第四章 :  百合の残り香  


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 静かに告げられ、太蔵は思わず苦笑を浮かべていた。
「ばれていたか」
「いくら八年振りとはいえ、貴方の下手な演技に私が騙されるとお思いですか?」
「まあな。だがなら何故逃げない? 俺がこんな状態だ。俺を無視して前田ズを追うことも出来るだろう」
「約束をしましたから」
「不器用な生き方だな」
「貴方たちほどではありません」
 作業服を手にしたまま、ニナが隣に座る。服を着ようと裏返し、そこでニナが手を止めた。
「太蔵」
「何だ」
「この服の背中に書かれているストレンジな日本語は何事ですか」
 青い作業服の背中には、ポスカで書かれた文字が躍っている。『いいセンセー☆』『井伊太蔵此処に参上』『銀塩フィルムのある限り、俺はアナログを愛し続ける』――
「生徒の落書きだ」
「そのままにしないでください」
「布地に書かれたものはどうしようもないんだ」
「このストレンジな服を私に着ろと言うのですか」
 よほど不可解なのか、ニナの顔は怪訝を通り越して無表情になっていた。
「その格好のままでうろつきたいなら好きにしろ」
「……そうですね。大人しく着ます。椿もアレクもいることですし。貴方だけなら、別に今さらですが」
「全方位に誤解を招く発言をしないでくれ」
「冗談です」
 言い切ったニナに、思わず太蔵は苦笑を浮かべて隣を見た。
「ニナ・フランシスカ・ルッツが冗談を言う、か?」
「八年前とは違うと言ったのは貴方でしょう、太蔵」
「そうだったな」
 苦笑を押さえ込み、ポケットから煙草を取り出した。咥えてニナに視線を向けると、彼女はあの頃と同じように軽く頷く。火をつけてゆっくりと吸い込んだ。白い煙が溶ける。
「それは変わりませんね」
「そうでもない。八年前と違って、公の場でも堂々と吸える。しかもこれで、今日は三本目だ」
「減りましたよね」
「まあな。だが今日は多いほうだ。最近じゃ、吸わない日のほうが多い」
「知ってはいましたが、本人の口から聞くと不思議です」
 青い作業服を着たニナが、小さく笑んだ。大人びたなと今さらながらに思う。八年の歳月は、思ったより長い。
「椿なんて、ほとんどやめたようなものだぞ」
「知っています。奇跡かと思いました」
 真顔で言い切るニナに、思わず手が伸びた。ポン、と軽く頭をはたく。
「お前もやっぱり変わったな」
「そう、ですか?」
 不思議そうに見上げてくる彼女の頭から手をどける。
「まぁ、椿と比べりゃそうでもないか」
「あれは詐欺です。」
「そうだな」
 きっぱりと告げるニナに、同意のほかに思いつく言葉がなかった。
「最初にあの口調で話し始めたときは、とうとう気が触れたのかと本気で心配しましたよ。総帥にご報告すべきかどうか、真剣に悩みました」
「……やめとけ」
「言ってません」
「賢明な判断だ」
 関係を完全に断ち切った孫についての報告が『オネエ言葉になってます』は、いくらなんでもきついだろうと思う。
「何がきっかけで、ああなっちゃったんでしょうか」
 訝しげに呟くニナに若干の同情を覚えながら、太蔵は天井を見上げた。一口煙草を吸い込み、煙と同時に言葉を吐く。
「最初はシャレのつもりだったらしい」
「――は?」
「大学が看護系だっただろう。どうも女ばかりだったらしくてな。会話のノリでオネエで喋ってみたら受けたとかでな」
「……」
「それ以降、何故かああだ」
 暫くニナの反応がなかった。煙が何度か空中に吐き出されてからようやく、ニナがポツリと呟く。
「太蔵」
「何だ」
「月日って残酷ですね」
「悟るな」
「冗談です」
 ニナが再度ため息をつく。灰皿に灰を落としながら伺うと、彼女は自分の膝をじっと見つめていた。
「ニナ?」
「椿のあの口調」
 俯いたまま、小さく呟いてくる。
「あれは、百合子の代わりのつもりですか?」
 その問いに答えるのは、自分の役目ではない。判っていながら、太蔵は再度煙草を吸った。煙を吐き出し、まだ長さの残る煙草を灰皿でもみ消す。
