第三章 :  絶対孤独主義  


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【世 界】ディ・ヴェルトは判りやすく言えば、アタシや貴女たちみたいな『異能力者』が集まっている組織でね。発端は中世にまで遡るの。もともとは、所謂中世ヨーロッパの魔女狩り被害を免れるための組織だったのよ。魔女、なんてはっきりしたものじゃなくても、他と違う力があればすぐに魔女裁判にかけられた時代に、お互いがお互いを守って匿って……っていう。ようは日本で言う江戸時代の隠れキリシタンなノリかしら」
 椿のゆっくりとした説明に、今度は歴史かよと思わず眉が寄る。しかし椿は、こちらを見ているようで見ていない、ガラスのような瞳でただ黙々と語るだけだ。語りたくないことを、とりあえず再生するみたいに。
「今はアメリカなんかは超能力の研究も活発に行われているから、さほど扱いは酷くないのだけれど、それでも良しとしない人はいるわね。特に日本なんかは、それが強いから。もともとはヨーロッパ……ドイツで作られた組織だけど、時代とともにゆっくり組織の活動範囲も広がって、組織自体も大分様変わりしているらしいわ。今は、そうね」
 ふっと短い吐息が聞こえた。ガラスのような椿の目は、窓の外、まだ降り続くしつこいまでの雨に向けられている。
「異能力者の監視、が主ね」
「監視って?」
 梨花が不服そうな顔のまま低く呟く。
「そのままよ。異能力者は、一部を除いて力を制御できるとは言えないのよ。あやちゃんも梨花ちゃんも、そうでしょ。潜在的に異能力を持っている人間は少なくないわ。だけど、稀に大きな力を持つ人が出て来る。あやちゃんも、そうね。そうすると、能力を暴走させることが起き得る。もし、異能力者が力を暴走させたら、何が起きると思う?」
 何故だろう。
 あやは椿の言葉を耳に入れながら、胸中で呟いた。何故だろうか。
 椿の口調には何か、哀愁のような響きが混じっている気がした。
「周りの人間が……異能力者を、糾弾するかも、しれないでしょう? 下手すれば、魔女狩りの再来なんてことにもなりかねない」
 その言葉に、思わずあやは唇を噛んだ。それほど大きい事は判らない。でも少しだけ判る。人は、他と違う人を嫌悪する。日常から排除しようとする。それは、事実だと知っている。
「だから、力の強い異能力者は出来るだけ【世 界】に取り込もうとするのよ。【世 界】で制御を覚えさせようとする。組織に入らない異能力者、『異端』と呼ぶのだけれど、それらは常に監視する。制御できているか、力がそう強くないなら監視だけですむけれど、そうでない異端は、組織へ勧誘するか、排除しようとする」
「排除……って」
 人間に対する言葉ではない気がして、思わず声が上ずる。椿がゆっくりと目を伏せた。頬にわずかな影がおちるのが見える。
「二通り。催眠をかけて力を使わないようにさせるか、本人がそれを拒んだ場合は、言葉どおり、排除」
 一度、椿が唇をなめた。言いにくい言葉を吐き出すように、聞こえるか聞こえないかと言う程度に絞られたボリュームのうめきが、あやの耳に届いてくる。
「殺すのよ」
 耳鳴りがした。
 椿はただ立ち尽くしていることに耐えられなくなったかのように、ゆっくりと教室を歩き出す。その姿を目で追うこともなく、あやは机の木の模様だけを視線でなぞっていた。耳鳴りの向こうで、椿の声がする。
「太蔵ちゃんとの出会いは、その関係でね。アタシはもともと組織に属していて。太蔵ちゃんの力が判った時点で『勧誘』したのよ。太蔵ちゃんはそれで【世 界】のメンバーになって、一時期アタシと一緒に組織がらみの仕事をしていたわけ。腐れ縁、よ」
 にこりと椿が笑む。ただ、あやにとってはその笑顔がどうしても偽物に見えた。
「そのうっさんくさい【世 界】とかが、あやちゃんを襲ったってわけ?」
 険のある梨花の言葉に、椿が肩をすくめる。
「そうなるわね。多分、あやちゃんの力を確認したんでしょうね。どのくらいの大きさか、どんなものか」
「そのきっかけは、あの地震か?」
 するりと、唇から言葉が滑り出る。机を見下ろしたまま、あやは乾いた唇を一度舐めた。
「そう、ね。あれをきっかけとして、【世 界】の人間が空間をずらした」
