第五章 :  決定権は誰にある?  


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 ――日野百合子ノ 代ワリデシカ ナインダヨ――

「あやっ!」
 叫び声が飛び込んできた。いつの間にか、アレクがドアを開けたようだった。雨音と心臓の音しか聞こえなかった空間に、ざわめきが広がる。梨花もいるのだろうか。太蔵の声もする。だけど、顔を上げられなかった。今、自分の名前を呼んだ声は、誰かは判ったけれど、顔を上げることが出来なかった。
 視界が、遮られた。体が、強く圧迫された。抱きしめられている。あやは椿の腕の中で、最小限のことしか考えられなかった。周りでは太蔵やアレクが何かを言っているようだったが、上手く聞き取れなかった。椿の腕の中で、ただ、ざわめきとして声を感じるしか出来なかった。血と汗の臭いがする。白衣は、雨と血で汚れていた。心臓が耳のすぐ傍で脈打っているようでうるさかった。耳元に、椿の荒い息がかかった。
「あんま、びびらせんな」
 低く囁かれた言葉は内耳に沁みた。けれどそれは。その、言葉は。

 アタシニ向ケラレタ言葉ジャ ナイ――

「……っ、やめろっ!」
 叫ぶと同時に、あやは椿の体を突き放していた。顔も指先も熱いのに、体の芯は痛いほどに冷えていた。
「あや……ちゃん?」
 驚いたような、戸惑ったような椿の声に、あやの中で何かが膨れ上がった。それは制御できない感情だ。憤りとも不安とも、悲しみともつかない、ごちゃごちゃしていて名前なんて付けられない感情だった。
「代わりのつもりかよ」
「……え?」
 低い声に、椿だけでなく傍にいるらしい太蔵も、梨花も、アレクやあの女性も、こちらを見てきたのが判った。複数の視線が刺さるのだけは、判った。それでも、言葉は止まらなかった。俯いたまま、あやは続けた。
「百合子の代わりのつもりかよ」
「なっ……!」
「百合子が死んだからって、てめぇが代わりに生きてるつもりかよっ」
 叫んで顔を上げると、傷ついたような椿の顔が視界いっぱいに飛び込んでくる。それすらも、今はただ、腹立たしくて。
 ぐっと唾を飲み込もうとした。渇いた喉には、ただ苦しいだけだった。
「その仕事も、力使わないのも、その喋り方も、全部百合子の代わりのつもりかよ!」
 何もかも、一条椿と言う彼を象るパーツの何もかもが、今現在の彼の全てが、百合子の代わりだとしたら。だと、したら。
 あやは一度息を呑みこんだ。それからゆっくりと椿と、視線を合わせる。
「じゃあ、『一条椿』はどこにいるんだよ」
「アタシは……」
「『お前』は、どこにいるんだって訊いてるんだよっ!」
 その口調ですら虚像なら、代わりでない本人は、どこにいると言うのだろう――?
 椿の揺らいだ目の中に、今にも泣き出しそうな自分が映っていた。あやはそれを、じっと見据えた。答えを聞くまで、逃げたくなかった。
 視線をはずしたのは、椿だった。暗い目が、静かに伏せられる。
「俺は、一度死んでるから。俺はあの日、死んだから」
 俯いたまま落とされた言葉に、ただもう、冬の風のように乾いた笑いしか出てこなかった。
「は……はは、は」
 視界の隅で、アレクの歪んだ笑みが見えた。梨花の心配そうな顔も見えた。アレクが、《契約》を解いたのだろうか。太蔵に支えられながらも、両足でしっかり立っていた。その梨花を支える太蔵も太蔵で、不安そうに眉を寄せている。そのすぐ傍で、何故か太蔵の作業着を着た表情のない女性が、静かに立ち尽くしていた。その光景すら、滑稽に思えて、乾いた笑いが漏れるのを止められなかった。
 アレクの思う壺だと判っていながら、どうしようもなかった。
「ははは、は。アレクの言った通りなんだ。アレクの言った通りなんだな、やっぱり。それで今度はあたしかよ」
「え……?」
「今度はあたしが百合子の代わりかよ!」
「あやちゃん何を――」
 うろたえたような椿があやの手を掴んで来る。その手を強く振り払って、あやは椿を睨み上げた。
「あたしは誰かの代わりじゃないっ!」
 叩きつけた叫びに、椿が立ち竦んだ。その横をすり抜け、太蔵や梨花の隣もすり抜け、あやは廊下に飛び出した。
 とてもその場には、居られなかった。

