第三章 :  絶対孤独主義  


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 悲鳴と同時に、体の中から何かが抜けていくのが判った。肺にたまった空気であって、声であって、血の気であって、でもそれ以外の何かでもある。
 あやはきつく目を閉ざしたまま、腕で顔を覆っていた。そんな事をしても何の意味もないことは判っている。はっきりと確認したわけではないが、飛んできているものは具体的過ぎるほど具体的な凶器に類似するものなのだから。本当なら、さっきみたいに逃げたほうがいい。そんなこと、頭では理解している。けれど体が強張って動かない。
「前田っ!」
 声が聞こえた。とっさにまぶたを開ける。
 刹那、視界を黒い犬が走りぬけた。
 ――犬!?
 ぎょっとして、目を見開く。そんなもの、校内にいるはずがない。普段でさえそうなのに、ましてやこの状況でいるはずがない。
 それでも、それは確かに犬だった。否――犬の形をしては、いた。一瞬、ぞっとする。生きた気配がなかったのだ。黒い絵の具を塗りたくっただけのような奇妙な質感。それが、あやのそばに音もなく降り立つ。降り立った瞬間、ふいっと犬が消えた。ほぼ同時に、硬い音がいくつか響く。
「あやちゃん!」
 聞きなれた声がした。同時に背中に衝撃を受ける。ほっとして、膝から力が抜けていった。あやはその場に座り込む。
「……りか」
 何が起きたのか、全く理解出来なかった。犬はどこへ行ったのか。いまさら、指先が震えて止まらなくなってきた。首だけをまわして、梨花を見る。青ざめた表情で抱きついている梨花の顔を見て、また少しだけほっとした。柔らかい茶色の髪をひとふさ掴んで、頬に当てる。小さな刺激が、今は心地よかった。
「前田、無事か」
 名前を呼ばれ、意識がリアルに戻ってきた。顔を向けると、太蔵が彼もまた青ざめた顔で立っていた。
「井伊ちゃん……」
 パキン、と小さな音がした。何だ、と瞬きしてあたりを見回す。そこであやは小さく息を呑んだ。
「な、んだ。これ」
 ガラスの海になっていた。廊下一面、ガラスが散らばっている。あやを中心にした円のようだ。見ると、そばの窓がことごとく割れていた。あのパキンと言う音は、太蔵がガラスを踏んだ音なのだろう。そこまで考えて、はたと気づいた。この場所に、梨花は自分に抱きつくために膝立ちしているのだ。
「ばっ……! 立て梨花っ! お前、足! 怪我!」
「梨花はヘイキだよ、あやちゃんは、あやちゃん大丈夫?」
「大丈夫だからっ、ああもうっ、ほらぁ、足怪我してる」
 あわてて梨花を立たせながら自分も立ち上がる。梨花の膝には小さな切り傷がいくつか生まれていた。ガラスを手で軽く払う。指先が震えているのが自覚できた。梨花の膝に、赤い血がにじんでいる。
「ごめん、な」
「あやちゃんのせいじゃないよ。梨花、離れなきゃ良かった。すごくびっくりした」
 梨花の手が震えていた。それを握って収めてやろうにも、自分の手も震えていてどうしようもない。何が起きたのか、全く理解が及ばなかった。頭の芯がくらくらと揺れている。
「あやちゃん、梨花ちゃん!?」
 不意に太蔵のものではない男の声が聞こえて、あやは梨花の手を握ったまま顔を向けた。太蔵たちがきたのとは逆方向、廊下の正面に長身の男が立っている。椿だ。そのまま、どこか危なっかしい足取りでこちらまで駆けてきた。
「こ……れ。二人とも、怪我は、怪我はない?」
「え、あ……梨花が、切り傷……」
「あやちゃんも切ってるよ、バカっ」