 椿の言葉に、目を閉じる。体の中を流れる血の音を確かに耳にしながら、あやはゆっくりと顔を上げた。椿を正面から見据え、告げる。
「あの地震は、あたしのせいか?」
 椿はじっとこちらを見据える。切れ長の目が暗く翳っていた。
「ええ、そうよ。貴女の力の暴走による、騒がしい幽霊ポルター・ガイスト現象。もっとも、心霊現象というよりは、超常現象ね。よくあることでは、あるけれど」
「もういい」
 説明をしようとした椿を遮り、あやは立ち上がった。梨花が見上げてくるのが判ったが、そちらを見やる余裕もなかった。
 この異常な状況の原因は、結局、自分なのだ。
 その事実だけが、重く胃に沈む。
 何度か唇を開いて、音を出そうと試みる。震えないのを確かめてから、あやは告げた。
「ひとりになりたい」
 呟くと同時に、チャイムが響いた。



 雨は霧のように姿を変えていて、しっとりと肌を湿らせた。
 今年出来たばかりの新実習棟は真新しい。屋上にもまだ新しい匂いが残っている。ただ今は、雨が纏う埃の匂いにかき消されてはいたけれど。
 あやは屋上のドアに背を預け、薄暗く沈んだ空を見上げていた。霧雨は時折吹く風に流されて全身を濡らすので、少しばかり出っ張っている程度の屋根では防ぎようもないが、今はその湿り気がやさしく感じた。
「あやちゃん、ごめんね」
 ふいに隣から声をかけられ、あやは目を瞬かせた。
 梨花が体育座りをしながら、こちらを見上げている。
「何が?」
「だってあやちゃん、ひとりになりたいって言ったのに結局梨花一緒だからさ」
 その言葉に、あやはふっと笑みを漏らしていた。腕を回し、小柄な梨花の体を引き寄せる。
「バーカ。梨花が言いくるめてくれなかったら、あいつらとも離れられなかっただろ?」
「そーだけど」
「それに、梨花なら一緒でも関係ないよ。ひとりでいるのとそう変わらない」
 梨花がようやく小さな笑みを見せた。少しだけ安堵が胸を満たす。梨花の小さな頭を軽くニ、三度叩いた。実際、梨花が椿と太蔵を言いくるめてくれなかったら、今こうして二人きりにすらなれなかっただろう。椿も太蔵も、今のこの状況で離れることを良しとしなかった。「ひとりになりたい」と言っても、全力で拒否されたのだ。あやにだって、二人の言い分は判る。実際、椿から離れてひとりになった途端、あんなことが起きているのだ。
 それでも、あの場にいることに耐えられなかった。
 その気持ちを汲んでくれた梨花が、二人を説得した。ひとりじゃ駄目だというなら、梨花が一緒に行くから。それでも二人は良しとしなかったが、結局三十分近い口論の末、椿と太蔵が折れた。梨花が食い下がってなければ、あやのほうが折れていただろうと思う。
 今、あやと梨花は新実習棟の屋上に、椿と太蔵の二人は、屋上に続く階段のところにいる。完全にひとりになれたわけでもないが、鉄のドア一枚でもずいぶん違った。外の空気は、肺にも優しい。
「梨花、ごめんな」
「何であやちゃんが謝るの?」
「あたしのせいかなとは思ってたんだ。もしかしたらって。やっぱり、あたしのせいだったみたいだな」
 見上げてくる梨花の顔から、表情がぬけて行く。それを見下ろしながら、あやは苦労して頬に小さな笑みを浮かべた。
「こんな訳判んない状況に巻き込んでさ。ごめん」
 椿と太蔵に対して思うところもある。ただそれ以上に、申し訳ないと思うのはやはり梨花に対してだった。小さい頃からずっと一緒にすごしてきた、同い年の従姉。彼女をこんなことに巻き込んでいるということが、原因は自分にあったと言うことが、心苦しい。
 梨花はしばらくこちらの顔を見上げてきて、それから唐突にあやの頬に軽いキスを残した。
 ぎょっとして、見やる。キスをされた右頬を押さえて、あやは目を瞬かせながら梨花を見下ろした。梨花はと言うと、にこりと笑みを浮かべている。
「あやちゃんのバカ。梨花、うれしいよ。あやちゃんと一緒にいれて、うれしい。だって、一緒なら、あやちゃん守れるでしょ?」
 梨花の手が腕に触れてきた。そこが少し、熱を持った気がした。とくとくと、血が流れている音が聞こえる。
「大丈夫だよ、あやちゃん。あやちゃんは何があっても、梨花が守るから」
 そう言って強く笑む従姉を見下ろして、あやはゆっくり抱き寄せた。



