第二章 :  閉ざされた世界の中で  


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 何が起きたのか、全く理解出来なかった。理解るのはひとつ、ただただ人が消えたという事実だけだ。
 半ば呆然としたまま教室を出て、廊下に立ってもそのことは変わらなかった。どの教室からも、人の気配がしない。あやはその事実を受け入れるのに、ずいぶん時間がかかった気がした。しばらく廊下に棒立ちになって、人気のない校舎の空気に肌をさらす。
「あやちゃん!」
 背後から声が聞こえた。ほとんど反射的に振り返ると同時に、腕の中に小さな体が飛び込んでくる。二つ結びのふわふわの髪。梨花だ。
「梨花」
 とにもかくにも誰かがいたこと、その誰かが梨花であったこと。二つの理由の重なった安堵の息をついて、あやは梨花の小さな体を抱きしめた。微かに、柔らかな香りが漂う。梨花がつけているフィオルッチの香水だろう。その香りを深く吸い込んで、ゆっくり息を吐いた。
「良かった、梨花がいて……」
 一人でいればパニックは免れなかった。それは事実だろう。だけど、梨花がいた。幼い頃から姉妹同然に過ごしてきた梨花がいてくれたことが、今は何より心強かった。
 梨花も梨花で、あやの体に触れたことで安堵したのだろう。ふぅっと大きく息をつくと、少しだけ身を離してこちらの顔を見上げてきた。いつも子供じみた表情が浮かんでいる顔が、さすがに今は少し強張っている。
「あやちゃん、大丈夫?」
「どう、かな」
「これ、どうなってるか、説明できる?」
 体は離しても、手は離してこなかった。細い指が、きゅっと強くあやの手を握っている。相変わらず小さい手だな、とぼんやり考えながら苦笑を浮かべて見せた。
「全然。地震……かな。なんか気づいたら、チイもユキもみんないないでやんの」
「同じだよ。梨花もそう。授業終わるかなって時に、教室ががくんってなって、それで誰もいなくなってたの」
 説明になっていない梨花の言葉に、あやは強く目を閉じた。驚きのせいか、それ以外のせいか、苦しいくらい鼓動が速い。梨花と繋ぎあっている手が、熱を持って痺れていた。全身を流れる血のリズムを、確かに自身で感じる。
「あやちゃん」
「梨花、あのさ」
「大丈夫だよ。大丈夫だから」
「梨――」
「あやちゃん。変なこと考えちゃだめだよ」
 あやが言いかけて飲み込んだ台詞を、梨花は全て判っているかのような口調で遮った。色素の薄い茶色のまなざしが、射抜くようにこちらを見据えていた。その瞳の中に、弱々しい表情の自分を見つけ、あやはため息を押し殺した。
「ごめん」
「ううん。ねぇ、あやちゃん。梨花とあやちゃん、二人だけなのかな」
 廊下を、窓の外を見ながら、梨花が静かに呟く。あやも視線を走らせたが、人影どころか、人の気配も感じない。また降り出したらしい雨がものも言わず糸を引いているだけだ。湿気た廊下の空気が重くまとわりついてくる。
 と、梨花が強く手を引いてきた。同時に廊下に足音を響かせて歩き出す。上履きがない学校なので、梨花のローファーの音は甲高く響いた。
「梨花?」
「こっち」
 一言だけ言い切ると、その後は無言で足を進めていく。無言の梨花に手を引かれて、あやも何も言わずについていった。チャイムが鳴った。四時間目が終わる合図だ。それと同時に、梨花の歩みが徐々に速くなる。気づくと、走り出していた。身長差からくる歩幅の違いがあるので、あやにとってはさほど苦労はないが、それでも走り出した梨花の背中に問いかけたい思いは募る。廊下をぬける。階段を下りる。踊り場をまわり――
「っと」
 梨花が唐突に足を止めた。小さな背中にぶつかる寸前であやも足を止め、そこでようやっと気づいた。
「井伊ちゃん!?」
