。食事の間でさえ、どこからも人の声も気配もなかったのだ。いくら校内が広いといっても、釈然としなかった。
「そう、ね。お願いするわ、太蔵ちゃん」
 椿が飲んでいた紅茶のカップを置いて頷いた。椿に目をやって、あやは再度顔をしかめた。また、あの目だ。椿も、誰かいると信じているのだろうか。それにしては暗い目だ。何かがやはり、引っかかる。飲み込んだ魚の小骨みたいに、違和感が残る。
「梨花も行く」
「梨花!?」
 不意に立ち上がった梨花に、あやは思わず声を上げた。
「ど、どーしたんだよお前。普段コンビニ行くにもタルがるくせに自分から動こうなんて。気持ち悪ぃぞ」
「あやちゃん怒るよ?」
 グー。とこぶしを見せられるが、事実を言って殴られる筋合いはない。だが梨花は、あやに舌を出すと、さくさくと保健室のドアの前まで歩いていく。
「おい、姉!」
 珍しく、太蔵が慌てたように声を荒らげる。
「連れて行かんぞ。何が起こるか判らん」
「何それ意味判んない」
 ドアに手をかけて振り返った梨花が、冷たく切り捨てた。普段の子どもっぽさが欠片も見当たらない冷ややかな目だ。あやは見たことがある。珍しいが、梨花が本気で怒っている時の目だ。あやとて、今まで一緒に生きてきて数えるほどしか見たことがない。その目のまま、梨花は告げる。
「人が他に誰もいないのに、何が起こるって言うの? 井伊ちゃんは、他に生徒がいないかどうか見に行くんでしょ? 何か危ないことでもあるっての? あるわけないよね?」
「そ――」
「それとも」
 太蔵の言葉を遮り、梨花が体ごと振り返った。正面から太蔵と、椿、それぞれと視線を絡めあう。
「二人は、何かあるって、判ってるから言ってるの?」
 先に視線をはずしたのは椿だった。すっと席を立ち、空いたカップを流しまで持っていく。自然すぎる動作が、逆に不自然だった。梨花の視線が椿を追い、それから太蔵に向けられた。太蔵は視線を逸らさない。確かに視線を混じり合わせた後、ひとつだけ大きく息を吐くと、梨花に――ドアに向かって歩き始める。
「井伊ちゃん」
「姉、連れて行くからな」
 太蔵の返事は、どこか諦めたような響きがあった。
「あやちゃん、大丈夫」
 声を和らげ、梨花が微笑んできた。ぶい、とサインを出してくる様子は普段と変わらない。十七とは思えないほど、子どもじみている。ただそれが、梨花の全てではないことを、あやは十二分に理解していた。
「梨花、教室に携帯忘れてきちゃったから、取りに行きたいだけ。一人はさすがに嫌だから、井伊ちゃんについて行くだけだよ。心配しないで」
「梨花」
「だーいじょーぶ! ついでに、携帯か公衆電話かで、警察かどっかに連絡してみるよ。異常事態だし、対処してくれると思う」
 言われて、あやは思わず目を瞬かせた。そうだ。学校内に人間がいないからといって、外もそうだとは思えない。警察に連絡する。当たり前といえば当たり前のことだったのに、全く考えも及ばなかった。
「四人でメロンパン食べてるより、ずっと具体的だし、建設的だし、現実的でしょ?」
 いってきます、と梨花が太蔵を伴って軽い足取りで出て行く。ふわふわ揺れる梨花の二つ結びの髪がドアの向こうに消えてから、あやはようやく小さな笑みを浮かべた。梨花らしいといえばこの上なく梨花らしいマイペースさだ。朝、保健室に引っ張っていこうとしたときと同じ雰囲気がある。ただ梨花のすごいところは、この状況でその雰囲気を保っていられるところだ。
「強い子ね」
 背後から声が聞こえた。振り返ると、カップを片し終えた椿が手を拭きながら微笑んでいる。強い子、が梨花を指しているのだと理解し、あやは椿を睨み付けた。
「梨花は前からそうだよ」
 言い捨てて、顔を背ける。それからはたと気がついた。今この保健室の中に梨花はいない。太蔵もいない。いるのは自分と、この奇妙な養護教諭だけで、つまりは単純に二人きりだ。
