四幕:逃避―ねむりつく―  壱


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 何が起きているのか、理沙には全く判らなかった。
 亮と時也が、言葉を交わしている。それはいつものことだ。いつものことのはずなのに、尋常ではない違和感が病室を占領していた。
 時也が傍に寄ってくる。呆然と立ち尽くしていた理沙は、肩を軽く上から押さえられ、再び椅子へと尻を落とした。抵抗することも出来ない。
 ベッド脇へと歩み寄った時也が、サイドテーブルにジュースを置いた。亮と顔を見合わせる。亮は、亮らしくない皮肉めいた表情のまま、くつくつと低く笑い声を立てた。こんな笑い方。理沙は呆然としながら、思う。こんな笑い方、亮は、したことないのに。時也は少し不貞腐れたような顔で腕を組む。「真に」低く、亮が呟いた。
「久しいではないか、朱鬼ときよ。いや、十夜だったか?」
 ――何の、話。
 口を挟む余裕もなく、理沙は膝の上に置いた震える手を強く握った。背中に吹き出た汗が、気持ち悪かった。
 時也は、さも当然のような顔で口を開く。
「今は時也と名乗っているよ。今回は随分転生が早かったね、神子みこ
「そのようだ。前の宿から、幾年も経っていないようだな。そなたも変わらぬ」
「変わったよ、神子。僕は生きているからね。君と違って、変わるものさ」
 二人は、理沙には全く判らない会話を交わしている。日本語のはずなのに、異界の言葉でも聞いているかのような錯覚に陥った。理解が及ばない。脳が上手く、働かない。
 亮が――亮であるはずの彼が、口元ににやりとした笑みを浮かべる。それは亮の笑顔というより、まれに時也が見せる歪な笑みに似ていた。
「なんの。たまは変質する。私が変わらぬと言う保障もない。だが、あれだな、朱鬼」
「時也」
「どちらでもよい。確かにそなたは少し変わったようだ。随分図々しい物言いをするようになったではないか」
 そこで一度言葉は切れた。亮の目が、値踏みするように時也を見やる。そして、嘲笑った。
「鬼人が、人と同じように生きていると口にするとはな」
 吐き気がした。
 意味も判らない言葉に、理沙は吐き気を覚えていた。言っている意味は判らない。けれどその台詞に込められた嘲りの感情に、自分に向けられたものではないというのに吐き気を覚えた。歪で、異質で、恐ろしいほどの嘲りの言葉――
 時也は、何も答えなかった。無言で亮を見つめている。その横顔に僅かな翳を見た気がして、理沙は思わず椅子から立ち上がっていた。その音で、初めて亮の目が理沙に向けられた。向けられた目を睨みつける。拳を握り、それでも抑えきれない震えを感じながら理沙は言った。
「あんた、誰よ」
 理沙の声に、亮は――亮の顔をしたそれは、亮ではない表情を浮かべて、告げた。
「私か。私は――神子だ」
 何にショックを受ければいいのかさえ、もうよく判らなくなっていた。理沙はただ呆然と、彼の言葉を反復する。
「み……こ?」
 呟いたとたん、腕を強く握られた。
「いたっ……、会長?」
 時也だった。隣に立つ時也が、夏服の袖から出た理沙の腕を無造作に掴んでいる。
「晶さんが来る」
「え?」
 囁きに、反射的に扉を振り返っていた。耳を澄ませると、確かに遠くからふたつの足音が近づいてきている。ひとつは医師の、ひとつは晶のものなのかもしれない。
 ぐい、と時也に腕を引っ張られた。思わずつんのめってから、何とか体勢を立て直す。時也は亮に背を向けていた。
「会長?」
「神子。今は寝ろ」
 時也は理沙の方を向くこともなく、背中で亮に言った。亮は寝台の上で笑みを浮かべている。
「何と?」
「寝ろって言ったの。ややこしいことにはしたくないでしょ。後は僕が引き受けるから、今はとりあえず寝て、暫くおとなしく宿のふりをしててよ」
「私に指図するか」
 冷たい声だった。亮じゃない。混乱した頭の中でも、それだけははっきりと判った。亮の声だ。亮の顔だ。亮の体だ。でも、亮じゃない。亮はこんな言葉を発したり、しない。こんな風に容赦なく、ただ甚振るように相手を追い詰めたり、決してしない。それなのに、その声はどうしようもなく、松風亮の声だった。
 時也が、振り返る。色のない、冷えた眼差しを彼に向けてた。
「指図じゃない。『お願い事』だよ」
「ほう?」
 亮の眉が跳ね上がる。驚いたような顔をした後、また、笑った。
「良かろう。久方ぶりの再会だ。哀れな鬼人の頼みひとつ聞いても罰は当たるまい」
「それはどうも。恩に着るよ」
 全く恩に着ているようには聞こえない冷ややかな口調で言い捨てると、時也は理沙の腕を掴んだまま歩き出した。傍に置いてあった二人分の鞄を取り、廊下へと出る。
 白い病室が、亮を飲み込んで扉を閉ざした。