 梨花の前、あやの担任でもある井伊太蔵が強張った顔で立っていた。どうやら太蔵は階段を上がってきたところらしい。急いできたのだろう、若干息が弾んでいる。
「前田ズか」
「ズ言うな」
「二人だけか」
 硬い声で問われ、あやは梨花と視線を合わせた。梨花が頷く。
「そうだよ。二人だけ。ねぇ井伊ちゃん。これ、どういうことか、知ってる?」
 言葉はもはや糾弾のような強さを秘めていた。「梨花」諌めようと制服の袖を引っ張るが、梨花は振り返ることもなくあやの手を払ってきた。太蔵を見上げながら静かな口調で続ける。
「誰もいないの。地震の後、気づいたら誰もいなくなってた。梨花とあやちゃんだけだったの。だけど、井伊ちゃんはいる。なんで? どういうことなのか、知ってる?」
「さあな」
 短い一言だけを吐き、太蔵が背を向けた。芸術メディア系列だけが使用する白衣型の青い作業服の背中には、生徒たちにポスカで落描きされたらしい『いいセンセー☆』だの『井伊太蔵此処に参上』だの『銀塩フィルムのある限り、俺はアナログを愛し続ける』だのの文字が彩り鮮やかに踊っている。それをそのままにしておく太蔵も太蔵だが、今のこの状況ではその文字が妙に浮いていて、気味が悪くさえ思った。
「井伊ちゃん!」
「連いて来い」
「どこへ――」
「いいから」
 それ以上何も言わず、太蔵は歩き出す。あやは梨花と一度顔を見合わせ、どちらからともなく小さく頷いた。太蔵はおそらく確実に、何かを知っている。今のこの状況では、それがどうであれ、頼るしかない。梨花の細い指に手を絡ませて、あやは再度漏れかけた嘆息を飲み込んで歩き始めた。
 閑散とした校舎内には妙な不気味さだけが残る。三つの足音だけがばらばらに響いて反響する様は、不安感を煽り立てた。無言のまま、歩みを進める。途中、購買に立ち寄った。当然無人だったが、太蔵は傍の箱に小銭を置いてパンと飲み物をいくつか購入した。あやも梨花も何も買う気にはならなかったが、数を見る限りどうやら自分たちの分も含まれているらしい。昼食なんて、この状況で食べる気にはなれないが、金を払ったのは太蔵なので別段文句もなかった。再び歩き出した太蔵にくっついて、歩き出す。
 話し声がない校舎が、これほど静まり返るものだとはあやは知らなかった。普段は意識せずとも、賑やかさが閉じ込められていたのだと改めて認識する。賑やかな校舎が日常で、つまりこれは非日常に値する状況だと、それも改めて認識せざるを得ない。太蔵の背中を追って、歩を進める。ふと気づく。この道なりは――
「井伊ちゃん」
「悪いが今は好き嫌いを省いてくれ」
 あやの言いかけた言葉を予測したのだろう、太蔵が先手を打つように言葉を紡ぐ。そう言われてしまっては、どうしようもなかった。確かにこの状況下で、好き嫌いで物事を判断するのは意味のないことだろう。それがあやにとってはどれだけ嫌であろうとも。
 諦めておとなしく連いていく。そして案の定、あやの嫌いな場所へとたどり着いた。
 保健室。
 太蔵が保健室の扉に手をかける寸前、梨花があやを気遣うように振り返ってきた。大丈夫だ、と微笑んでみせる。ゆっくりと梨花の手を解いた。
「椿」
 太蔵が、呼びかけながら扉を開けた。呼びかけると言うことは、呼びかけに答える誰かが存在すると言うことだ。実際、そのとおりだった。開かれた扉の向こう、机に頬杖をつき花瓶にいけてある百合を見下ろしていた男が、はっと顔を上げる。
「太蔵ちゃん」
 がたっと椅子を鳴らして椿が立ち上がる。その目が太蔵の後ろに立つあやたちに向けられた瞬間、椿の顔が引きつった。
「いた……の」
「ああ」
 呟きのような椿の言葉に、太蔵が無造作に頷いた。保健室内に入り、少し前は松本教師が座り込んでいた――今は無人のままの――ソファに腰を下ろす。太蔵がそうする間、あやも梨花も、そして椿でさえも動かずに棒立ちになったままだった。太蔵が、視線を上げる。
