第二話

 それから少しずつ、わたしはわたしであることをやめた。甘いモノは大好きだったけど、醍醐潤はそうでもないらしかったので、食べなくなった。一人称は俺にした。感情を表に出すわたしと違って――まぁ、わたしも大概大げさに出すようにしてたけどね、処世術としてさ――殆ど表に出さない醍醐潤にならって、表情を薄くしていった。
 これが思ったより、苦ではなかった。ただただ、つまんないだけで。
「潤さま、お茶をお持ちいたしました」
 控えめな声が扉の向こうから聴こえる。世話係の矢代美月さん――最初に目覚めた時にいた女性だ。一つ結びの黒髪に控えめな和装が良く似合う、三十代半ばくらいの女性だ。
「ありがとう。開いてるよ」
 声をかけると、そっと扉が開かれた。ふわっ、と甘酸っぱい香りが漂う。いつものラズベリーティーだ。潤さまは甘いの好きじゃないくせに、紅茶だけはこれを好んでいたらしい。
「落ち着かれましたね?」
 カップをテーブルに置いた矢代さんが微笑む。
「そう?」
「起きたばかりの頃は、興奮されていましたから」
 苦笑してみせる。
「奥様もとても心配してらっしゃいますから。たまには降りてらっしゃってください」
「……気が向けばね」
 いやそうに、短く。潤さまはどうもこういう物言いをする人だったようだ。いろいろ試してみて、周りの反応から理解した。矢代さんは困ったように微笑んで、何も言わずに出ていった。たぶん、彼女にとってはこれがいつもどおり、なんだろう。
 ふっ、と短く息を吐く。部屋の中には娯楽らしきものが殆どなかった。何を楽しみにしてこの潤さまは生きていたのか、さっぱり判らない。でも、大庭めぐの空っぽの人生よりはいい。
 両親も適度な距離を持ちながら、だけど優しくしてくれる。矢代さんも。安里さんも。
 なんて贅沢なんだろう。
 朝起きてから夜寝るまで誰かの笑顔が常にあって、食卓にあふれんばかりに並んだ食事と、あたたかいベッドと、望めば望むだけの勉強をする権利。そういうのが、あるところにはあるんだ。
 その贅沢さを妬み味わいながら、一週間が過ぎようとした頃には、もう、大庭めぐの中に確かに醍醐潤が生まれ始めていた。

