第三章 :  絶対孤独主義  


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 あやは思わず、隣に座る梨花を見た。梨花は夕飯のメニューを聞かされた程度の表情しか浮かべていない。苦手なニンジンが大量に使われている料理と言われて、拗ねているような、そんな顔だ。視線だけで椿をうかがったが、彼はただ壁に背を預けたまままぶたを下ろしていた。眠っているような無表情だった。
「それ、って」
「俺も椿も、お前らも『異能力者』だってことだ。姉に関しては」
「勘だと思うよ」
 太蔵の言葉を、梨花が静かに受け取った。あやは梨花の横顔を見つめるが、梨花は相変わらず、嫌いなメニューを前した程度の変化しか浮かべていない。
「あやちゃんほど、梨花のはしっかりしたのじゃないから、力とかどうとか言われるほどのものじゃないって思ってるけど、ここに梨花もいるって事は、そう分類されるって事なのかな。ほら、梨花、勘いいって言ったでしょ? 自分で判ってるもん。普通じゃないくらいには、勘、いいってこと。井伊ちゃんも気づいたでしょ?」
「まぁな。多分それなんだろう。ESP……超感覚の一種だと思う」
 二人の間に何があったのかは判らないが、太蔵がしっかり納得していると言うことは、梨花の勘のよさが通常でないレベルの物なのは確かなようだ。ただ、あやにしてはやや不思議ではある。昔から勘が良いのは知っていたし、頼りにもしていたが、自分の『力』ほど具体的でない分、それが異常なものだとは感じたことがなかったのだ。それでも、ここに今いること、それが答えなのだろう。
「とにかく、俺がお前たちがそうだと知ったのはここに来てからだ。だが」
 天井を睨み上げ、唾棄するように太蔵が呟く。その口調に、いつになく苛立ちが滲んでいるのをあやは感じた。らしくないように、思える。言葉にこんなに感情が乗る太蔵を見たのは初めてだった。
 太蔵の視線が天井からすうと移動する。
「椿」
 壁にもたれかかったまま目を閉じていた椿に視線を止めると、太蔵は低く訊ねた。
「お前、知ってたな。前田ズがそうだと」
 知って、いた――?
 心臓が苦しいほど速く打ち始めていた。血液の流れる音が頭の芯で響いている。
 椿は一、二秒息を止めたように見えた。閉ざされていたまぶたが持ち上げられ、切れ長の深い色をした瞳が微かに覗く。今度は、逆だった。太蔵の言葉に普段感じられないほどの感情が乗っているのに対し、椿の目には何も浮かんでいない。
「知っていた、というか」
 声色もまた静かだった。
「あやちゃんは、もしかしたらって思っていたわ。梨花ちゃんまでいたのはさすがに予想外だったけれど、ね」
「何で」
 我知らず、言葉が口をついていた。
 椿の視線がこちらに向けられるのを感じて、目が合う前にあやは自分の手を見下ろした。微かに震えている。これも、怯える子ども、だ。
「もしかして、って、何でそんな」
「あやちゃん、今日コップ割ったでしょ?」
 ぎゅっと強く、指を折り込んだ。こぶしの中で縮こまっている限り、震えは少なくとも眼には見えない。まぶたの奥に、ガラスの煌きがちらつく。ベッドサイドに置かれた水の入ったコップは、手を伸ばした途端割れて使い物にならなくなった。
 手を伸ばしただけだ。
 あのコップは、落としてなんかいなかった――
「粉々だったでしょ、あれ。あの程度の高さから落としたがコップが、粉々になるって、不思議でね。普通ならせいぜい、何個かの大きな破片になる程度だと思ったのよ。それなのに、粉々で。しかも破片がサイドテーブルに乗っていて、水もそこから垂れていたわ。床に落としたならあんな割れ方はおかしいなって思ってね」