 いまいち働かない頭のまま呆然と答えると、梨花が怒鳴ってきた。が、実際のところ自分の体に痛みは感じない。まだよく、判らない。怪我の痛みを意識するほど、現状を理解していない。
「ア……タ、シ。こんな……」
 見ていて心配になるほど青ざめた椿が、前髪をかきあげる。何度か唾を飲み込むように喉が上下していた。あやはむしろ、椿のその表情にぎょっとした。肩に手をかけられたが、払おうにも払えなかった。切れ長の目が今にも泣き出しそうに歪んでいる。ついさっきの大人の目ではなく、悔やむ子どものような瞳だ。見るに見られず、あやは思わず声を上げていた。
「だ、大丈夫だよ。別に。そ……黒い犬が、助けてくれたし……」
「犬……?」
 椿が、怪訝そうに眉を寄せる。握り合っていた梨花の手に力がこもるのが判った。
 不意に隣に立っていた太蔵が屈んだ。廊下に落ちていた三本の短いナイフ――よくは判らないが、とりあえず果物ナイフのようには見えなかった――を拾い上げながら低く呟く。
「確認、だな。放っておいても、致命傷にいたる怪我はしなかったはずだ」
 言うなり――
 太蔵の体が、くずおれた。ガラスの散らばった廊下の床に、吸い込まれるように見えた。
「太蔵!」
 椿の悲鳴が響く。
 何が起きているのか。全くもって判らないまま、あやはただ、繋ぎあった梨花の手をきつく握り締めるしか出来なかった。



「ごめんなさいね、驚かせちゃって」
 シャっとカーテンを閉じながら、出て来た椿が微笑んだ。安心させるつもりなのかもしれないが、青ざめた微笑は、見ていてただ痛いだけだ。
「井伊ちゃんは?」
「ただの貧血。少し休んだら、大丈夫よ。心配かけちゃって、ホント、ごめんなさい」
 梨花の問いかけにも、無理に貼り付けた苦笑のまま答えてくる。梨花の隣でソファに座りながら、あやは自分の膝を見つめた。あの後、倒れた太蔵を椿が保健室に運んでベッドに寝かせた。その間の、唇をかみ締めた椿の横顔をあやも梨花も見ている。心配かけて、とはいっているが、実際一番心配していたのは椿だろう。今もカーテン越しにベッドに投げる視線は、不安を溜め込んだ幼子のような色を隠しきれていない。
「梨花ちゃんとあやちゃんも、切り傷、手当てしましょ。こっちいらっしゃい」
「あやちゃん」
 梨花に手を引かれ、あやも重い腰をあげた。ソファから移動して、椿の前に置かれているもうひとつの椅子に座る。椿の手が器用に動いて、手の指と膝にあった切り傷を消毒する。傷自体は浅く、たいした事はない。痛みは多少あったが、どうと言うほどでもなかった。絆創膏を貼られ、それ自体がむずがゆいと思える程度の傷だ。ただ、治療されている間あやは何も言わなかった。唇を強く結び、じっと椿の手元だけを見ていた。梨花の治療の間も、口を開かなかった。静かに、考えをめぐらせていた。
 何が起きたのか。頭の中で整理しようと試みる。
 椿の言い草に腹が立って、保健室を飛び出した。トイレを出たらすぐ、人の気配を感じた。呼びかけたら、ナイフを投げられた。最初は一本。悲鳴を上げたら、同時に何本か――三本だったか、投げられた。動けなくなったところで、黒い犬が出てきて、助けてくれた、らしい。このあたりは理解できなくてよく判らなかった。それから、梨花と太蔵がやってきた。ほとんど間をおかず椿もやってきて、それから、太蔵が倒れた。事実を並べれば、それだけだ。それなのに、トイレを出たあたりからは理解の範疇を大幅にオーヴァしている。
 椿の手が梨花の膝から離れるのを見て、あやはゆっくり顔を上げた。
「説明しろよ」
 保健室の中の空気が、凍りついた気がした。用具を片しかけていた椿が手を止め、視線を落とす。