◇

「潤くん? 入っていいですか?」
 扉越しに、安里さんの声がした。どうぞ、と声をかける。安里さんと二人のときは、まだ自分は大庭めぐだ。
「いかがですか?」
 いつも通りのにっこり笑顔で入ってきた安里さんに、軽く頷いてみせる。
「身体はもう大丈夫です。ごはんも食べれてますし」
「じゃあ、こっちは?」
 とん、と安里さんが軽く自分の胸を叩いた。苦笑してみせる。
「ええ、まあ。なんとか」
「ゆい子さんがいらっしゃってますが、どうします?」
「ああ……」
 ちょっとだけ、面倒くさそうに顔を歪めてから。にこり、と取り繕ったような笑みを浮かべてみせた。
「大丈夫です、呼んでください」
 すぐに、ゆい子さんがやってきた。礼儀正しく頭を下げて、行儀よく部屋に入ってくる。あの日とは違う柄の着物姿だ。
「お元気そうですね」
「まぁね」
 短く、冷めたように。それが、醍醐潤らしいから。
 ゆい子さんはゆるやかに微笑んでいる。
 ――この一週間、調べられる限りのことを調べた。安里さんに聞いたり、部屋を漁ったりしてある程度、判ってきた。
 ゆい子さんの家である御影家と醍醐家は家族ぐるみで付き合いがある。だけど、家の格が違った。調べた限りだと、醍醐家はずいぶん古い家柄だ。少なくとも江戸時代にまでは遡れるし、もしかしたらもっと前から続いているかもしれない。それに比べ、御影家の歴史は浅かった。昭和初期の貿易からの成り上がり。重みが違う。どこまでも和なこんなゆい子さんのナリだって、そう思うと形ばかりの代物だ。御影家はそれでも、仕事柄現在の醍醐家――実はお父さんは政治家さんだった――と付き合いがあって、結果ゆい子さんと自分は婚約させられた、らしい。
 現代に相応しくない、馬鹿馬鹿しい話。だけど、これも現実らしかった。くだらないお話のようで反吐が出る。
「お元気なら、何よりです。またお話してくださいね」
 この間と同じように、ゆい子さんは可愛らしく微笑む。ただ、どうしてだろう。初めて逢ったあの日のようにどきどきはしない。なんだろう――どうしてだろう。その笑顔が、胡散臭くさえ思える。それはたぶん、嫉妬という心のフィルタのせいでもあるけれど。
「何しに来たの」
 思わず低く、声が出た。部屋の中に冷たく響く。ゆい子さんはそれでも、薄く笑みを浮かべたままだ。
 ――仮面みたいに。
「何しに、と今日はおっしゃいますのね」
「言うだろ、普通。こないだと同じ事しか言わないで。またすぐ帰るんだろ?」
「……琴のお稽古がありますので」
「俺より大事?」
 さらりと、意地の悪い質問を投げてみた。けれどゆい子さんは小首をかしげて、サラリと黒髪を揺らすだけだった。あの日のように、表情を揺らがせもしなかった。
「おかしなことをおっしゃいますのね」
「そう?」
「試してらっしゃるようですわ」
 言うなり、ゆい子さんはすっと立ち上がった。そのままぺこりと、頭を下げる。
「失礼します」
 ――何、その態度。頭を下げているゆい子さんの姿がゆらりと歪んだ気がした。違う。これは、苛立ちがそう見せているだけだ。だって、判るから。これはどうしたってそう――
 馬鹿に、されている。
「どういうつもりだ」
 ゆい子さんが顔を上げる。すごく澄んだ瞳を、まっすぐ、こちらに向けてくる。
「何がですの?」
「俺の婚約者だろ?」
「ええ。ゆい子は潤さまと婚約しております」
「だったら――!」
 何故馬鹿にした態度をとるのか。
 声を荒らげかけた時、すっとゆい子さんの人差し指が遮った。
 醍醐潤の唇に人差し指をつきつけて、彼女は穏やかな無垢な顔で首を傾げた。
「何を勘違いされてらっしゃるのかは判りませんけど、ゆい子は潤さまのことを好いているわけではありませんのよ?」
 何でだろう。
 醍醐潤のことを彼女がどう思っていようが、大庭めぐにはどうでもいいことのはずなのに。
 何故だか、頭を殴られた気がした。
 喉が痛い。なんだろう。無理やり何かを飲み下した時のような。ううん、違う。何かが、こみ上げてくるときのような。それなのに、吐き出せないような、そんな痛み。それは、潤に対して言われたことへの感情なのか、それとも、ゆい子さんへの感情なのか。それすらも判らない。でも。
「それで、いいのかよ」
 我知らず、ゆい子さんの細い腕を掴んでいた。詰め寄っていた。人差し指一本で遮られた境界線を、この手が、足が、超えていた。
「好きでもない奴と、婚約して? 自分の意志もなくて? ふわふわ笑ってる人形みたいな、そんなんでいいのかよ!」
 自分の喉から出たのは、言葉と言うよりはただの怒声だった。誰に対して、何に対して怒っているのかも判らない。そんないらだちを、ただ、ぶつけていた。
 ゆい子さんは少し驚いたように目をぱちくりとさせていた。子どもみたいに、無垢に、こちらを見つめていた。
「ゆい子は……御影ゆい子です。背負っているものも、あります。ですから自分の身の振り方も自分だけでは決められませんわ。それを不幸だとも思いません」
「なん……」
「ゆい子はゆい子ですもの。変わりませんわ。でも」
 ゆい子さんはほんのりと、ちいさく、笑った。
「そんな風におっしゃる潤さまでしたら、興味はあります」
 ――なんだ、それは。
 一瞬虚をつかれて呆然としたこちらの手をほどいて、ゆい子さんはするりと身を翻した。そのまま、「失礼します」と声を残して去っていってしまう。