「あいつにそこまで明確な意思があるかどうかは判らん。が、俺はそうかもしれないと思っている」
 声がかすれた。だが、ニナは聞き返してこなかった。ガラスの割れたピロティから外を見ている。雨はまだ、止んでいない。あの頃のように。
「何もかもが、八年前と同じですね」
「いや。八年前とは違う。椿は力を――」
 言いかけて。
 思わず太蔵は肝が冷えるのを感じた。ぞっとする。こんなところで悠長に昔話に興じている場合ではない。指が震えた。まだ疲労の残る体を無理矢理叱咤して立ち上がる。
「太……蔵?」
「椿は力を使わない。獲物も持っていない。アレクと二人きりにするのは不味すぎる!」



 雨粒がコンクリの地面を叩いている。
 水に濡れた白衣からは、薄く鮮やかな赤が流れ出し、近くの水溜りに溶けていた。
 その男を見下ろして、彼は不服そうに軽く男を蹴った。水が跳ねる。
「ホント、弱くなっちゃったんだね、椿」
 一言だけ言い残し、踵を返して歩き出す。
「まぁいいや。君の大切な生徒たちは、ボクがゆっくり可愛がってあげる」
 屋上のドアに手をかけ、アレクは振り返る。倒れたままの男ににっこりと微笑んだ。
「百合ちゃんと同じようにね」



 唐突に梨花が勢いよく顔を上げたため、あやは思わずぎょっとして身を引いていた。
「え。何。どした」
「あ。うん、ごめん。……なんか」
 よく見ると、梨花の顔がやや青ざめている。あやは眉を寄せて梨花の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か? ……勘か?」
「たぶん。なんか、ざわざわするの」
 制服の胸リボンを押さえ、梨花が困惑した顔を浮かべている。立ち上がって、教室のドアへと歩き出す。
「梨花?」
「あやちゃん、ちょっと待ってて。梨花見てく――」
 言いながらドアを開け、廊下に顔を出す。次の瞬間、梨花が裏返った悲鳴を上げた。
「きゃうっ?」
「梨花っ?」
 慌てて立ち上がる。つんのめったように廊下に転がりでた梨花の後を追い、ドアに手をかける。が、すぐにあやは後ろに下がっていた。一瞬、背筋が凍った。
「みーっけた」
 梨花の体を後ろから強く抱きしめたまま、少年は笑っていた。
 アレクサンダー・ヴェルト。
「梨花っ」
「こんなところに居たんだ」
 言いながら、梨花を抱えたまま一歩、教室に踏み込んでくる。一歩後ろに下がりながら、あやはアレクをきつく睨みつけた。踏み込んだアレクは教室を見渡し、そこで口を閉じた。
「……何なのこれ」
「お前対策」
 きっぱり言い放つ。教室内を見たアレクが絶句したのは、仕方なかったかもしれない。教室中から集めたビーカーやらフラスコやらが、あやたちがついさっきまで座っていた場所を囲むように円形に配置されている。重なり合ったビーカーの群れは、なかなかに壮観だった。
「あ、そ。この子捕まってちゃ意味ないと思うんだけど」
 アレクが呟くと、腕の中の梨花がじたばたともがいて呻く。
「あやちゃん、ごーめーんーっ!」
「それでコレ、どういうつもり?」
「お前来たら割ろうかと思って」
「へぇ?」
 アレクは瞬きをし、部屋を見渡した。
「賢いね。コレなら君は怪我しない。まぁこの子が出ちゃったのはバカだけど」
「うーるさーいーっ、離せっ! あやちゃんに近づくとマジで殺すー!」
 小柄なせいで、アレクの力には敵わないようだが、梨花はひたすらじたばたじたばたともがいている。助けようにも、アレクに隙がないように見えて、あやも動けずただ睨むしかない。噛んだり蹴ったり殴ったり、と梨花の行動もエスカレートしているが、アレクは苦々しげに見下ろすだけだ。細身だが、意外と力はあるらしい。
「ああもう、うるさいなぁ。……この配置は、君の案?」
「そーだよ」
「もしかして自分の力、きちんとどういうのか理解してたりする?」
「あ?」
 未だ足掻く梨花を押さえつけながら、アレクが器用に肩を竦めた。
「理解していなくてコレ、か。ふーん。洞察力はある、のかな」
「はぁぁ、なぁぁ、せぇっ」
「おいこらクソガキ」