 ◇

 あやが飛び出してしばらく、誰も動かなかった。
 最初に動いたのは、《契約》から解放されたばかりの梨花だった。床に落ちていたまだ割れていないビーカーの一つを無造作につかみ上げると、無言のまま椿に歩み寄る。そしてそのまま睨み上げ、手にしたビーカーを椿に投げつけた。
 ビーカーは椿の肩にぶつかり、床に落ちて砕け散った。
 響き渡った静かな喧騒に、誰も動かなかった。
「――死ね」
 一言、吐き捨てると、梨花も制服のスカートを翻して廊下へと駆けて行く。遠ざかる足音の中、椿はガラスの散った床を凝視していた。
「こわーい。《契約》解かないほうが良かったかな」
 くすくすと弾むアレクの声に、椿はゆっくりと顔を上げる。
「あの子に……何を、言ったの」
「別に? ボクが見たまんまの椿のことを話してあげただ――」
 アレクの言葉が終わらないうちに、椿は手近な机を蹴飛ばしていた。机に乗っていた顕微鏡が、ビーカーが、フラスコが、けたたましい音を立てて床に四散する。
 いくつかガラス片を浴びたアレクが、切った左頬に滲む僅かな血を指でなぞった。すぅと表情が溶けていく。
「やるの?」
 アレクの手は頬を離れ、腰につけているダーツケースへと伸びる。椿は答えずに、ジャリとガラス音を立てながら両足を開いて体重を落とした。アレクの目が細まる。
「別にボクは構わないけどね。気づいてるの? 君の味方をしそうな太蔵は今いないよ?」
「ニナを追っていったんだろ」
「なんだ。気づいてるんだ。気づいてるのに、やるの? それこそバカだよ、椿。どうせさっきの二の舞だよ」
「うるさい」
 アレクの言葉を切り捨て、椿は唾を吐き捨てた。ゆっくりとダーツを構え、アレクが唇の端を持ち上げる。
「ねぇ椿。ボクね、あやちゃん気に入っちゃったんだ。最高に素敵なストロベリー。ボクね、いちごは最後に食べるんだ。じっくりね。だからそのためには、いらないもの先に片付けちゃうんだ。だから、ごめんね椿ちゃん」
 歪んだ笑みが、広がる。
「死んで?」

 ◇

 あやは廊下を走っていた。
 自分の中で渦巻いている理解不能な感情が、肺を圧迫しているようで息苦しかった。二階の廊下を駆けぬけ、突き当りの部屋のドアを体当たりで開けた。飛び込んでから、ようやく気づく。ちょうどピロティの真上、図書室だった。ふらふらと図書室の中央まで歩いていき、あやはその場でしゃがみこんだ。
 顔が熱い。抑えきれない感情が、雫となって零れ落ちていく。声だけは、殺した。それでも、上ずった吐息だけは耳障りに響いた。
 コツン、と背後で、静かな足音がした。あやは振り向かないまま、スカートの膝に顔を埋めた。足音の主は、振り返らないでも判った。
 梨花だ。
「……許された、気がしたんだ」
 上ずった声が漏れた。静かに背後で立ち尽くしている梨花に言っているのか、それともただの独り言なのか、自分でも判断つけがたいほどの声音で、あやはゆっくりと続けた。
「この力があってもいいんだって、許された気がしたんだ。受け入れてくれるかもしれないと思ったんだ」
 雨の屋上での出来事を、梨花は知らない。椿が何を言ったのかを梨花は知らない。だとしたらこの言葉は、やはりただの独り言でしかないのだろう。ただ、呟くことをそれでも止められなかった。
 あの屋上で、椿は言ったのだ。

