第二章 :  閉ざされた世界の中で  


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 梨花が出て行って十分も経っていないと言うのに、あやはすでに落ち着かなくなっていた。
 腕時計を見て、保健室の壁掛け時計を見て、携帯電話の液晶画面を見て、どれを見たって結局同じだというのにその行動を繰り返してしまう。何とか落ち着こうとしても、指先がリズムを刻むことをやめてくれない。
「少し、落ち着いたら?」
 ふいに声をかけられ、あやは反射的に表情を硬くした。
「ねぇ、あやちゃん」
「……っせーなぁっ! 口閉じろやぁ、変態!」
「変態言わないで頂戴、ひどいわねっ」
「うぜえ、黙れ、消えろ、でなければ死ね。塵となって消え失せろっ」
「うーわー……」
 噛み付くように叫ぶと、椿が苦笑して降参とでも言うように手を上げた。白衣が小さく音を立てた。外はまだ雨が降り続いている。その雨音が、窓をすり抜けてわずかに届いてくる。自分でもすごい顔をしているんだろうな、と思う目で椿を睨み付けてから、あやは顔を背けた。深呼吸すると、微かな薬品の刺激臭と百合の甘い香りが一緒に肺に滑り込んできた。閉じ込めるように唇を引き結んだとき、背後で小さなため息が聞こえた。
「ごめんなさいね」
 一瞬、ぎくりとした。謝られている。実際のところ、八つ当たりと毛嫌いでしかない。椿に非は何もないのに、椿が謝っている。その事実が、あやにとって妙な居心地の悪さを生んでいた。けれど椿はこちらの心中など判るはずもなく、ただ静かに言葉を続けている。
「いきなりこんな状況で不安にもなるわよね。梨花ちゃんも行っちゃってアタシしか傍にいなくて、いらいらしちゃうのも判るつもりよ」
「……つに」
「なに?」
「別にお前のせいじゃないだろ」
 うめくように呟くと、椿が小さく苦笑したのが判った。なんとなく気まずくなって、そのままずるずるとその場に座り込んだ。ソファの側面なので、椿の視界からは消えられる。
「あやちゃん……あの、見えないんですけど」
「見るな」
「意外とコンパクトにまとまるのね……って、いやそうじゃなくて、あのね?」
 ギシ、と音が鳴った。ぎょっとして振り向くと、ソファに椿が座っている。こちらを見下ろして、困ったように微笑んでいた。
「キ……モいんだよ、近づくな!」
「あー。判りやすく素敵な反応をありがとう。悲しいことに慣れちゃったわ。フ」
「フじゃねえ!」
「んもう、わがまま。ねぇあやちゃん、アタシ、そんなにあなたに嫌われることしたかしら? 貴女が入学してからずっと見事に嫌われてて、理由も判らなくてちょーっと困っちゃってるんだけど。教えてくれないかしら?」
 言葉どおり、困った顔のまま微笑まれ、あやは一瞬言葉に詰まった。顔だけは整っている椿を見上げ、何から言うべきか思考した。理由はいくつもある。少しだけ考えた後、あやはゆっくり唇を開いた。
「まずその口調が気色悪すぎる」
「うーわー。スットレートー」
 やけに遠い目をして椿がうめく。ほとんど棒読み口調に、あやはふつふつと苛立ちがまた湧き上がるのを感じて、続けざまに口を開いた。
「最高最悪に気持ち悪い。変態め」
「変態言わないでっ、差別はいやんっ」
「うぜえ、黙れ。雑巾口に突っ込んで縫うぞこら」
「フフフ……敵意がざっくざく突き刺さるわ……」
「大体お前、カマ男じゃねぇんだろ?」
 頭を抱えている椿を見上げる。椿は一瞬きょとんとした後、苦笑しながら頷いた。
「ええ、同性愛者ではないわね」
「だったらなんでそんな口調なんだよ。意味判んねぇ」
 ふ――と椿の表情から色が抜け落ちた。ふざけたような雰囲気が抜け落ちて、瞳が深く暗い色に落ちる。あ、と小さく胸中で声を上げた。あの、目だ。
 あの日、桜を見上げていた瞳と同じ色の瞳のまま、椿が静かに呟く。
「大人の事情、かしら」
 大人の事情。
 それはまるで、貴女は子どもだからと、子どもには関係ないと、大人の事情に深入りするなとでも言われているみたいで――
「……っざけんなぁっ!」