「何で、あたしがあんな目に合わなきゃなんねぇんだよ。これ、どういうことだよ。お前らなんか知ってんだろ。あの犬は何? 確認ってどういうこと? 井伊ちゃん、何で倒れたわけ? 答えろよ」
「梨花も、説明してほしい」
 あやの言葉尻にかぶせるように、梨花も顔を上げた。眼差しが、保健室を出たときと同じ色を灯している。怒りの色。
「どうして、あやちゃん一人にしたの?」
 梨花はこちらを見るそぶりすらなく、椿を見据えていた。
「どうして、あやちゃん一人にしたの。こんな訳判んない状況で、なんで一人に出来るの? ちょっと考えればそんなこと普通しないよね? その頭、飾りじゃないんだったら、どうして使わなかったの?」
「梨花、それは」
 言いすぎだ、と思った。あや自身口が悪いことは重々承知しているが、梨花は普段がそうでない分、本気で怒ると手がつけられない。それに、あやが一人になったのは椿の責任だけじゃない。きっかけは椿の発言だが、保健室を飛び出したのは結局あやの勝手だ。椿を責めてもどうしようもない。
「どうせあやちゃんが怒って勝手に出て行ったんでしょ?」
「……判ってんじゃんよ」
「それとこれとは話が別なの。あやちゃん、ちょっと黙ってて」
 ふいっと顔を背けられ、あやは嘆息を飲み込んだ。今の梨花は、どう扱えばいいのかあやでさえも判らない。
 椿は梨花の顔を正面から見据え、表情を消していく。浮かんでいた苦笑が消えて、また、さっきの悔やむ子どもの目が戻ってくる。
「ホントね。梨花ちゃんの言うとおり。離れるべきじゃなかったのに」
 ふと、気づく。椿の節の目立つ長い指が、微かに震えている。怯える子どもだ。ついさっきの梨花と同じように、震えている。
「一条?」
「あやちゃん」
 水底を見た気がした。
 一瞬、ぞっとする。椿があやを見据えたのだ。それが、その瞳があまりに暗くて、深くて、海の底の様に揺れていた。それでいて、違和感があった。正面から見据えられているはずなのに、何故か視線がすり抜けているような違和感。あやはその違和感が何かは判らず、ただ薄気味悪さだけを覚えて口が開けなかった。椿はあやの心中など気づくはずもなく、ゆっくりと頭を下げていく。
「ごめんなさい」
「だ、だから別に、お前のせいじゃないつってんだろ」
 謝られるのは居心地が悪い。ましてや、相手に非が全てある訳でもないのに謝られるとなおさらだ。それなのに椿は顔を上げない。居心地の悪さに身じろぎして、結局耐えられなくなって椿の頭を軽く殴りつけた。
「うぜえっ。てめぇ顔上げろやぁ!」
「……あやちゃん、舌巻くとただの脅し」
「あ?」
 梨花に背中を叩かれ、思わず声を上げる。脅しのつもりは全くないが、多分他人が聞けばそう聞こえるのだろう。実際あやとチイの日常会話を聞いていた下級生が「怖い」ともらしたことが過去にある。正直ちょっと傷ついたが、口の悪さはいまさらどうしようもないので諦めていた。
 椿が、小さく笑っていた。顔を上げて、こちらを見ている。まだどことなく頼りなげな表情だが、幾分ほっとした。
「椿」
 声が割り込んでくる。顔を向けると、ベッド脇のカーテンを引いて、太蔵が顔を出していた。椿が立ち上がる。
「太蔵」
「騒ぐな。鬱陶しい。大したことはない」
「倒れたくせに」
 梨花がぼそりと呟く。太蔵が、一瞬口をつぐんだ後言い切った。
「不可抗力だ」
「いやまぁ、そうなんだろうけどさ……」
 望んで倒れる輩はいないだろうが、選ぶ言葉を間違えている気がした。太蔵が肩を落として、息を吐く。口では大丈夫だといっても、万全ではないのだろう。眼鏡をかけなおしながら歩いてくる太蔵は、普段の行動よりもずっとゆっくりだ。そのまま、どさりとソファに腰を落とす。