 ほんの少し前保健室で起きたことが、脳裏に映像として蘇ってくる。やけに手際よく片しながら、粉々ね、と呟いた椿。そうだ。彼はあの時、首を傾げていた。何かをいぶかるように、首を傾げていた。その後すぐ、集まった皆をあの場所から追い出して――
「そのとき、もしかしたら、とは思ったの。あやちゃんの症状も、ね。風邪にしては咳をしている様子もないし、鼻に来てる様子もない。それに、ごめんなさいね、おなかの調子が悪いとか、女の子の日とかで具合が悪いならさすがにプールには入らないでしょう? でも、入ってた」
 膝から力が抜けていくのが判った。椿の言葉を確かに耳に入れながら、あやは落ちるように椅子に座りなおした。あまり音は鳴らなかった。
「もちろんそういうのがなくても熱はあったし、熱がなくても具合が悪くなることってもちろんあるんだけど。ただ、ただ、ね。そういう症状に心当たりがあったのよ。……ねぇ、あやちゃん。もしかして、前からそうでしょう? 力が抑えきれなくなるときって、体調崩したりしなかった?」
 椿の言葉に、あやは答えなかった。代わりに、梨花が口を開く。
「うん、そうだよ。溜まるのかなって梨花は思ってる。壊さない日がずっと続くとね、なんか具合悪くなっちゃって、普段抑えられるような単純なことでも、抑えられなくなるんだって。溢れるみたいになるって。逆に言えば、力出しちゃえば、具合は良くなったりするの」
 あやは静かに、梨花の手を引いた。言わないで欲しかった。ばれるのは、怖い。
 人と違うことがあるのは仕方ないと思う。そんなもの、誰だってある。身長だって平均より高いし、そもそもこの学校はそんな連中が集っているような場所だ。だけど、これは別だった。知られたくないことだった。
 その事だって、梨花は知っているはずなのに。
 唇を噛んだ。けれど梨花は、こちらの合図に気付かないふりをしてきた。椿はそもそも、気付いていないのだろう。あやへの問いに梨花が答えたことに、目を瞬かせている。
「よく知ってるのね」
「梨花、あやちゃんのことなら何でも知ってるもん」
「梨花」
 低く、呼ぶ。それでも梨花は、こちらを見ようとしない。
「何でも知ってるよ。たとえば、そうだね」
「梨花」
「あやちゃんの」
「梨花」
「バストはな――」
「待てこらぁっ!」
 思わず違った意味で叫んでいた。
 椿も太蔵も、不意打ちを食らった猫のように目を丸くしている。
 梨花はと言うと、そっぽを向いて舌を出していた。子どもの頃から変わらない、いたずらを反省していないときの顔。その頬を、両手で挟んで押しつぶす。
「こーのーばーかーたーれーがーっ。関係ないことをーっ」
「ないのはあやちゃんのむ――」
「潰すぞこのいちごジャムパンめ」
「みぃーうー」
 ひとしきり押しつぶし終えてから手を離す。頬を押さえた梨花が上目遣いで睨んできた。
「睨むなっ。大体お前は、こんなときに意味判んないこと言い出してっ」
「だってあやちゃん、マジで落ちすぎ」
 拗ねた口調で言われて、あやは思わず言葉を呑んでいた。梨花が小さく笑う。
「梨花、あやちゃんのこと何でも知ってるよ。あやちゃんの、皆と違う『それ』もね。でも、梨花、あやちゃん大好きだよ」
「梨……」
「そのことであやちゃんを否定したりなんて、死んでもしないよ。井伊ちゃんにも椿ちゃんにも、させない」
 梨花が、真剣な眼差しを椿たちにそそいだ。
「しないよね?」
 確認と言うよりは強制のような響きの言葉に、椿と太蔵は互いに顔を見合わせ、それから椿が小さく苦笑した。
「するはずないわ」
「うん。だからね。あやちゃん、そんなに落ちなくていいと思うの、梨花」
 にこりと微笑まれ、あやはゆるく苦笑した。いつも、梨花には迷惑をかけていると思う。
「ありがとな、梨花」
