あした、シュークリーム日和。 第一話


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「あれ?」
 頭上から降ってきたその声は、あたしを凍らせるのには十分だった。右手に学校鞄、左手に買ったばかりのシュークリームの袋をぶら下げたまま、あたしはその場に足を縫いとめられた。
「ゆずちゃん?」
 不思議そうな男子の声。少しだけ眠そうなのは、いつものことで、どことなくトロそうなのもいつものことで。間違いなく、あいつの声だった。
 あー、あー、やーだーなー、なんでかなー、もー。
 ――なんて。心の中で呻いてみるけど時すでに遅し。振り向かないのもおかしいしと、あたしはこっそりため息ついて、ゆっくりゆっくり振り返る。
 白い半袖シャツに、黒いズボン。肩から下げている重そうなバッグには、このあたりではそこそこ偏差値の高い高校の校章。少し長めの髪に、声の通りのトロそうな面立ち。
奏人かなと
 久しぶりの名前を呼ぶと、驚き顔だった奴はにこっと、高校生男子らしくない顔で笑った。
「やっぱゆずちゃんだ」



「そっか。そーだよね。ゆずちゃん、郷屋さとやのシュークリーム好きだもんね」
 にこにこと。人畜無害な顔で笑いながら、奏人は何故かあたしにくっついて歩いていた。
 夕方の商店街。昔ながらのアーケードは、知ってる顔も多い。雑多に行きかう人の中で、時折そこらから声がかかる。
「おんやまぁ。ゆずりん、ひぃさしぶりらねっかて。ここんとこ、なんしてらったね?」
「かなくんもおぉきぃなったねっかてぇ」
「高校入ってから七センチ伸びました!」
「そりゃすんげぇて!」
 元々がチビだったんだよバカ。いつのまにか、あたしを見下ろすようになりやがって。
 愛想良くへらへらしてる奏人が何となく気に食わなくて、あたしは歩む足を速める。
「あ、あれ? ゆずちゃん」
 無視。無視だ無視。
「待ってよゆずちゃん、そんなに速く歩いたら」
 無視無視無視無――!?
「ゆずちゃん、あぶないよ!」
「うきゃっ」
 後ろから急に腕を掴まれて、あたしは思わず素っ頓狂な声を上げていた。振り返る。
「なにっ!」
「ごめん、びっくりさせちゃった。でもね、危なかったんだ、ほら。ゆずちゃん」
 奏人は困ったように笑って、そっと道の隅を指差した。
「踏んじゃいそうだったから……」
「また、それ?」
 ぎろりと、奏人をにらみあげる。
 わたしが奏人を嫌いな理由――は、まぁイロイロほんとイロイロ雑多に豊富にあるわけだけど、その代表的なのがこれだった。
「あんたまだ、そういうバカ言ってるの?」
「だって、いるから……」
 困り笑いしながら、道の端を指差す奏人。もちろんその先には何もない。あるわけない。もしかしたら目をよーく凝らせばアリぐらいはいるかもしれないけど、奏人が指しているのはアリではない。
 スカートをはたきながら立ち上がる。
「いるいるいるって、そういうオカルトじみた、非科学的なこと、あたしキライって何度も何度も言ってるじゃん」
「非科学的かもしれないけど、オカルトじゃないよ」
「じゃあなによ」
 むすっとした顔で問いかけるあたしに、奏人は空気を読まない笑顔で言い切った。
「神さま!」
「だからそれをオカルトっていうのっ!」
 小声で叫ぶ、という我ながらなかなか器用なことをして、あたしは再度歩き出す。
 そうなんだ。
 奏人――森繁奏人は昔っからこうだった。自称『神さまが見える』らしい。宗教じゃない。ただ、自然と見えるんだと笑って言う。小さい頃はあたしだって信じてたさ。特にこのあたりは古臭い土地のせいか、氏神様だとかなんだとか、そういうのを否定しない土地柄だから、見えると言う奏人も大人たちからチヤホヤされてたくらいだった。そうだ。小さい頃は別にいいんだ、それだって。
 ただ――
「あんた高一になってまでそれ言い続けてたら、本気で頭おかしいヤツだよ」
「ゆずちゃんひどい」
「ひどくない、普通!」
 あたしの言葉に、ちょっとだけ困ったように微笑んで。
 それから、恐る恐ると言った様子で奏人はこう切り出した。
「ゆずちゃん。あの場所でシュークリーム食べない?」