 一人で納得するアレクに、思わず低く唸る。
「年は君より上だよ」
「知るかガキ。一人で納得してんじゃねぇぞ。説明しろや」
「そーのまーえーにーはーなーせーっ!」
 アレクはひとつため息をつく。
「ようは君の力は《念波動》だから、君を中心に念の波動が円形に広がるの。異能力の中でもポピュラーな力だよ。大きさ別にすればだけど」
「離せバカ離せバカ離せバカ離せバカ離せバカアっ」
 言われて、思わずあやは納得していた。廊下での一件も、ピロティでの一件も、ガラスは全て自分を避けていた。あれは円の中心に自分がいたせいだろう。
「離せバカ離せバカ離せバカ離せバカ離せバカっ」
「納得した?」
「離せバカ離せバカ離せバカ離せバカ離せバカっ」
「……少しは」
「離せバカ離せバカ離せバカ離せバカ離せバカっ」
「……」
「離せバカ離せバカ離せバカ離せバカ離せバカっ」
「――うるっさいなぁ、このちびっ子はぁっ!」
 梨花の行動に耐え切れなくなったのか、叫ぶと同時に梨花を廊下に放り投げた。放り投げられた梨花はと言うとすぐに立ち上がって、またわめきだす。
「梨花ちびっ子じゃないもん!」
「ぎゃーぎゃーわめくしか出来ないのはちびっ子だよっ!」
「あやちゃんと同い年だもんっ」
 問題はそこなのだろうか、と思わず胸中で呟いてしまう。あやの目の前で、けれど二人はわめくのをやめない。
「映画館でも電車でも、どうせじっとしてられないんでしょっ」
「何それっ! 梨花がじっとしてらんない子どもみたいじゃんっ!?」
「そう言ってんの!」
「梨花子どもじゃないしっ!」
「じゃあ、少しはじっとしてられるの?」
 アレクの口元が歪んだ。歪な笑みに、はっとする。脳裏によみがえった椿の言葉――『この先何があってもイエスは言わないで』――
「梨花!」
「あたりまえでしょっ!」
 叫ぶが、一息遅かった。梨花が叫ぶと同時に、アレクの顔に浮かんでいた笑みが深くなった。す、とアレクの指が梨花の額に添えられる。アレクが短く、告げた。
「《契約》完了」
 梨花の目が見開かれる。そして、次の瞬間、梨花の小さな体は支えを失ったように廊下に横たわっていた。
「じっと、しててね」
 アレクが肩を竦めて微笑む。梨花はぴくりともしない。
「梨花っ!」
 慌てて駆け寄ろうとした瞬間、アレクの手が動いた。影が走る。
 同時に、耳を劈くガラス音が重なり合って響いた。
「……っ」
 反射的に足を止める。ぞっとした。何が起きたのか確認しようと視線を動かすと、ビーカーやらフラスコやらが床に落ちて割れている。ガラス片の海の中、一本の赤いダーツが転がっていた。顔を上げる。ダーツを手にしたアレクが微笑んでいる。
「次はこのダーツを君の喉に突き立てる事も出来るよ。ちびっ子の目でもいいけどね」
 アレクがダーツを投げ、機材で作った壁を割ったのだと理解した。喉が渇いていた。無理やり唾液を飲み込んで、震える体をごまかす。
「あたしらを、どうするつもりだ」
「【世 界】の指令はいつも通り。契約か、排除。ただ、ボク個人としては」
 アレクが、無邪気な笑みを見せた。外見年齢にそぐわないほど子どもじみた、無垢とも言える笑み。
「君と二人きりで、ゆっくり話がしたい。君に興味が湧いたよ。個人的にね」
 ここでイエスを言うのは危険だと察していた。それでも、疼くものがある。梨花を助けなくてはならないと言う使命感。そして、知りたいと言う欲求。八年前のこと。百合子という女性のこと。【世 界】のこと。それから――
 あやはきゅっと唇を結んだ。梨花の体はまだ、廊下に横たわったままだった。
「断ったら?」
「この子の《契約》を解かない、かな。あとはまぁ、排除だね。【世 界】の指令だし」
 唇を結んだまま、あやは目を閉じた。心臓が全身に血液を送り出す音が、内耳でこだましていた。強く拳を握り、目を開けた。アレクの笑みを見据える。
「二人きりで話をさせてくれる?」
 アレクの問いをあやは正面から受け止めた。
 告げる。
「――ああ」


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