「いいえー」
 椿が組んでいた腕を解いた。湿気で曇っている窓ガラスに手をかけ、指を滑らせる。
「それで、確信したわけじゃなかったのよ。ただ、貴女を教室に帰してすぐに地震があって、それで空間がずらされて。……最初はね、アタシたちがらみかと思ったのよ」
「一条たちがらみ?」
 思わず目を瞬かせると、椿は肩をすくめた。
「後で話すけど、ちょっと心当たりがあるのよ」
「二人って、その……変な力、あるんだよな」
「ええ、まぁね」
「互いにそういうのがあるって、知ってたのか?」
「ええ、お互いにね。最初に知り合ったのは、こっち関連で、だったから。腐れ縁って言ったでしょ? 高校が同じ、なんだけど、知り合ったのは中坊時代にまで遡っちゃうのよ」
 そう言って椿が笑った。楽しげな苦笑は、今までみたことがないほど素直に見えた。思わず、視線が持っていかれる。
 けれど笑みは長くは続かず、すぐに薄れた。椿が、苦い吐息を漏らす。
「ただ、タイミングがあれだったからね。もしかしたら。もしかしたら、あやちゃんが関係しているのかしら、って」
「それが丁度、保健室に用事があって俺が立ち寄っていたときでな。椿が、お前がいるかもしれないって言いだしたもんだから、探しに行ったわけだ」
「あ。そっか。だからあんな早く見つけてくれたんだ」
 太蔵の補足に、梨花が納得したように呟く。確かに、と今さらながらあやは思い返す。人がいなくなって、かなり早い段階で見つけてもらえた。花総の校内は、実習棟である新館も含めればかなり広い。その中で、あの早さで見つけてもらえたのはそういう裏があったかららしい。
 太蔵が、ぱんと両手を打った。
「まぁ、なんかダラダラ説明したが、木戸たちがいない理由はとりあえず判ったか?」
「……ああ、最初は確かそんなとこからだったっけ……」
「結論を言えば、異能力者だけが存在できる空間にずらされたから、ということだな」
「了解」
 頷いてから、ふとあやは眉を寄せた。太蔵が怪訝そうな顔をする。
「何だ」
「や、あのさ。その、井伊ちゃんさっき倒れたばっかなのに、べらべら喋り倒してくれてるからさ、大丈夫なんかなと」
「心配してるのかバカにしてるのか、どっちだそれは」
「心配のつもり」
 あやの答えに、太蔵はがりがりと頭をかいた。
「心配するな。さっきも言ったが、八年ぶりに使ったから体が驚いただけだ」
「待った。……使ったって、犬?」
「そうだ」
 太蔵が頷く。あの時、ナイフを体で落としてくれた犬だろう。漆黒の、生きた気配のしない奇妙な犬を思い出し、あやは微かに身を震わせた。少し、恐怖を思い出す。
「あれ、井伊ちゃんがやったのか?」
「そうだ」
「井伊ちゃんの飼い犬?」
「アホか。力だ」
 呆れた顔を向けられ、あやは眉を寄せた。梨花と顔をあわせるが、梨花もまた首を傾げているだけだ。
「あれ、何だったんだ?」
 端的な質問に、太蔵は少しだけ考えるそぶりを見せた。ゆっくり窓際に移動して――体の前で手を組んだ。
 左手を出して、そこに右手を重ねる。あやは太蔵の手を見つめる。子どもの頃遊んだ影絵を思い出す。あの頃は手で蝶やら蟹やらを作ったが、太蔵の手は今、犬の形をしている。
 窓からのわずかな光で床に犬の影が出来る。太蔵は影絵を見下ろしながら、左手の小指を上下に動かした。無表情に、呟く。
「わん」
「ぼけるな」
「ぼけてない」
「素ぼけかよっ」
「ぼけてない」
 説得力のないことを言い切ると、太蔵はゆっくりと手を解いた。
「俺の力は、これだ」
「わん……」
「別に蝶でも出来る。《影絵》……シャドウだ」
 カツっと高い音を立てて、黒板に単語が刻まれる。影――shadow。その英単語を見てあやに出来たのは、ただぽかんと口を開けることだけだった。