「椿」
「え。ああ、ごめんなさい。――二人だけ、ね?」
「おそらくな。びびってどこかに隠れたりしてない限りは」
「誰も隠れやしないでしょうよ。こんな、人がいない状況で」
 嘆息とともに吐き出された椿の言葉が、重く保健室の空気に沈む。あやは梨花と顔を見合わせて、思いっきり眉間に皺を寄せた。
「ちょう待てよ、てめぇら」
 自分でも驚くほど剣呑な声が吐き出された。制御できず、言葉が溢れ出てくる。
「どういうことだよこれ。てめぇらだけでぐだぐだ話すすめやがって。何なんだよ、何か知ってんのかよ。ふざけんな、訳わかんねぇ! チイとかユキとか佳代とか、みんなどこ行ったんだよ!? 何で誰もいないんだよ、てめぇら何知ってるんだよ!」
「落ち着いて頂戴」
 ぴんっと張り詰めた声で言われ、あやは思わず言葉を呑み込んだ。椿が、真剣な眼差しでこちらを見据えていた。
 一瞬、ぞっとした。底の見えない海か何かのように瞳は暗く沈んでいて、ほんの少し前にはチイたちにやり込められてふざけあっていたはずなのに、その面影がなかった。カーテンを引いたときの穏やかささえも、見えない。
 既視感が押し寄せてくる。あの目だ。あの、桜を見上げていた目と、同じ――
 あやが動けずに見上げていると、椿がゆっくり口を開いた。瞳はやはり、暗いままだった。
「混乱するのは判るわ。アタシだって驚いてるのよ。アタシも太蔵ちゃんも、どうしてこうなったのかなんて知らないわ。だけど今、混乱してパニック起こして、何か得があるかしら?」
 問われてあやは唇を噛んだ。そんなのあるわけがない。判ってて訊くのは卑怯だと思った。
「ないでしょう? だからとりあえず、落ち着きましょう。混乱した頭で何考えても、何にも浮かばないわ。それから」
 椿が大きく息を吐き、首を回した。ソファに座っている太蔵のほうを向き、腕を組む。
「太蔵ちゃんも! 悠々とソファに座ってないで、あなたの生徒を先に座らせなさいっ! ほんっとに、マイペースにも程があるわよあなた」
「マイペースうんぬんはお前には言われたくない」
「減らず口叩いてないで、ほら立って。お茶入れるから、手伝って頂戴」
 椿に叩かれて、太蔵が不機嫌そうな顔で立ち上がる。その様子を見ながら梨花が首を傾げた。芸術メディア系列の担当教師と、養護教諭。普段は関わりがなさそうな二人なのに、口調は砕けまくっている。
「二人って、仲いいの?」
「よくない」
 断言は、太蔵だ。椿はどうともいえない顔で梨花に微笑みかけている。
「腐れ縁、ね。高校が一緒だったもんだから。まさか就職先まで一緒になるとは思わなかったけれどねぇ」
「偶然を呪いたい」
「あんたそこまでアタシが嫌い!?」
「知らなかったのか? めでたい脳みそしてるな」
「ああ、はいはい、そーね。そーね。もういいわよっ」
 手にした紅茶の缶を太蔵に投げつけ、椿が保健室の隅にあるコンロへと近づいていく。その途中、ふっとあやを振り返ってきた。
「座って待ってなさい。今お茶入れるから。とにかく落ち着かないと、ね?」
 どうにも釈然としない思いはくすぶっていたが、促されるままあやはソファに腰を下ろした。あまり柔らかさのないクッションが、今はちょうどいい。「あやちゃん」と声をかけられ視線だけ向けると、梨花があやの隣に腰を下ろしていた。視線はあやを向かず、正面――正確には、椿と太蔵の背中に向けられている。
「あの二人、どう思う?」
 囁くような声音は、おそらくあやにだけ届いただろう。椿にも太蔵にも聞かれない、そんなボリュームに絞られた声に、あやはすっと目を細めた。
「さあ。知らない、って言ってるからな」
「信じる?」
「一条は却下。井伊ちゃんは、信じたいけど」
「梨花、二人は嘘つけないタイプだと思うよ」