「井伊ちゃん、大丈夫なのか?」
「お前も意外と心配しいだな」
 あやの言葉に太蔵が苦笑した。井伊ちゃんでも笑うんだ、と間の抜けた感想が浮かぶ。
「大した事はない。ただ、八年ぶりだったからな、さすがに体が驚いたらしい」
「はちねんぶり?」
 唐突な数字に、あやは目を瞬かせた。「太蔵」椿が、硬い声で名を呼ぶ。それが、あまり触れられたくない事柄なのだと即座に判ってしまう声色だった。太蔵はしかし、椿のほうを振り向きもせず、動じない口調で続ける。
「犬のことだ」
「犬って、さっき、の」
「太蔵ッ!」
 叩きつけるような怒声に、保険室が静まり返る。ぞっとして、見上げた。
 椿が、青ざめた怒りの表情で太蔵を睨んでいた。一瞬、青い炎を思い出す。赤い炎よりも温度が高いと言う、静かな熱――
「言わないつもりか」
 青い炎を向けられても、太蔵は動じなかった。すっと静かに視線を合わせ、椿を見る。
「言わないつもりか。また隠すか。当事者に隠して、八年前、どうなった?」
「やめろ、太蔵」
 二人の口論に、あやはぎくりとする体を止められなかった。
 誰なのだろう、と思う。
 太蔵と向かい合って、怒りを露にしているこの男は、誰なのだろう。見たことがない。この保健室の住人はいつだってへらへらしていて、つかみ所がなくて、温和な笑みを浮かべていたはずだ。
 だとしたら、これは、誰だ?
「椿」
 太蔵はゆっくりとソファから立ち上がると、椿のそばに歩み寄る。机の上に活けられている百合の花を見下ろし、目を細めた。
「まだ、引きずってるのか。百合子のこと」
 百合子――?
 疑問を口にする間もなく、鈍い音と一緒に太蔵の体が床に打ち付けられた。眼鏡が床に跳ねる。椿が太蔵を殴りつけたのだと認識した途端、あやは反射的に椿の腕を引っ掴んでいた。
「一条ッ!? バカ、お前何やってんだよっ! やめろっ」
「引きずって、後悔して、また繰り返す気か」
 太蔵は倒れながらも椿を睨む。椿は腕を押さえられながらも、太蔵を蹴りつけた。鈍い音がする。頭の中から血が消えていくのを感じながら、あやは思いっきり息を吸い込んだ。最大音量で、怒鳴る。
「一条ッ!」
 びくんっ、と。
 押さえつけている腕が反応した。椿の顔に、表情が戻ってくる。それは驚きと、嫌悪と、後悔をぐちゃぐちゃにかき混ぜたような顔だった。椿の腕を放り出し、あやは床にうずくまっている太蔵へと体をかがめた。
「井伊ちゃん」
「いい、大丈夫だ。判ってたことだ」
 落ちた眼鏡をかけなおす太蔵の頬が、赤黒くなっていて痛々しい。椿は今さら自分がしたことを知ったように、視線を落としていた。
「あやちゃん」
 ぐっと腕を引っ張られる。梨花だ。梨花の顔から、表情が消えていて、あやはひくっと頬を引きつらせた。怖い。
 梨花はあやの手を握りなおして、冷たく吐き捨てる。
「ケンカも殴り合いも大いに結構。勝手にやればいいけどね」
 梨花の手が、椿の机にある花瓶に伸びた。あやの手を離すと挿してある百合を抜き、右手で花瓶を持ち上げる。そして――

 ばしゃんっ!

 派手な水音を立てて、花瓶の水が椿と太蔵にぶちまけられる。
 梨花は空になった花瓶を無造作に机に置いて、百合を片手に携えたまま腕を組んだ。
「全部、説明終えてからにして欲しいんだけどな」
 花瓶の水を頭から被った二人は、まさに鳩が豆鉄砲でも食らったかのような顔をしている。梨花の隣でぴくぴく痙攣する頬を持て余しながら、あやはしっかりと理解した。
 梨花は完全に、プチ切れていた。


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