 ◇

「どういう意味なんですかっ!?」
 くちなしの香る公園へと足を踏み入れたとたん、理沙は時也の手を振り払っていた。
 住宅地の真ん中にあるこの公園は、人気が失せるのも早い。今はもう、ただ静かな虫の音が満ちているだけだ。頼りない外灯と、一刻一刻雲に出番を奪われる月と、漏れ出る家々の日常の明かり。曖昧に交じり合った翳が、公園を包んでいる。
 理沙をここまで連れてきた時也は、振り払われた手を一度見下ろした後、無造作に傍のベンチによった。ばさりと、二人分の鞄をその上に放り出す。
「会長!」
「神凪の話をしよう」
 囁かれ、理沙は思わず口を噤んでいた。時也はその隙を逃さず、口を開く。
「神凪が人身御供として巫女を捧げたところまでは話したね」
 理沙は曖昧に頷いた。手招きされ、ゆっくりと時也の隣に腰を下ろす。
「さっき話さなかったけれど、鬼に捧げられた神凪の巫女は、子どもを身ごもったんだ」
「子どもを?」
「鬼が孕ませたんだ。そしてひとりの童が生まれた。鬼の血と、鬼祓いの神凪の血を受け継ぐ男子おのこ。けれど産んだ巫女はすぐに自害した。産み落とされた男子は類まれなる神通力……そうだね、魔力といったほうが判りやすいかな。それを持っていたんだ。鬼でもなく、神凪でもないその男子は、何故か鬼を呼び寄せやすかった。やがて男子の七つ参りのとき、変化が起きた」
 ふと、時也が空を仰いだ。真円ではない月を見上げる。
「神凪本家の女子……人身御供にされ自害した巫女の妹君が鬼と化したんだ」
 理沙は時也の言葉を遮ることなくただ聞いていた。荒唐無稽で、理解しづらいことばかりだ。けれど、ただの世間話であるはずがない。
「それを救ったのが男子……神子だった」
「神子……」
「そう。神子は類まれなる神通力を持っていた。今まで神凪の誰にも出来なかったことを、簡単にやってしまったんだ。つまり、鬼の浄化だ。鬼に喰われ始めた人間から、鬼のみを剥がして浄化した。これにより歓喜したのは鬼筋だったろうね。その後の鬼宿も、神子は救い続けた。けれど数え十八の頃、病を患い死んだ」
「それが」言いかけて、理沙は口を噤んだ。信じられるはずがないことを、今自分は口にしようとしている。けれど時也はゆるりと微笑んだ。
「理解が早くて助かるよ。そう、それがついさっき君と話をしていた彼だ。神子は死んだ後も輪廻転生を繰り返したんだ。そして今度は」
「何で亮なんですかっ!?」
 また、叫んでいた。理沙は一度下唇を噛み、軽く頭を振った。
「判りません。なんで、そんな。そんな馬鹿馬鹿しいこと」
「そうだね。くだらないことだとは思う。けれど、事実だ。松風は……松風亮は神子宿なんだ」
「みこ……しゅく?」
「そう。神子が宿るための器。鬼宿と同じようなものだね。神子宿は、鬼宿よりは条件がゆるい。鬼氏子でもない、神凪でもない一般の血の中に生まれる。その中で松風が選ばれたのは、ただの偶然でしかない」
 耳鳴りがした。言うべき言葉も見つからず、ただ耳雨の響きに呑まれていく。
「一方神凪は、その一件を機に別の変化が起きていく。神凪本家筋に女児が生まれることが極端に減ったんだ。しかし生まれた女児は必ず人身御供の巫女の命日である日に誕生することになり、満で十六の誕生日――巫女の命日に鬼と化すようになった」
 時也はそこまで言うと、ぽんと理沙の頭を軽く叩いた。
「松風亮が神子宿。神凪ほたるが鬼宿。ほたるが松風を狙っていたのは神子を目覚めさせるためだったんだろう。宿の御魂が弱まれば、宿主を押しのけてもうひとつの意識が顔を出す。ほたるの言っていた『殺す』って言葉は肉体のそれを指していた訳じゃなく、御魂としての死を意味していたんだろうね」
 理沙はスカートの上に置いた拳を強く握り、顔を上げた。時也を見据える。
「鬼人って、何ですか」
 時也の目が、すうと細まった。それから、いつか見た何かを諦めたかのようなゆるやかな笑みを浮かべた。