「……サイッアク……」
 椿に背を向けたままソファの手すりの部分に軽くもたれかかってドアを見つめる。
 頼む、梨花。早く帰って来い。



 人気のない校舎は、妙に寒々しく思える。
 奇妙な文字が躍る作業服の背中を前に、梨花はゆっくりと歩を進めていた。
 思い出すのは小学校の頃の夏休みだ。学校のプールが開放になっていた日に、学校まで行ったところで急にプールに入る気にならなくなった。好きでもないクラスメイトたちと顔を合わせることもあるかと思うと、足はさらにプールから遠のいた。結局あやと二人、プールから離れた校舎に入り込んだのだ。夏休みの校舎内は人気がなくて、ちょうど今みたいに静まり返っていた。親に心配されても面倒だったので、水着は廊下の手洗い場で適当に濡らして、その日は二人で校舎内に居座り続けた。静かな校舎に、真夏の太陽が射し込んでいて妙に綺麗だったのを覚えている。少しの話し声がびっくりするくらい廊下に反響して、ばれやしないかとドキドキした。小学校と高校、場所は違えど、校舎の持つ雰囲気にはそう大差ない。今だって、ローファーの靴音が不気味なくらいに響いている。
 歩きにくい低い階段を上がっていく。前を行く太蔵は何も言わない。時折廊下や窓の外にきつく視線を走らせているだけだ。それ以外は何もせず、ただ黙したまま二年の教室へと歩を進めている。その背中を梨花はじっと見つめた。教室に携帯電話を忘れてきたのは事実だ。机の中、教科書とタオル地のハンカチを重ねた上に携帯電話を置いてメールをしていた。こうしてバイブレーションにしておけば音も響かないのだ。授業中、あやのことが心配で何度もメールを送った。しかしあの地震の直後、嫌な感じがして廊下に飛び出してあやを探した。そのせいで、いつもなら肌身離さず持っている携帯電話さえポケットに突っ込む余裕がなかったのだ。だから、携帯電話を忘れた。それは事実だった。ただ、事実であると言うだけだ。あやが傍にいれば、この状況下で携帯電話なんて必要性を覚えない。携帯電話を取りに行くのは、保健室を出た真実の理由じゃない。目の前で、太蔵は変わらずきょろきょろとあちこちに視線を投げている。時折見える横顔は、相変わらず強張ったままだ。太蔵のこの行動も、事実だけは簡単だけど、真実はあいまいだと思った。
 階段を上りきり、太蔵が黙ったまま二年五組の教室に入っていく。梨花も何も言わず教室に足を踏み入れた。太蔵が振り返ってきて、視線で合図してきた。頷くこともせず、梨花は太蔵の隣を通り過ぎて自分の机に寄った。窓際の前から三番目。机の中から携帯電話を取り出す。そこでようやく、太蔵が口を開いた。
「お前のそれは何事だ」
「何事って、何が?」
「ジャラジャラジャラジャラ、何個ついてるんだ」
「某白猫のご当地ストラップ。今は三十二個」
「さんじゅうに……」
 明らかに携帯電話本体より重くなりつつある大量のストラップが、太蔵的には信じられないらしい。明太子やら新幹線やらどじょうやら食い倒れ人形やらに扮した白猫が大量にぶら下がっている携帯電話は、確かにクラス内でも相当目立つものであるのは梨花だって自覚している。最初は二、三個だったのが、クラスメイトや近所のおばさんたち、はては教師陣まで買ってきてくれるようになったせいで、こんな状態になっているだけだ。
「この白猫上杉謙信バージョンは、椿ちゃんがくれたやつだよ」
「どこから突っ込めばいいんだそれは」
「あ。井伊ちゃんこれあげる。白猫メロンパンバージョン」
「俺にどうしろってんだ。何なんだこの芸人猫は」
 手渡したストラップを、太蔵はうめきながら見下ろしている。その様子を軽く眺めながら携帯電話をいじる。一通りいじってから、梨花はふぅと息を吐いた。携帯電話の画面を開いたまま、太蔵に向けた。
「これ、どういうことだと思う?」
