第四章 :  百合の残り香  


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「あやちゃんっ」
 慌てたように駆け寄ってきた梨花を、片手で抱き寄せた。ふわふわとした柔らかい髪に顔を埋めると、いつもの、甘い香りがした。フィオルッチの香水。吸い込むと、少しだけ気持ちが緩む。いつもの匂い。それは、つまり、日常の香りだ。
「梨花。怖いよ」
 囁きが、漏れた。椿も太蔵も、アレクやあの女もいない場所で、梨花と二人きりになって、本音を隠しきれなくなった。強がることは、出来る。男前なふりだって、出来る。だけど本音を変えることは、出来なかった。
「あやちゃん」
 梨花は、本音を見せられる唯一の相手だ。今さら両親に甘えることなんて恥ずかしくて出来ないし、チイたちにこんな弱い姿は見せたくない。椿や太蔵なんて、なおさらだ。梨花はそれを判ってくれているのだろう。ゆっくり、背中に手を回してくれた。
 体温が、あたたかかった。壁掛け時計の音が、今は内耳にやさしい。暫くじっとしていると、チャイムが響いた。空間はずれても、時間は進んでいる。今日、この状況に陥ってから何度目かのチャイムだ。時計は二時二十分を指していた。六時間目が始まる時間だ。この空間にずらされてから二時間ほど経ったことになる。もう、なのか、まだ、なのか。あやにはどちらとも判別つけられなかった。
 梨花が、ふいに微かに笑った。
「ねぇあやちゃん。覚えてる? 前にもこんなこと、あったね」
 梨花の言葉に、ふっとあやも小さく笑みを浮かべた。少しだけ身を離して、傍の机にもたれかかって口の端を緩める。
「小五の夏休み」
「あ、覚えてた」
「当たり前だろ。あん時も梨花がいてくれたな」
「うん」
 梨花と顔を見合わせて笑いあった。懐かしい記憶の共有は、この状況に不似合いで、だからこそ優しい。
「プール行くの、急にヤになって」
 あの夏のことを思い出しながら告げると、梨花が笑みを浮かべたまま言葉尻を繋いだ。
「校舎に忍び込んで」
「二人でずっと一緒にいて」
「でも、杉山たちに見つかった」
「そーだったな」
 昔、あやが学校嫌いだった原因のグループにいた男子の名前だ。執拗に絡まれていた。いまはもう顔も曖昧にしか覚えてはいないが、不快感も悔しさも忘れられるものではない。
「杉山たち、追いかけてきやがって。そんで今みたいに、逃げたな」
「うん」
 夏休み。人気のない校舎の中を、からかうように追い詰めてくる男子グループから逃げた。ちょうど今みたいに、上履きだったけれど靴音が静かな校舎に響いて、バレやしないかとドキドキしながら、掃除道具入れの隅に身を寄せた。
 特に何かをした記憶はない。ただ、彼らはうっすらと気づいていたのだろう。あやの時折癇癪を起こすと同時に物を壊す癖を。梨花の、奇妙なほどにいい勘を。それを不気味がっていて、けれど遠巻きに見つめるのではなく、からかって遊んでいた。遊んでいただけなのだろう。彼らにしては。それでも、悔しくて、それから、怖くて。
「あいつら、鬼ごっこか何かのつもりだったんだろうな」
 呟き、あやは梨花を強く抱き寄せた。甘いフィオルッチの香りが、あの頃から数年は経っているということを確かに教えてくれて、それが少しだけ安堵を呼ぶ。
「あやちゃん」
「でも、怖かった」
「……うん」
 梨花が頷く。少しだけ、目を伏せた。ただの鬼ごっこのつもりだったのだろう。見つけたら一点。追い詰めたら三点。泣かせたら五点。月ごとに合計して遊んでいたのを、あやは知っている。相手にとってはただの遊び。だけど、遊びの『道具』にされたほうにとっては、ただの恐怖でしかない。
「今も同じだ。あいつ……アレクもさ。すげぇ楽しそうにさ、あたしを」
 手が、震えた。言葉が詰まる。笑っていたあの少年の顔を思い出す。梨花が、強く手を握ってきた。息を吐く。
「一条が守ってくれなかったら、あれ、あたしに刺さってたよな」
 椿の肩に突き立っていた一本のダーツ。あれはアレクが投げたものだろう。椿が庇ってくれたのだ。そうでなければ、あやに刺さっていた。椿だったから肩だったものの、椿とあやの間には十センチの身長差がある。自分だったら――そう考えるだけで、怖い。
 アレクがあやに向けたもの。あれは、悪意だ。害をなそうとする直接的な意思だ。日常の中で、あれほど純粋な悪意を向けられることなんてない。あれは悪意と言うにはあまりに異物に歪んだ、残酷な、殺意に似た何かだった。
「すげぇ、怖い」
 震える声を抑えられなかった。梨花の手がもう一度背中に回る。トントン。軽く叩かれる。
「大丈夫だよ、あやちゃん。あやちゃんは何があっても、梨花が守るから」