 ――訳が、判らん。

◇

「潤さま?」
 驚いたような声がかけられて振り返る。
 制服姿のゆい子さんが、お友達たちと一緒に廊下に立っていた。目がまんまるだ。
「いらっしゃったのですか? お身体は……」
「平気」
「ですが」
「帰り、迎えに行く」
「え?」
 きょとんとするゆい子さんに、にやりと笑みを向けた。
「そのために来たんだけど?」
 ゆい子さんの両隣にいた女の子がきゃー、と声を上げる。その声を無視して、歩き出した。男物の制服。しかも、日本でも有数の私立有名高校の制服なんて、着ることになるとは思わなかった。意外と、着心地は悪くない。
 学校に来ることはさすがに心配された。両親も、矢代さんも、安里さんもそれぞれ、もう少しだけ休んだほうがいいと言ってきた。そりゃ、そうだろう。特に安里さんはひどく心配そうだった。彼は、この中身が大庭めぐだと知っているのだからなおさらだろう。
 だけど、行きたかったんだ。学校に行って、そこでゆい子さんに会ってみたかった。家の外で。
 仕方ないじゃないか。だってなんか、気になった。御影ゆい子なる人物が、何を考えているのか訳が分からなくて気になった。あのお面かなんかみたいな顔を、歪ませてみたくなった。泣かせる方向でもいい。怒らせる方向でもいい。なんでも、いいけど。そしてそれはたぶん、あの無駄に豪華で時が止まったかのような家の中じゃなくて、外のほうがずっとやりやすいとふんだのだ。
 学校生活はなんとかなった。単純に、醍醐潤という人物が殆ど友人を持っていなかったから演じやすかった、というだけだけど。
 口数少なく、人を見るときは冷ややかに。そんな風にしていると何も怪しまれないということは、きっとそういう人なんだろう。この醍醐潤という人間は。正直、クズだった。別に、演じやすいからいいけどね。
 それにしても、同じ高校生活だというのに全く違う。
 そもそも登校自体、車が校門まで乗り付ける生徒のほうが多いとかいろいろ間違っている。芸能人もちらほらいるらしくて、ちょこっと顔を出して帰っていく生徒も多い。教室も冷暖房完備だし校舎綺麗だし広いし、図書室じゃなくて図書館とかあるし。大学かなんかかここは。
 それをここの生徒たちは、さも当たり前のように享受している。
 放課後、ゆい子さんと一緒に校内をブラブラと歩いた。校庭も中庭も、それ以外も。いろいろ、歩くところには困らない。なんて贅沢なんだろう。
「珍しいですわね。潤さまがお誘いくださるの」
「そう?」
「初めて……ではなかったと思いますけれど」
 記憶をたどるように、彼女は視線を空へ投げた。青空がまぶしい。冬の、きりっと冷えた凍える青。でも、この色は好きだ。
「ゆい子は、季節なら何が好きなの?」
「季節ですか。ゆい子はそうですね、秋が好きです」
「どうして?」
「夏は暑くて疲れてしまいますし、冬は手足が冷たくて仕方ありませんもの」
「春は?」
「花粉症にはつらい季節ですのよ?」
 ほんの少し。ゆい子さんはすねたような口振りになった。それがなんだか意外で、小さく笑みがこぼれてしまう。
「潤さま?」
「ごめん。なんでもない」
「――潤さまは、どの季節がお好きなんですの?」
「俺は」
 言いかけて、口ごもった。真っ先に浮かんだのは冬だった。肌を刺すような空気が、容赦ない季節。その残酷さが好きだ。でもそれは醍醐潤ではなく、大庭めぐの感情だ。一瞬迷って、肩をすくめて見せた。
「冬、かな」
 ――言ってしまってかまわない。どうせ、醍醐潤はここにはいない。大庭めぐが大手を振るって醍醐潤の代わりに問いに答えようと誰が困るものでもないだろう。
 ぴた。と、ゆい子さんの足が止まった。数歩いきすぎてから、こっちも足を止めた。振り返る。
 冷たい青の下、ゆい子さんが笑っていた。冬空に早まって咲いた、花のように。満面の笑みを浮かべていた。
 驚いてしまった。心臓が、しゃっくりするように跳ねた。
「はじめてですね」
「え……」
「潤さまがお好きなもの、はじめて、ゆい子は知ることが出来ました」
 答えあぐねていると、ぺこんと、彼女は頭を下げた。
「今日は楽しく過ごせましたわ。また、お話してくださいませ」
 稽古の時間だ、と告げて彼女は立ち去っていく。その背中を見ながら、一つ、短く息を吐いた。
 胸の奥が、小さくくすぶっている。本当は醍醐潤ではないという後ろめたさ。あるいは、ただ好きな季節を告げただけなのにあんなに笑う彼女と醍醐潤との今までの関係に対してのもやもやした気持ち。そんなものがごちゃまぜになって、くすぶっている。だけど。
 空を仰いだ。息を吸った。
 鼻から入ってきた冷たい空気は、体全身を痺れさせていく。それなのに――
 とても、心地よかった。

◇

 御影ゆい子が好きなもの。
 砂糖とミルクのたっぷり入ったカフェオレ。梅の花。数学の動く点Pに、炎色反応。イチゴのミルフィーユ。秋の夕暮れ時。猫。赤毛のアン。アマガエル。それから、放課後の音楽室。
 あの日から毎日、学校に行った。ゆい子とふたりで、放課後やお昼を過ごす。そうしていくうちに、少しずつ彼女が見えてきた。別に、冷たいわけでも醍醐潤を嫌っているわけでもないらしい。ただ、家族を大切に思っていて、家族のために自分を使うことを厭わない。それだけ、のようだった。そのためなら、相手がどれだけつまらなそうな男でも割り切れる。そんなところもある、ふつうの女の子だった。
「こんばんは。潤くん」
 ひとり、夜の部屋で物思いに耽っていると安里さんが顔を出した。机の上に広げていた参考書を閉じて、向き直る。
「どう?」
「なんとかやってます」
「うん。だいぶ落ち着いてきたな、と僕も思うよ」
 安里さんは相変わらず毎晩、軽く会話をしてくれる。大庭めぐのことを心配してくれていて、そして醍醐潤の事も心配しているんだろう。こちらを気遣ってか、醍醐潤の居場所などを聞いてきたりはしないけれど、最近何かと出歩いたり電話をしたりしている姿を見かけるから、もしかしたら彼なりに探ったりしているのかもしれない。
 万が一見つかったらどうしようか、とも思ったけれど、不思議と心配していなかった。
「最近はゆい子さんと仲良しなのかな? 一緒に帰ってきますね?」
「あ、はい。話すと楽しくて」
「そう、良かった」
 大事なことだね、と頷いて安里さんは笑う。
「何か困ったことがあれば、また話してね」
「はい。ありがとうございます」
 十分程度。毎晩の日課を終えて安里さんが出ていく。見送ってから、ふと思い出して目覚ましを見直した。ちゃんとセットされている。
 明日は、はじめてゆい子と一緒に登校することになっているんだ。