「鬼は十の夜をかけて鬼宿を喰らう。喰われ尽くせば完全な鬼となる。けれど完全に喰われず、十の夜を過ぎても抵抗を続け、人としての自我を残したまま鬼と融けあった者。見た目は人のまま、けれど鬼と同じく破壊衝動を背負い神通力を操り得る、永遠の命を持つ者のこと。……僕が色々詳しいわけ、判ったでしょ?」
 自嘲気味な言葉に、理沙は何も言えなかった。震える唇を誤魔化しながら問いかける。
「亮は……亮は今、どうしてるんですか」
 少し、沈黙があった。なまぬるい風に煽られて、髪が揺れる。答えを乞うように顔を上げようとしたその瞬間、掠れた声が返ってきた。
「さあ。神子に訊いてみないと判らない」
 曖昧な言葉に、目を閉じる。胸の奥がざわざわと痛い。
「明日、訊きに行きます」
 それだけを言うと理沙は立ち上がった。混乱した頭を整理するための時間が少し欲しかった。
「待って」時也が腕を掴んできた。振り返ると、ゆっくりと手を離す。
 時也は自分の鞄の中から一枚の紙を取り出した。栞のような形をした長方形の紙だ。それを膝に置くと、今度は何を思ったか自分の人差し指を強く噛んだ。
「会長!?」
 思わず理沙は叫ぶが、時也は意にも介さない。よほど強く噛んだらしく、人差し指は赤く血で滲んでいる。その血に濡れた指を、時也は膝に置いた紙へと滑らせた。さらりと指を動かす。
「あ、あの、会長……?」
「持ってて」
 言うなり、その紙を理沙に押し付けてくる。半分身を引きながら、理沙は目を見開く。
「は、はい? なん」
「気味は悪いかもしれないけど、必要なものなの。素直に受け取ってよ」
 人差し指を口に含み、時也がひどく疲れた口調で言う。理沙は呆然とそれを受け取った。文字か、模様か、文様か、よく判らないくねくねした赤い飾りが踊っている。
「護符。お守りの札だよ」
 時也は言いながら、理沙の鞄を放ってきた。受け取り、首を傾げる。時也は軽く肩を竦めた。
「鬼に喰われ始めた鬼宿は、身近な人間から襲いだす。家族、友人だね。そうすることで、鬼は鬼宿が人である『場所』を消そうとしているんだと思う。今回松風が襲われたのはそのせいだろうね。君はもう充分ほたるに関わりすぎた。松風の次は君である率が高い。持っていて」
 その言葉で、知りたくもない事実がふたつ、判ってしまった。
 理沙は護符というその紙を握り、俯く。
 ひとつは、時也が夕刻――ほんの少し前のはずなのに、もう随分前のことのような気がした――口にした言葉の意味だ。「僕は家族を喰ったんだよ」。あの言葉は、鬼宿として鬼に抵抗しつつも抗い切れなかった部分の結果なのかもしれない。彼が本当に、言うとおりの鬼人というやつであるならば、だ。けれど否定するような要素は、理沙には見つけられなかった。
 もうひとつは、ほたるのことだ。時也の言葉を鵜呑みにするならば、あの時、亮にぶつかった歪に捩れた小さな人影は――
「あれは……ほたるなんですか?」
 音になりきれていないほど、微かな声だった。その声を、けれど時也は確かに聞いてくれたらしい。ふっと短く息を吐く音が聞こえた。顔を上げると、時也は空を仰いでいた。遠い眼差しのまま、呟く。
うつつはいつも、残酷だね」
 肯定でしかないその言葉に、理沙は堪らず駆け出していた。

 ◇

 雲間から注ぐ月光に、朱塗りの鳥居が浮き上がって見える。
 月は世々の形見という。けれどそれは少し、感傷に過ぎる気がしていた。昔のことを想うたところで、何が変わるわけでもない。ただ胸の奥が古傷のように痛むだけだ。そう思うのに、この月夜にこの場所に来て、月を見、物を想い、鳥居を見つめてしまうのは、愚かに過ぎる行為なのだろうか。
 時也はぼんやりとその鳥居を見つめていた。湿った風に、鎮守の森はざわめいている。
 濡れぬ雨に抱かれるように、時也は小さく唇を開く。

 身を変へて 一人帰れる山里に
  聞きしに似たる  松風ぞ吹く――

「僕が詠むのは、源氏にも尼君にも失礼かな」
 時也は独りごちると、眼を閉じた。松風の時雨が、今は少しばかり優しい。



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