 ――アタシは貴女を否定しないわ。約束する――

 嬉しかった。少し、恥ずかしくはあったけれど、それでも確かに、嬉しかったのだ。
 力のことで、自分に対して抱いていた不安や孤独主義を、あの男は理解してくれた。その上で、約束までしてくれた。その事が確かに、嬉しかったのに。
 でもその言葉は、違ったのだ。
「うぬぼれだったんだ」
 また一粒、二粒、涙が落ちる。スカートに点々とついていく染みを見下ろしてから、あやは両手で顔を覆った。
「あいつが許したのは、居場所を認めたのは、あたしじゃない。もう居もしない誰かなんだ」
「あや、ちゃん」
 梨花の手が肩にかけられる。殺しきれない嗚咽が漏れかけた。と、廊下から声が聞こえた。
「止まれ、ニナ!」
 太蔵の声に、顔を上げる。開け放したままのドアから廊下を見ると、角を曲がって、今まさにあの女性――ニナ――が飛び込んでくるところだった。咄嗟に立ち上がり、図書室の一番奥まで後退する。ニナは太蔵の静止の声には止まらず、青い作業服の裾を翻し、図書室に踏み込んできた。
「止まれニナ、命令だっ!」
 図書室の入り口まで走ってきていた太蔵が、大声を張り上げる。その声に、ニナの足が急に止まった。立ち止まったニナの横を走りぬけ、太蔵が傍によってくる。あやと梨花、二人の前に立った太蔵は、吐息を漏らした。
「大丈夫か」
「井伊ちゃん……」
 泣き顔を見られた恥ずかしさに、あやは反射的に顔を伏せた。が、太蔵は気にしていないようだった。振り返り、立ち止まったままのニナと向き合っている。
 ニナは、少し複雑そうな顔をしていた。
「チー、フ」
 呼びかけは、恐らく太蔵に対してなのだろう。が、呼びかけられた本人は少し気まずそうに身じろぎした。
「卑怯な止め方をして悪かった。悪いが、俺はもうチーフじゃない」
「……卑怯です」
 呻くように呟くニナに、太蔵は大きく息を吐く。太蔵の背に隠れながら、あやは梨花と手を繋いだ。作業服ではない背中は汗をかいていて、シャツに染みが浮き出ていた。何故太蔵の作業服をニナが着ているのか、それは判らなかったが、今はどうも訊けそうになかった。
「諦めてくれないか、ニナ」
「出来ません。それこそ命令でもない限りは」
「ニナ」
「力を、捨てればいいんです。それがいいんです。監視はつきますが、今までと変わらない生活は出来ます」
「楽だけどな、それはだが、ただの逃げだろう」
 太蔵が吐き捨てる。ニナが、静かに目を伏せた。
「逃げるのは、悪いことですか?」
「少なくとも、俺は気に喰わん」
「でしたら、アレクと《契約》を結び【世 界】に入ればいいのです。勧誘が、本来【世 界】が望むところなのですから」
 その言葉に、太蔵の肩がぴくりと動いた。後姿だけでも、判る。緊張か、それに類似する何かの感情が溢れ出ていた。
「あそこには、やらない。こいつらは、俺の生徒だ」
 あやは【世 界】が具体的にどんな組織かは知らない。けれど、太蔵のその強張った声を聞く限り、どうしてもいい印象は持てなかった。
 ニナの目が、すうと太蔵を逸れ、あやに向けられた。憎しみとも、軽蔑ともつかない痛みをともなうほどの鋭い眼差しで睨まれる。
「だから守る、ですか。全く、守られる姫君は楽でいいですね」
 頭を、殴られたかと思った。
 唾棄するようなニナの言葉に、あやはぐっと息を呑んでいた。
 守られている。その言葉が、ふいに重くのしかかってくる。ただ、守られて、泣いているだけしかしていない――
「あやちゃん」
 隣にいた梨花が、そっと囁いてきた。恐らく、太蔵には聞こえない程度の声音で、梨花が呟いてくる。
「このままで、いいの?」
「梨、花」
「むかつかない? こういうの。自分のこと、周りが決めるの。むかつくよ、梨花は」