「まぁ、井伊ちゃんは素直っちゅーか愚直っちゅーか、そんなやつだけどさ」
 担任として、担当教科の教師として、関わっているのはここ数ヶ月だけだが、それでも井伊太蔵という男がばか正直な人間だということはあやにも判っている事だった。基本的に言葉をオブラートで包むということを知らないのか、素直な言葉をぽんぽんと吐く。そこが生徒にも受けているのだから、彼が嘘をつけるかと言うとどうにも疑問が残る。
 あやの言葉に、梨花は一瞬考え込むように指先で自らの唇をなぞった。梨花の勘は、当てになる。少なくともあやは、当てにして過ごして来た。その梨花が『嘘はつけないタイプ』というのだから、信じていいのかも知れないが、それでもやはり奇妙さは残った。
「――嘘はつけない、と思う。でも、それだけ」
「それだけ?」
「梨花はあやちゃんほど素直じゃないよ、ってこと」
 言うなり、梨花がすっと立ち上がった。水の入ったやかんを火にかけている椿の傍に歩み寄っていく。
「梨花?」
 慌てて背中に呼びかけると、梨花は小さく振り返ってきて笑みを見せた。ひょい、と小さな肩をすくめる。なんでもないよ、とでも言うように。
「椿ちゃん、梨花のお砂糖たくさん入れてねー」
「あら、甘いの好きなのね」
「うん。あやちゃんはお砂糖なしね。梨花のはお砂糖と、蜂蜜入れてー」
「甘そうねぇ……」
 唐突に和やかな会話を始めた二人に、あやは呆気にとられた。梨花の真意が判らない。ぼんやり見やっていると、カップを用意していた太蔵と視線が合った。反射的に睨む。が、太蔵は特に表情に変化を見せず、用意を済ませるとソファに座るあやの元へと歩み寄ってきた。
「硬いな」
「この状況で平然としてる井伊ちゃんたちのほうがおかしい」
「俺だって驚いてる。が、椿の言ったとおり混乱したってどうしようもないからな。とりあえず開き直ってみただけだ」
「意味判ンねぇよ」
 息を吐く。その間に太蔵は、ソファに無造作に放り出してあったビニール袋をごそごそといじり、中身を取り出す。『こだわりパン屋のメロンパン』『メープルメロンパン』『ホワイトチョコメロンパン』『いちご果汁入りメロンパン』『さらさらシュガーメロンパン』『クッキー生地が美味しいさくさくメロンパン』――出てきたパンを見下ろし、あやはぼそりと呟く。
「……井伊ちゃん、メロンパン好きなのか?」
「メロンパンが嫌いな人類など存在しないだろう」
 真顔で断言され、あやは馬鹿馬鹿しく緩む口元をどうすることも出来なかった。真剣なのか、太蔵なりの冗談なのかさえ判断できないが、どちらもありそうな気がするのがどうしようもない。しかしあの購買に、何故これだけメロンパンの種類があるのか。太蔵のせいなのだろうか、購買のおばちゃんの趣味なのだろうか、と考えるうちに、太蔵が今度は袋からパックのいちごミルクを取り出す。一つだけだが、この面子で飲みそうなのは梨花だろう。
「このいちごミルクは、梨花の?」
「俺のだ」
「……あ、そ」
 相変わらずの無表情でいちごミルクを飲みだす太蔵を見つめて、あやは投げやりに頷いた。人の味覚に口を出す趣味はない。
「少しは落ち着いたか」
 隣に座るなり、太蔵が低く問いかけてくる。あやは太蔵を見る代わりに自身のひざを見つめ、肩を落とした。
「何にも判んないのに、落ち着けるかよ」
「そうか」
「なぁ井伊ちゃん。何か知ってんだろ?」
「知らん」
 にべもなく言い切られる。無造作にメロンパンをひとつ差し出されて、とりあえず受け取って口に運んだ。一口で飽きた。パンが美味しくないと言うよりは、単純に食欲がない。『さらさらシュガーメロンパン』を袋に戻して、ゆっくりもう一度ため息をつく。


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