 ゴガッ! と鈍い音が響いた。勢い良く立ち上がると、後頭部が見事に椿の顔面を強打したのだ。
「ちょ……あごが……後……、すげいてぇ……」
「てめぇがふざけたこと抜かすからだろうが!」
 立ち上がった状態で振り向いて、まだぴくぴくしている椿の後頭部をもう一度張り倒してから怒鳴りつける。
「大体何もかんも気に入らないんだよ! そのふざけた口調も人見下したみたいな態度も似非くさい笑顔も全部気に入らん! そもそもカマ口調で喋らなきゃなんねぇ大人の事情なんざ燃えるごみの日にでも出しちまえボケっ! しかもその髪も服装も養護教諭かなぐり捨てすぎだ! そのくせ百合の花とか飾って妙に乙女趣味なところあるし! 全てが! ことごとく! 気に入らんっ!」
「この花は、否定しないで」
 するり、と。まるで言葉と言葉の間をすり抜けるように、椿が口を挟んできた。ソファの上で起き上がり、あごをさすりながら、それでも真剣な眼差しをこちらに据えてきている。
「この花は否定しないで」
「なん――」
「好きなのよ。百合が」
 椿は立ち上がると、ソファを離れて自らの机へと移動した。簡素な花瓶にいけられている大輪の百合を指でつつく。白い花弁が微かに揺れて、また花の香りが広がった。
「匂いが強いから、保健室にはふさわしくないのかもしれないけど、ね。ごめんなさい。アタシのことはどう否定してもらってもいいけど、この花は、否定しないで頂戴」
 そう言って、どこか悲しげに微笑う。不可解と不愉快が、交じり合って腹の底で膨れ上がる。確かに、大人の目だ。誤魔化しも、嘘も、自分に向けてやれてしまう、大人の目だ。全てを拒絶して、孤独を好んで、誰も立ち入らせないくせに、上辺だけは人当たりのよいふりをする、偽物じみた、大人の目。
 嫌いだ。強く、そう思った。
 嫌いだ。大嫌いだ。太蔵とは違う意味で、全く、本心が見えない。何を考えてるのか、何を思っているのか、真実が霧に覆われて見えない。それは、恐怖だ。正面きって向かい合っているはずなのに、何も見えてこない。その、恐怖。
「その目だ」
「え……?」
「あたしが一番嫌いなのは、お前のその目だ!」
 言葉が凶器になればいい。叩きつけて、この苛立ちを相手に直接ぶつけられたら、どれほどすっきりするだろう。そんな意地の悪い願いすら込めて、あやは椿に叫びつけた。一瞬、驚いたように目を見開いた椿の顔が見えて、けれどすぐに顔を背けて視界から追い出した。足早にドアに向かって歩いていき、力任せに開ける。
「あ、あやちゃん、どこへ行くの。ひとりじゃ――」
「トイレだよっ! ついて来んな、うそつき!」
 のどが痛むほどに叫びながら、再度力任せにドアを閉める。耳障りな音が廊下に反響して、ゆっくりと溶けていく。
「……最悪」
 口癖になりつつあるその単語を、かみ締めた奥歯の間から漏らして、あやはきつく目を閉じた。自分の中でぐるぐると、何かが渦巻いている気がする。それをゆっくりと吐き出して、目を開く。まだ完全に苛立ちは消えなかったが、少しだけ落ち着いた気がした。
 椿がドアを開ける気配はない。当然だと思った。
 一瞬だけ、待って、それからゆっくりと歩き出した。トイレ、と行ったからにはとりあえず行こうと思ったのだ。



「否定、しないんだね。井伊ちゃん」
「する要素がない。お前の言うとおりだ」
 梨花が笑いかけると、太蔵は作業服のポケットから煙草の箱を取り出して軽く首を振った。視線で問いかけてくるので、頷いてみせる。太蔵が一本、煙草をくわえた。ゆっくりと、必要以上に思えるほどゆっくりと火をつけ紫煙を吐き出す。
「井伊ちゃん、煙草吸うんだ」
「滅多に吸わんが、時々な」
「じゃ、今はその滅多なとき、ってわけだ」
「そういうことだ」
 教室に上がる煙草の煙、は似合わなさ過ぎて奇妙に思える。梨花はゆれる白い煙をぼんやり目で追いながら、太蔵が口を開くのをじっと待った。携帯灰皿に何度か灰を落としてから、ようやく太蔵が口を開く。
「お前の言うとおり、現状がどうしてこうなったのか、は知らん。だが、何が起きているのか、はある程度推測出来る」