 その間にも、太蔵とニナはあやのことを話題に話していた。その二人を見据えたまま、梨花ははっきりと告げてくる。
「それに、梨花言ったよね。あやちゃんの全部、梨花は受け入れてるよ、って。でも、でもね。あやちゃん、それでいいの?」
「……え?」
「だってそんなの、梨花が勝手にそう思ってるだけだもん。梨花が勝手に決めてるだけのことなんだもん。椿ちゃんだって、そうだよ。椿ちゃんがあやちゃんに何を言ったのかは知らないけど、でも、あやちゃんの居場所って、椿ちゃんに決めてもらわなきゃいけないもの?」
 梨花の言葉に、あやはもう一度頭を殴られた気がしていた。
 思わず息を呑む。呑んだ空気に、図書室の匂いが混じっていた。懐かしい匂いに、泣きながら思わず笑っていた。
 図書室の匂いは、どこも共通だと思う。小学校も中学校も同じ匂いがした。少しだけ埃臭くて、少しだけ遠慮しているようなよそいきの匂い。
 あやにとって小学校や中学校の図書室はいつも逃げ場所だった。でもここは違う。あやにとっての花川総合高等学校の図書室は、チイや梨花たちと一緒に声を殺して笑いあう場所だ。
 はじめは確かに逃げだった。地元の環境を嫌って見つけた高校だ。でも、今は違う。
 ここは、前田あやの居場所だった。
 誰に認めてもらうまでもなく、確かに、居場所だった。
「……必要ない。あたしの居場所は、ここに、ある」
「うん」
 頬に残る涙の後をぬぐって横を見やると、梨花はあやを見上げて微笑んでいた。
「あやちゃんは、どうしたい?」
 問いかけに、もう一度胸が締め付けられる。
 今、ここにいる自分を顧みた。花川総合高等学校総合学科、芸術メディア系列の前田あや。それは確かにここに今、存在している。
 ふいに、さっきまでの感情が馬鹿馬鹿しく思えた。
 許されるとか許されないとか知ったことか。何を悩む必要がある。自分の居場所は、自分で認めればいいだけだ。誰かに許してもらう必要なんてない。一条椿は確かに、自分を通して日野百合子を見ているのかもしれない。けれどあいつが見ているのが誰であろうと、ここに存在しているのは前田あやでしかない。それは、変えようのない事実だ。
 揺らいだままだった視界を明確にする為に顔をこすり、あやはゆっくりと息を吸った。
 あやは吸った息を肺に溜め、梨花に微笑みかけた。それから、まだ言いあいを続けている太蔵とニナに向かって、あらん限りの声量で怒鳴りかけた。
「ふざけんなよ、てめぇら!」
 唐突な怒声に、太蔵もニナも言葉を止めて、驚いた表情であやを見返してくる。その相貌をそれぞれ睨みつけ、あやはゆっくり言葉を紡いだ。
「何であたしのことをお前らが決めるんだよ。あたしの事は、あたしが決める」
 それに、あいつだってもう【世 界】の一条椿ではない。
 花川総合高等学校の養護教諭、一条椿なのだ。前者は判らない。でも後者のあいつの居場所は嫌でもここに確かに存在している。あの白い保健室が、確かに居場所であるはずなのだ。
 それでも、心に残る僅かなわだかまりがある。でも、それなら事は単純だった。
 どうしても気になるなら、自分であいつに、訊けばいい。
「梨花」
「なぁに」
「一条に、訊きたい事があるんだ」
「うん」
 ここはやっと手に入れた、自分の居場所だから。あいつがどう思っているのかは知らない。それでも、自分の居場所であることは変わらなくて、だけどやっぱり、気にはなるから。
 太蔵もニナも呆然とする中、梨花は確かに微笑んでくれた。
「いってくる」
 梨花に親指を立てて、あやはもう一度駆け出した。


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