 雨はいつの間にか霧雨に変わったようで、音もなくただ空気を濡らし続けている。
 屋上に続くドアのガラス部分には、微かな水滴が増えていくだけだ。目に見えての変化はそれだけで、屋上へ続く短い階段の風景は静まり返っていた。音も何もない。
 太蔵は腰を下ろした階段の縁を指でなぞってから、音を漏らさないように息を吐いた。肩越しに、隣、二段上に腰掛けている椿を見やる。少しばかり見上げる形になる。椿は視線を落としたまま微動だにしない。前田姉妹が屋上へ上がってから暫くは経ったが、その間一度も口を開かない。それどころか、動きもせずこの姿勢のままだ。
 もう一度漏れかけたため息を飲み込んで、太蔵はポケットを探った。潰れかけたソフトケースの煙草を取り出す。星と数字がデザインされた箱の口を軽く叩いて、飛び出た一本を咥えた。ジッポで火をつけて、ゆっくり吸う。棘のある苦味が、口内に広がった。紫煙がゆるく、天井へと上がっていく。
 煙を見上げていると、ふいに視界に手が伸びてきた。白衣の袖に、何故か刺々しいリストバンドがはめられた手。
「やめたんじゃなかったのか?」
 もう一口吸い上げてから、呟く。箱とジッポを手渡すと、隣でもうひとつ紫煙が上がった。
 久しぶりだな、と思う。太蔵自身も最近はあまり吸わなくなっていたが、椿はほとんどやめたようなものだった。最後に吸っていたのはいつだろう、と考える。少なくとも、就職してからは見ていない。あの頃は、自分も椿も、毎日吸っていたものだったが。
 あまり吸わないが、時折ふいに吸いたくなることがある。念のために、とポケットにはいつもセブンスターと携帯灰皿とジッポは待機させていたが、実際使う日が――しかもよりにもよって校舎内で、だ――来るとは思っていなかった。長く伸びた灰を灰皿に落として、煙を吐いた。椿が、低く呟いてくる。
「不味い」
「知るか。俺はセッター一筋だ」
「ラッキーにしろよ」
「するか」
 短い会話に、既視感が湧き上がってくる。今の椿の姿は、少なくとも生徒には見せられないなと改めて思った。少なくともここにいるのは、保健室で笑っている、生徒に人気の『椿ちゃん』ではない。太蔵がよく知る――知っていた―― 一条椿だ。
 視線を椿にやる。気づいたらしい椿が、微苦笑を浮かべていた。渡した灰皿は、少しだけ灰が増えて戻ってきた。また少し、無言になる。煙が二つ、あがっていく。
「太蔵」
 名前を呼ばれて、けれど太蔵は椿のほうを見なかった。その声音が震えていることに気付いたから、振り向けなかった。フィルタを軽く噛んで、目を閉じた。
「俺は、守れると思うか?」
 あいつらを。
 思いを吐き出すときに限って言葉が短くなるのは、椿の昔からの癖だ。腐れ縁ともなると、足りない言葉でも何を指しているかは判るようになってくる。だからこそ、太蔵は言葉を噤んだ。まだ長さが残っていた煙草を、携帯灰皿に押し付けてもみ消す。
「椿。まだ引きずってるのか、百合子のこと」
 ついさっき口にして殴られた台詞を、もう一度言葉にした。顔を上げ、椿を見る。椿はやはり先刻と同じように、険しい目つきでこちらを睨んでいた。その視線を正面から受け止めて、太蔵はゆっくり考えをめぐらせる。
 椿の気持ちが、全く判らないわけではない。むしろ、よく判る。確かに、似ているのだ。
 意思の強そうな目も、夜を閉じ込めたかのような滑らかな髪も、よく回る口も、時折はっとするほど、あの口の悪い生徒は、彼女とよく似ている。
 椿の視線を受け止めながら、太蔵はまだ煙草の味が残る唇を意識しながら、告げた。
「お前が、百合子を忘れられないのは判る。俺にとっても、お前にとっても、あいつの存在はでかすぎるんだ。だがな」
 今でも鮮やかに思い出せる。三人でビールを呷った夜を。ふざけて忍び込んだ廃ビルの空気を。校舎に響いた彼女のよく通る笑い声を。柔和に笑んだ夜空の目を。そしてあの日、もういやだと泣き崩れた彼女の涙をも。
 全て。八年前の全てを、モノクロームの鮮やかさで思い出せる。
 それでも、それは過去でしかない。椿が見ているのは過去でしかない。全て八年前の幻影だ。それが判っていたからこそ、このおろかな悪友を傷つけると判っていながら、太蔵はあえて口を開いた。
「椿。前田は、百合子の代わりじゃないぞ」