「ある意味プロだな、その白猫は」
「そうじゃなくて、電波。圏外なんだよね」
 コツ、と携帯電話の画面を指で示した。太蔵の顔から、薄く浮かんでいた呆れた表情が消えていく。眼鏡の奥の目を見据えて、梨花はもう一度はっきりと告げた。手の中で、白猫たちがじゃらりと音を立てた。
「圏外。変だよねぇ? 梨花、ついさっきまであやちゃんとメールしてたんだもん。急に教室が圏外になることってあるのかなぁ」
「さあな」
「ま、いいけどね。一階の公衆電話、付き合ってね。繋がればいいけど」
 パタンと画面を閉じて肩を竦めた。それから、太蔵の腕をすばやく掴んで、梨花は離れようとする視線を繋ぎとめた。見上げて、強く告げる。
「ねぇ井伊ちゃん。さっきから、誰を探してるの?」
 太蔵が手を振り払ってきた。力はさほどないが、勢いで少しよろめいた。
「生徒を探してただけだ。他にもいるかもしれんだろう」
 ドアに向かって再度歩き始める太蔵に、梨花はため息さえもったいなく思えてただ静かに腕を組んで見つめた。
「うそつき」
 太蔵の足が止まる。いいセンセー☆ とかかれた背中が、ぴりぴりしているのがよく判った。馬鹿馬鹿しい会話だな、と心のどこかで静かに思う。
「ごめんね。うそじゃないのかな。でも真実全部ってわけでもないよね」
「何を言ってるんだか。一階に行くんだろ。放っていくぞ」
「だって井伊ちゃん、隠すの下手すぎだよ」
 背中越しの台詞をあえて無視して梨花は言葉を続ける。ようやく太蔵が、顔だけを梨花に向けてきた。無表情が、しかめっ面に変わっている。
「生徒探してるなら、声を出さないのは不自然なんだよ。誰かいるかもって言うなら、呼びかけたほうがずっと効率的だよね。こっちが見つけられなくても、向こうから返事があるかもしれないんだから。誰かいるか、って呼びかけたほうがいい。ベタだけど、やらないよりずっといいに決まってるの。実際、最初に梨花たち見つけてくれたときは、井伊ちゃん、呼んでたでしょ? 誰かいるか、って叫んでた。梨花、耳いいから、ちょっとだけど聞こえたんだよ。でも今回はそれが全くなし。保健室からこの教室に入るまでの間、一言も喋らなかったんだよ。それなのにきょろきょろして、すっごく怖い顔であちこち見てた。不自然すぎるよ。不自然なの。おかしすぎるんだよ」
 太蔵はもはや何も言わなかった。ただじっと、梨花を見つめて佇んでいる。
「それに、悪いけど梨花、あやちゃんほど素直じゃないから。井伊ちゃんも椿ちゃんも、さっき何も知らないって言ったよね」
「事実だ。知らんものは知らん」
「うん。そうなんだろうね。でも、訊ね方間違ったなってこと。あやちゃん素直だから、ころっと騙されちゃったけどね」
 太蔵の視線が離れない事を確認して、梨花は傍の机に腰をかけた。携帯電話のストラップを指で弄んでから、ポケットにしまう。窓の外では相変わらず、細い細い雨が糸を引いている。人気のない教室には、面白いほど綺麗に自分の声が響いた。
「どうしてこうなったのかなんて、知らない。椿ちゃん、そう言ったんだよね。でも、その後井伊ちゃん、梨花が聞いた「判ってるの?」には否定しなかったんだよ。だから訊きなおすよ。現状がどうしてこうなってるのかは、知らないのかもしれない。でも、何が起こってるのかは、判ってるんでしょ? 判ってる、あるいは推論はつけられるんでしょ? 違う?」
 一瞬、沈黙が落ちた。静かに視線を合わせたまま、梨花と太蔵は微動だにしなかった。ささやかな雨音だけが、教室を満たす。
 カチリ、と壁にかけられた時計が音を立てたのを合図に、沈黙が破られる。
「お前は、その頭の回転を授業に活かせば、もう少しいい成績とれるんだろうにな」
 太蔵は大きく息を吐き、けれど否定はしなかった。


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