 その言葉に、あやは小さく笑った。体を少しだけ離して、梨花の丸い頬を突付く。
「二回目」
 同じ台詞をついさっき言ったばかりだと梨花自身気づいたのだろう。梨花もまた、声を上げて小さく笑った。笑い声を合図に、息を長く吐いた。ずっと蹲っていたって、何も解決しない。自らの頬を一度強く叩いて、立ち上がる。足は少し震えたが、立つことが出来た。立てれば、歩ければ、前を向ければ、事態はどうとでも転がっていく。高校入試を終えて、あやが学んだひとつだ。事態を転がすためには、蹲っていてはいけない。たとえそれが、他人から見て逃げだとしても、自分で選んだ道なら、ただの逃げじゃない。状況が大きく違えど、今だって同じだろう。蹲っているより、立ち上がって考えないといけない。
 梨花にはあやの考えが伝わったのだろう。立ち上がるあやを、柔らかな笑みで見守ってくれた。自分は動ける。けれど、心配もあった。立ち上がりながら、不安を口にする。
「一条たち、大丈夫かな」
 血は流れていなかったが、それは単純にダーツが刺さったままだったから、だろう。血が流れていないことで悲惨さは目に見えて判るものではなかったが、それでも怪我をしたことは事実だ。あのまま、逃げてきた。無事だろうかと心配になる。
 しかし、梨花は何故か面白くなさそうに顔を膨らませた。いつもの風船顔のまま、拗ねたように呟いてくる。
「井伊ちゃんたち?」
「あ? そう。一条たち」
 頷くと、何故か梨花の顔がまた膨れていく。よく判らなくて怪訝な顔をしてみるが、梨花はむぅと呻いて唇を突き出した。
「……井伊ちゃんたちなら、大丈夫だと思うよ。だから梨花たち逃がしたんだろうし」
「逃がしてどうするつもりだったんだろ」
「やっつけちゃうつもりでしょ。梨花たちがいないほうが都合いいとかじゃない?」
「やっつけ……」
 漫画じみた言葉に、思わず絶句した。漫画なら、きらんとお星様になって今週が終わって、来週になってまた出てくるかもしれないが、そんなものじゃないだろう。その言葉が持つ真実を脳裏に思い描いてしまい、口が開かなくなった。こちらの様子を見て取った梨花が、一瞬困ったような顔をみせた。
「方法は、知らないけど」
 ――やっつける、がイコール殺す、とは限らない。当たり前だが、教師のそんなところは想像したくない。いくら相手があれだとしても、想像して気持ちいいものでもない。あやは小さく息を吐いて同意した。
「そうだな」
「それに、二人とも強そうだし」
「勘か?」
「うん」
「なら信じるよ」
 梨花の頭を軽く撫でる。不安がないと言えば嘘になる。だけど今、ただ心配したところでどうしようもない。自分が出来ることをするだけだ。ひとつは、梨花を信じること。ひとつは、椿や太蔵を信じること。それから。
「暫くここに隠れるにしても、とりあえず対策練るか」
「対策?」
「ん」
 頷いて、見渡す。さっきも見たが、やはり教室は理科室によく似ていた。ガスバーナー。顕微鏡。ビーカー。フラスコ。試験管。見覚えのある実験機材がたくさん置いてある。
「梨花、ビーカーとかフラスコとか試験管とか、ガラス類集めて」
「う?」
 立ち上がりかけていた梨花が、きょとんと目を丸くさせた。梨花の手を引いて立たせながら、あやは苦笑を浮かべる。
「さっきの、さ。自分の意思だったの」
「あや、ちゃん」
 こっちの言わんとすることを察したのだろう。梨花の顔から、すっと表情が抜けていく。幼い面立ちには、不安げな色だけが僅かに残った。
「そこまで具体的じゃないけどさ。来るなって強く思ったんだ。そしたら、割れた。今までそんなこと、いくら考えても出来なかったしやろうとも思わなかったのにな」
「あやちゃん……」
「そんな顔すんなよ」
 不安そうに見上げてくる梨花の頬を両手で挟んで、あやは小さく笑った。
「別にそれで、ラッキー便利な力――って思ってるわけじゃないよ。たださ。今嫌だ嫌だ言ってても、現状こうなってるのは変えられないし、だったら、利用出来そうなら利用するさ」
 まだ複雑な顔の梨花の頭を軽く撫でる。
「梨花、さっきあたしのこと守ってくれるって言っただろ? それと同じ。あたしも、梨花を守りたいの」
 その一言に、梨花の顔に浮かんでいた不安の色が溶けていく。顔を赤くしてふるふる震える様は、うさぎに似ていた。たぶん、嬉しがっている、のだろう。
「あやちゃん大好きー!」
 案の定飛びついてきた梨花の背中を撫で、あやは小さく笑い声を立てた。梨花が傍にいるだけで、この状況に耐えられる自分を改めて自覚する。
「さっきから、割れたのって窓に電灯にって、ガラス類ばっかだろ。割れやすいものが近くにあるほうが、使いやすいのかって思ってさ」