 殴られるのは覚悟していた。
 力ではないが、この言葉は暴力に等しい残酷さを伴っていると自覚していた。だが、暫く待っても、怒声も拳も飛んでこなかった。椿は目を閉じ、本人は好きではないはずの煙草を味わっている。やがて、長くなった灰が落ちる寸前に、こちらの手から携帯灰皿を奪うと、煙草をそれに押し付けた。ゆっくり、目が開けられる。
「いくら太蔵ちゃん・・・でも、それ以上言ったら、怒るわよ・・
 緩やかに笑む椿に、太蔵は目を伏せた。鼓動が、早まっている。
 おろかなのは、椿ではない。自分だ。そのことに、今さら、気付く。
 前田あやというあの気の強い生徒を通じて百合子を見ていることを、椿自身が気付いていないわけがないのだ。ましてや椿は、そのことに自分で気付きながら、そのことをおそらく誰よりも嫌悪している。そんな事は、見ていれば判ることだ。判らなかったのは、太蔵自身、自覚がないままに動転していた証拠だろう。その事にすら気付かず、説教じみた台詞を掃いた数秒前の自分に、唾棄したいほどの嫌悪が沸いた。
 そうだ。何も椿だけの問題じゃない。
 胸中で苦く呻く。その苦味は決して、久しぶりに口にした煙草のものだけではなかった。
 俺にとっても、百合子の残したものはでかすぎるんだ――
「太蔵ちゃん」
 呼びかけられて、顔を上げた。椿はいつの間にか立ち上がり、こちらを見下ろしていた。
「ちょっと、あやちゃんと話をしてくるわ」
 微笑み、屋上へのドアを開けて椿が歩いていく。白衣の背中を見送りながら、太蔵の頭に一瞬番犬のような梨花の姿が思い浮かんだ。あの姉をどうするつもりだろうか、と少しだけ疑問が浮かぶ。疑問は届かないまま、重いドアは重い音を残して閉じられた。
 椿の姿が消えてから暫くはドアに何も変化がなく、手持ち無沙汰になってもう一本、太蔵は煙草を消費した。二本目の煙草をもみ消すとほぼ同時にドアが開いて、不機嫌顔の前田梨花がひとり、姿を現した。
「……煙草臭い」
「悪かったな」
 むすっと頬を膨らませたまま、梨花は太蔵の隣に勢いよく腰を下ろす。
「えらく不機嫌だな」
「当たり前だよっ。椿ちゃんってばあやちゃんひとり占めーっ」
 駄々をこねる幼子のように、梨花はひとしきり足をばたばたと踏み鳴らすと、驚くほどの唐突さでぴたりと止めた。うつむく。
「前田?」
「あやちゃん泣かせたら、容赦しないんだから」
 低い声でポツリと呟かれ、太蔵は天井を仰いだ。悪友の身を心配したくなる。
「お前は本当に妹大好きだな……」
「とーぜんだよ。今さらだよ。好きだよ。ちょー好き。最高愛してる。あー、もうっ、日本って何で女同士で結婚できないんだろーっ。従姉妹だから血縁的にはクリアしてるのにーっ」
「どこから突っ込めばいいか判らんボケ方をしないでくれ」
「何言ってんの。梨花は本気だよっ」
「なお悪い」
 言い切ると、梨花に軽く背中を殴られた。ずれた眼鏡を直すと、梨花は険しい目つきで屋上へのドアを睨んでいる。
「そんなに睨むな。椿だって別に悪いようにはしないだろう」
「だって今の椿ちゃん、あやちゃん見てないじゃない」
 さらりと梨花の口から滑り出た言葉に、太蔵は思わず目を見開いていた。こちらの変化に気づいているのか否か、ただじっと扉を睨んだままだ。
「あやちゃん通して、別の誰か見てるじゃない」
 静かな梨花の言葉に、太蔵はもう一度天井を仰いだ。蛍光灯が切れかけているのか、ちかちかと何度か明滅する。
「それも、勘、か?」
 少しの沈黙の後そう切り出すと、梨花は静かに首を左右に振った。視線はいまだ、扉に――おそらく正確には扉の向こうに――向けられている。
「別に。勘になんて頼らなくても、見てれば判るよ」
「そうか」
 梨花がすっと視線を下げた。制服のスカートの上に置かれた自分の爪を見下ろして、こちらに届く程度の小さな声で囁いてくる。
「椿ちゃんが見てるのは、誰なの?」
 その言葉に、太蔵は目を閉じた。屋上へのドアも視界から追いやり、小さな声で答える。
「日野百合子」
 保健室で、いまだにずっと揺れているあの白い花が、まぶたの裏に蘇る。あの頃の日々も、脳裏に蘇ってくる。
「椿の、昔の女だ」


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