 あたし、加納柚李葉ゆずりは、十五歳にはキライなものがいっぱいある。
 例えばバカとか、ばかばかしいヤツ。
 あたし、加納柚李葉、十五歳には好きなものもひとつだけある。
 それが――
「ゆずちゃん、ほんと郷屋のシュークリーム好きだよねえ」
 奏人がなんだか嬉しそうに呟いた。
 ……そう。商店街の一角にある、ちいさな洋菓子店『郷屋』のシュークリーム。あたしはこれに目がなかった。好き。超好き。やばい。決して有名じゃない、ホント地元のちいさなお店のクセに、味がはんぱなく美味いんだもん。
 粉糖のかかったシューの表面は、さくっとしてて歯ごたえがあるのに、その下はむしろふわっとしていてやわらかい。シューだけでもほんのり甘いくせに、べたべたしてない程よい甘みと香ばしさ。そしてシューに包まれたクリームは、ホイップとカスタードの二層だ。単独だとむしろ甘みがあまりないホイップと、卵の風味が活きているカスタード。そこにアクセントとして香るバニラビーンズがたまらない。このホイップとカスタードが、二層のクセに分離しないで交じり合って舌の上を踊るもんだから、もう、もう――
「好き」
「うん。知ってる」
 きっぱりはっきり頷いて、奏人は目を細めながら自分も一口、ほおばった。
 あの場所。
 それはあたしと奏人の昔っからのお気に入りの場所だ。商店街を抜けて、山側へ少し歩いていく。田んぼの前を横切って、神社近くの森を上がってすぐのところ。ちいさな浅い川が流れる場所だった。
 ひさしぶりだな、ここ。
 なんて、あたしがちょっとボンヤリするうちに、奏人は慣れた様子で近くの岩に腰掛けて、あたしを手招きした。緑の匂いがむんっと漂う中だと、バニラの匂いはちょっぴし掻き消されちゃってもったいない気もするのだけれど、あたしは不思議と、この場所でシュークリームを頬張るのが好きだった。
「奏人、まだここ、来てるの?」
「うん。よく来るよ。ここ好きなんだ」
「そう」
 あたしは久しぶりだった。
 幼稚園、小学校、中学校と、あたしと奏人は大概一緒に過ごしてきた。神さまが見える、なんてバカな事言い続ける奏人に、あたしはよく付き合っていたもんだと自分で思う。幼馴染の腐れ縁って、なかなか怖い。
 けど、高校は別々になった。あたしより奏人のが頭が良かったのが大きな原因だ。
 七月。高校に入って最初の期末がもうじきやってくる。そんな時期に、あたしたちは久しぶりに再会したんだ。
 だから、だと思う。
 正直会いたくなかったんだけど、あたしは誘われるがままこの場所に来て、こうして並んでシュークリームを頬張っている。
「ゆずちゃん、もうすぐ試験?」
「……言うかね、それを」
「あ、ごめん」
「あーもー、もー、美味しくシュークリーム食べてるんだから思い出させないでよね」
「ごめんー」
 笑う奏人の頭上を、ざあっと風が吹き抜けていく。
 ふっと表情を変え、頭上に目をやり、奏人は嬉しそうにこちらを振り向いた。
「ゆずちゃん、いま」
「……神さまネタなし」
「え。……えー」
 やっぱそうか。この野郎。
「あんたホント頭おかしいって思われるよ、高校で。大丈夫なの、そんなんで」
「言わないよ」
「え?」
 きっぱり断言されて、あたしは思わず目を瞬いた。
「言わない?」
「うん。言わない。高校入ってからは他の人には言ってないよ」
「……じゃーなんであたしには言うのさ」
「ゆずちゃんだから。ゆずちゃんだったら、別に大丈夫だから」
 ――。
 なんと言えばいいのか判らなくて。
 あたしは二度、三度、と口をパクパクさせた。金魚みたいだ。それでも言葉が出てこなくて、結局何とかひねり出したのは一言だけだった。
「ばか」
 言うだけ言って、シュークリームの最後のひとかけを口の中に放り込んで。
 あたしはすっくと立ち上がって歩き出した。背中に、奏人の声がかかる。
「ゆずちゃん、またね」



 家に帰って、制服を脱いで、あたしはベッドに横たわる。
 大きく息を吐いた。
 なんかまだ、頭がボンヤリしてる。
 奏人は無条件にやさしい。それは別にあたしに対してというわけじゃなくて、誰に対してもだ。あたしはそれが、偽善に思えてうっとうしくて、中学ごろから奏人を疎ましく思うようになった。神さまなんて信じてるところも、見えるなんて言っちゃうところも、無駄に人にやさしくて騙されやすいところも、みんな大嫌いになった。
 それなのに、なんでだろう。あたし、奏人に会えてちょっとほっとしているみたいだ。
「……ばかばかしい」
 軽く頭を振って立ち上がり、あたしは鞄を開けた。課題が出てるから、やっつけなきゃいけない。
 机の上に教科書を広げると、教科書と教科書の間から一枚の紙が出てきた。

『キモイ、死ね!』

「……」
 しばらく無言で眺めて、それからはぁっと大きなため息が出た。
「ばかばかしい」
 呟いて、紙切れを手でちぎってゴミ箱に捨てる。
 何でだろうなぁ、と思う。どうしてこの年になってまで、こんな陰湿で頭の弱そうな真似が出来るんだろう。大体キモイってなんだキモイって。
 そう。どういうわけか、高校生になったあたしはこういう攻撃の的になっていた。
 まぁ、学区でもそれほど頭のいい学校じゃない。それなのに校則とかは意外とうるさくて、どっかに捌け口がいるんだろうとは分析できる。出来るけど、別にそれがあたしに向かなくたっていいじゃないか、と、思う。
 悟られなかった、かな。
 ふと、思う。
 今日のあたし、どっかヘンじゃなかったかな。ちゃんと普通にしてられたかな。奏人、なにか感づいてたりしないかな。大丈夫かな。
 大丈夫だろうとは、思うんだ。実際あたしはべつにそんなダメージうけちゃいない。こういうのやるほうが頭弱いってことくらい判ってるし、やられる側にも理由はあるかもしれないけど、大概そんなの後付でなんとでもなるヤツで、大した理由じゃないってのも判ってる。だから別にダメージはないし、家族にだって気づかせていないはずで。だからたぶん大丈夫なんだけど、ちょっと不安なのは奏人が奏人だからだ。
 あたしのことは、たぶん、母さんより父さんより、奏人のが知ってるから。
「……だいじょぶか」
 きっと、問題ない。だって奏人、今日だって何も言わなかったじゃん。
 小さく自分に頷いて、あたしはノートと教科書を広げた。窓の外で、かすれたようなセミの声が一回だけ、聞こえた。


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