「だから、ビーカーとかフラスコ?」
「そ。この部屋入ってきたら割れるようにしよう。出来るかどうかは判んないけど、まぁ、賭けだな。時間稼げば準備室から逃げられそうだし。まぁ環境の連中には悪いけど」
 梨花は少し考えるそぶりを見せた後、にこりと笑みを向けてきた。
「まっかせて。ガラスのお城だねっ」



「離してくださいませんか、太蔵」
 背後から太蔵に羽交い絞めにされたままのニナは、平坦な口調で呟く。あやと梨花、二人が見えなくなって暫く経っていた。
「お前が前田ズを追わないと言うのならな」
「約束しましょう。アレクのように契約は出来ませんが」
「信じよう」
 ガラスの散らばったピロティで、太蔵は静かに頷いた。ニナの腕を離す。自由になったニナは約束通り追う素振りは見せなかった。ただ小さく、息を吐く。
「何故ですか、太蔵。何故止めるのですか」
「何故も何もあるか。生徒が狙われていたら守るのが教師だろう」
 ニナが太蔵を振り返る。表情の薄さは、八年前と変わらない。それでも、大人びた顔立ちは八年の歳月を確かに太蔵に思い起こさせる。
「貴方の口からそんな台詞が出るとは、驚きです」
「お前の知っている井伊太蔵は、八年前【世 界】の研究部にいた井伊太蔵だろう。今お前と話しているのは花川総合高等学校の一教師である井伊太蔵だ。忘れるな」
「そうですね。八年の歳月を失念していました」
 ニナが小さく俯く。彼女を見下ろしながら、太蔵は八年前のことを思い出していた。あの頃はまだ十代半ばだった小さな少女が、今はもう大人になっている。そんな事実が、少し、痛い。八年前、椿が無理矢理【世 界】を抜け、自分もそれに倣って抜けた。後悔した覚えはない。あの時はそれ以外の選択肢なんて想像してもいなかった。ただ、ひとつだけ心残りがあった。それが、彼女だ。実動部の人間でありながら、自分の特異な能力に対して疑問を抱いており、研究部にちょくちょく顔を出していた。年の近い自分に随分懐いてくれていたように思う。自分たちが抜けた後、【世 界】からの監視がつくのは覚悟していた。それを、恐らく彼女がやるであろうことも理解はしていたはずだ。ただ、こうして言葉を交わしてみると事実が痛む。椿と自分は、自分たちの都合で【世 界】を抜けた。抜けたことによる尻拭いは、まだ少女だった彼女がこうして大人になるまでやってくれているのだ。彼女の八年の歳月を奪ったといっても過言ではない。
 【世 界】を抜けたことを後悔はしていない。ただ、彼女の時間を奪ったことを後悔せずにはいられない。
「太蔵、具合はどうですか」
「少し、地面がぐらぐらしている」
 見上げてくる彼女に内心を悟られないように呟くと、ニナは少し厳しい顔をしてみせた。そんなところは、懐かしいと思う。
「当たり前です。貴方の力は八年ぶりに立て続けに使うようなものじゃありません」
「使わせたのはお前だろうが。あの『確認』もお前だろう」
「そうですね」
 頷く彼女に、太蔵は作業服を脱いで彼女の肩にかけた。きょとんとしたニナがかけられた作業服を手にとって見上げてくる。
「何、ですか?」
「着ておけ。なかなかひどい格好だ」
「ああ……」
 言われてようやく気づいたのか、ニナは自分の体を見下ろしている。あやの力が発動したとき、ガラスや何かで切った傷に加え、波動が布地を裂いたのだろう。服があちこち裂け、白い肌がところどころ露出していた。
「布が裂けたんですね。肌も少し切っているようです」
「保健室に行くか? 部屋の主はいないがな」
「椿はアレクと戦闘中ですね」
「そうなることが判ってて何故連れてきた」
 太蔵は少しだけ言葉に力を込めた。アレクがいなければ、ニナだけならば、なんとでもなったはずだ。しかしアレクは、椿の傷に沁みすぎる。
「【世 界】の指令です」
「……まったく」
「座りませんか、太蔵」
 唐突な言葉に太蔵は顔を顰めた。すぐ傍にある階段まで歩いてくニナの背中に声を投げる。
「俺はこれから」
「椿の手伝いに行く、ですか?」
 言いかけた言葉を奪い取り、ニナが冷たい眼差しを向けてくる。傍によると、ニナは苦い顔をして見上げてきた。作業服を持つ手に力がこめられているのが見て取れる。
「どうせあの二人のことです。貴方のことを見向きもしないでしょうし、長引くのも必至でしょう。それに」
 ニナの手が太蔵の肩にかかった。ぐっと力をかけて押され、太蔵はよろけて段差に腰を打ちつけた。階段に座り込む。
「貴方は今、立っているだけで精一杯のはずです。あの二人の喧嘩に立ち会おうなんて、ただの自殺行為ですよ」


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