「うん」
「今話すか?」
「何で聞くの?」
「今ここで話したら、妹のほうはどうするんだ? 二度手間はごめんだ」
「あやちゃん?」
 こくり、と太蔵が頷く。その様を見て、梨花は小さく笑った。
「井伊ちゃん、律儀だね。ついでにちょっとお馬鹿だね」
「おい」
「何で梨花がわざわざ保健室を出たか、考えてみてよ」
 この状況下で、あやのそばを離れるのはリスクが大きい。保健室に留まったままのほうが良かったのは明白だ。携帯電話なんて、あやのそばにいれば必要ないのだから。
「この話をするため、か」
「うん。内容によっては、あやちゃんは聞かないほうがいいかなって思ってね。それにこれ」
 そこで、一度言葉を切った。万が一あやが梨花を迎えに来ていて聞かれても困る。耳をすませてみたが、教室の外にも気配はない。大丈夫そうだ。
「――あやちゃん、関係してるでしょ?」
 太蔵が、ふうと長く煙を吐き出した。煙草を灰皿の中でもみ消して、ポケットにしまう。その間梨花は何もせず、ただじっと太蔵を見つめていた。
「全く……こっちがいちいち驚かされるな。お前はいったいどこまで気づいている?」
「ぜーんぜん? 梨花、ほとんど当てずっぽうだよ。ちょー適当。ちょー勘」
「勘でこれだけ判られてたまるか」
「でも、勘だもーん。梨花、昔から勘だけはいいのよ」
 にこりと笑いかけると、太蔵が不機嫌そうな顔になった。その表情が妙に子どもっぽく見えて、思わず笑いそうになる。笑いそうになって、そこで梨花はふっと笑顔を消した。
「前田?」
 太蔵が怪訝そうに呼びかけてくるのを、梨花は無視した。それどころじゃなかった。嫌な感じがした。胸の奥が、ざわざわと、夜の梢のように音を立てている。たまに、ある。この感覚。そのたまには、今までどれも、いい事がなかった。だというのに今日は三度目だ。一度目は、英語の時間。あやたちのクラスは体育だった時間だ。そのときは、あやがおぼれかけた。二度目はあの地震の直前。この三度目は――
「おい、前田」
 ガタンっ、と派手な音がした。机から飛び降りて、走り出す。太蔵が背後で声を上げるのを無視して、教室から廊下に飛び出した。
 離れるんじゃなかった。苦い後悔が指先を痺れさせるのを感じた。
「あやちゃんっ!」



 濡れた手をハンカチで拭きながら、ふっとあやは足を止めた。顔を上げる。
 ――今、何か音が、した。
「誰か……いるのか!?」
 声を上げて呼びかける。だが、声はただ廊下にこだましただけだ。もちろん、あや一人分だけの声が。それでも、気持ちがざわついていた。何かが、おかしい。
 考えているうちに、影が走った。
「誰だ!」
 叫ぶ。誰かいるのは確かだった。誰か、ではなく何か、かもしれないということはとりあえず頭の中から追い出した。視界の隅を走った影は、左手、中庭へ続く扉の影へと消えた。中庭に人が残っていたのか、とも思ったがそうでもないだろう。中庭のほうへ消えたと言うことは、中庭以外にいたということだし、何より保健室にいた時に、中庭に人がいれば気配ぐらい感じたはずだ。中庭と保健室は近いのだから。足を開いて、重心を落とした。
 影が見えた。心臓がぎゅっと縮まる。人だ。少なくとも、人影ではあった。中庭にある桜の樹の陰に隠れている。薄い影が中庭の小道に伸びていた。一歩、踏み出してみる。中庭と廊下の間で様子を伺う。影が揺れて――
 何かが、飛んできた。
 反射的にドッヂボールの要領で身をかわす。飛んできたそれは、かしゃんと音を立てて廊下に転がった。見下ろす。最初はモノサシか何かかと思った。が、違った。
 銀色のナイフ。
「こっ……こんなもん人に投げるなーっ!」
 思わず、叫ぶ。
 叫ぶと同時に、影がまた動いた。
 心臓が、縮み上がる。ざっと血の気が引いていくのが判った。
 また、何かが飛んで来る――
 飛んでくるものが何かを理解した以上、悲鳴を上げずにはいられなかった。
 廊下を貫くように、あやの悲鳴が響いた。


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