「お前の能力の変種版、と考えれば判りやすいか。物体、生体問わず、出来た『影』に質量を持たせて、具現化させる。かつそれを任意で操る。それが俺の力だ」
「だって言われても。ンなの」
「不可能だ、と言いたいのか? だが、お前の力だって一般的に見れば不可能だろう」
 そう言われては、どうしようもない。言葉に詰まって、あやはただ太蔵を見つめた。実際、太蔵の言うとおりだろう。手を触れずに物を破壊することなんて、飛び道具か科学道具か、そんなものでも使わない限り不可能に決まっている。理論的じゃない。だが実際、あやは出来てしまう。梨花だってそうだ。テストの山勘がよくあたるとか、ありそうなレベルのことばかりだけれど、当たる率が並じゃない。並でないと言うことは、普通でないと言うことだ。
「だが、お前と違って俺の力は蓄積されない。椿もそうだがな。あふれそうな力を発散させれば体調はマシになるだろうし、使ったところで不調をきたすこともないだろうが、蓄積されない力を、あるいは蓄積される力にしても、蓄積されてない状態で力を使えば、ひねり出すことになる。そうすれば体に負担がかかるんだ。……たとえがアレだが、気持ち悪くなったときに吐けばマシになるだろう。だが、何もないときに吐けば胃液が喉を焼くだけだ。判るか?」
「なんとなく、は」
 あいまいに頷く。
「お前のは吐いてマシになった状態。俺は、吐き気もないのに無理やり吐いて喉を痛めた状態、だな。だから倒れた。八年前まではそれでも何度か使っていたから体が慣れていたんだが、さすがに久しぶりすぎてな。そもそも俺の力は粒子量を変化させて質量をともなわせて……っていったって判らんだろうが、普通の異能力以上に、使い勝手が悪いんだ」
「なのに、使ったのか」
「咄嗟だった」
 無表情に太蔵が頷く。咄嗟に――助けてくれた、のだろう。使うと体に負担がかかることを判っていながら。感謝を述べようと思って太蔵を見返すが、口ではどうにも恥ずかしくていえないので視線で訴えてみる。悪かったな。悪かったな。伝われ。
「何故睨む」
 怪訝な顔で太蔵がうめいて、あやはそっぽを向いた。伝わらないもんだな、と改めて思う。
「しつもーん」
 不意に隣で梨花が手を上げた。
「何だ、姉」
「椿ちゃんは? どんな力?」
 梨花の言葉に、椿の顔から一瞬表情が消えた。無表情、と言うにもためらわれるほど、何も浮かんでいない顔。それにゆっくりと、自嘲めいた笑みが滲んでいく。
「ナイショよ」
「えー」
「言ったって、どうせ意味ないのよ。アタシは、もう二度と力は使わないと決めてるの」
 結局その後梨花が何度言っても椿は頑として口を開かず、曖昧に微笑むだけだった。珍しく梨花の根負け、と言う結果で落ち着き、ふくれっ面の梨花がそれでももう一度手を上げる。
「あやちゃん襲ったのは、誰?」
 端的な質問に、あやの心臓が思わず縮む。梨花の眼差しは親の仇でも見るかのようにきつくなっていた。
 太蔵がふっと視線を椿へ流す。数秒、男二人の視線が絡まった。ゆっくり椿が立ち上がり、太蔵と場所を代わる。今度はどうやら、椿が説明するほうがいいもの、らしい。
 椿は少しだけ迷うそぶりを見せた後、チョークを手に取った。ゆっくりと、ひとつの単語を黒板に書く。
 ――die Welt
「……ダイ・ウェルト?」
 無理やりそのまま読むと、椿がゆるく首を左右に振った。
「ディ・ヴェルト。英語じゃないの。ドイツ語よ」
「は?」
「ディ・ヴェルト。……【世 界】。それが、あなたを狙ってる正体よ」
 突拍子もない単語に、あやはただただ呆然とするだけだった。


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