第二幕:梔子―ものいはず―  壱


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 ――で、何でこうなる。
 抹茶アイス・ウエハース添えを食卓に並べながら、亮は胸中で呟いた。何で、こうなる。何かおかしいだろ、これ。
「なに不機嫌そうな顔してるのよ、亮。アイス不味くなるじゃん」
 口を尖らせた理沙の言葉に、亮は短くため息を吐いた。
「いや、あのさ。何でこんなことになってるのか説明してくれ」
「アイス食べたいから」
「はいはいそうですね」
 理沙に訊くのが間違っていた。銀色の匙を掴んでアイスに突き立てる。真向かいに座った時也を睨む。
「僕も筑前煮食べたかったな」
「違うでしょうがっ」
「え?」
「何であんたの隣にその子座らせてるんですかっ、何でアイス食べるために一緒に食卓囲ってるんですかっ、おかしいでしょそれっ!?」
「松風。アイスを彼女の前に置いたのは、君」
「知ってますよっ」
 三人だけアイスを食べてひとりには食べさせない、と言う真似はさすがに出来ない。アイスを彼女の前に置いたのは亮自身だ。判っている。問題は、何故彼女が、俯いたまま食卓の前に座っているのか、ということだ。
「ああもう、五月蝿うるさいな。叫ばないでよね。仕方ないじゃない。この子、口開かないんだもん」
 と、時也は隣に座った少女に視線を落とす。彼女の薄い肩が小さく震えた。実際、そうだった。亮や時也が何を聞いたところであの一言以降全く口を利かず、黙り込んだままなのだ。埒があかなかったので、とりあえず食器だけでも片そうと動いたら、理沙のデザートが食べたい攻撃が始まって、今に至る。
 匙を口に運ぶ。ひんやりとした冷たさと、ほんの僅かな苦味を残した甘さが口内に広がる。鼻腔に抜ける香りに、少しだけ落ち着きを取り戻した。肩の力を抜いて、少女に視線をやる。
 無機質な蛍光灯に晒された黒髪は、僅かに緑がかって背中に流れている。黒いブラウスとは艶も違うのに、何故か同化しそうに見えた。驚くほど、薄い。ふっと目を離すといつのまにか消えてしまいそうな薄さがある。物理的なものではないのだろう。物理的にも薄い身体はしているが、違う。存在感が薄いのだ。疑問はある。誰かを殺そうとするような人間が、こんな薄い気配をしているものなのだろうか。ただ、あたりまえだが人生十六年生きてきて人を殺すような人間、に会ったことがないのだから、自分の考えがどの程度正しいのかは全く判らない。
 彼女の持ち物は全て預かってある。とはいえ、ほとんど何も持っていなかったに近い。
 あの黒いポーチの中に入っていたのは、小さな果物ナイフと、ハンカチとティッシュ、それだけだった。携帯電話も、財布も、定期も、小銭入れでさえもなかったのだ。リップクリームやら学生証の類もない。あっけないほど、それだけだった。果物ナイフはとりあえず隠しておいた。松風家の包丁一式と一緒に、台所の一番上の戸棚だ。この小さな少女では、椅子を運んでこないと無理だろう。椅子なんて運べば、さすがに判る。その間に止めることは出来る。
 彼女は俯いたまま、動こうとしない。和食器に丸く盛られた抹茶アイスが、溶け始めている。
「あのさ、溶け始めてるんだけど、アイス。勿体無いから、食べたら?」
 少女が、僅かに顔をあげた。捨てられた子犬みたいな目に、不安が沸く。
「あ、抹茶、駄目な人?」
「え? あ、いいえ……好き、ですけど」
「じゃあ食べれば? ……心配しなくても、毒とか持ってないんで、俺」
 肩を竦める。彼女の目が、数度瞬いた。向かいから、小さな呟きが流れてくる。
「意外とマイペースだね、松風。怖くないの?」
「すうげえ怖いですよ。でも凶器、こっちにあるし、とりあえずは。つうかこの状況招いたのはあんただあんた」
「まあね」
 時也が忍び笑いを漏らす。アイスをたいあげ、少女に目をやる。
「食べないの?」
「人の取ろうとしないで下さいね、先輩」
「しないよ。訊いてるだけ」
 匙を置いて、卓に肘を突く。そこに顎を乗せて、時也が彼女を見つめた。さらりと、髪が揺れる。少女は戸惑ったように、じっとアイスを見つめている。時也がふっと息を吐いた。
「答えないなら質問を変えるよ。何度目かになるけど、何で松風を狙うの?」
「会長、質問ストレートすぎ。いいじゃん、とりあえず食べれば? 美味しいよ」
 理沙が微笑む。亮は最後のウエハースの欠片を口に放り込んだ。
「片付かないし、とりあえず食べたら?」
 これだけ言われると、抵抗しづらいのだろう。戸惑い顔のまま、細い指が匙を握る。アイスを掬い、小さな唇に運ぶ。少女が、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「美味しい、です」
 幼い物言いに、少し気が緩んだ。有り難うと御免なさいと美味しいを言える人間に悪い奴はいない。生前祖母の口癖だった。全てを信じるわけでもないが、少しは確かな部分もあるだろう。そう思うからこそ、疑問が深まる。――何故、狙う?
「可愛いね」
 理沙が微笑む。事態を何処まで把握しているか判らない物言いではある。
「何年生? 中学生かな?」
 匙を咥えたまま、少女が動きを止めた。目を大きく見開き、ふるふると首を左右に振る。
「あれ、じゃ、小学生?」
 理沙が笑いかけるが、少女はさらに強く左右に首を振った。匙を置き、細い声が漏れる。
「あの。同じです」
「はへ?」
「年齢。十五……高一、です」
 囁かれた言葉に、一瞬全員の動きが止まった。少しして、時也が呟く。
「見えないね」
「会長、失礼」
「何でさ。僕は君たちの気持ちも代弁して言ってあげただけじゃん」
 事実だった。いつも長身の理沙を見ているせいもあるのだろうが、この小柄で頼りなげな少女が亮と同年齢だとは正直見えない。
 時也が肩を竦めた。
「高一、ね。学校は? 家はこの辺りなんでしょ」
 その言葉に、少女が小さく肩を震わせた。怯えている。理沙と目を合わせ、亮は首を傾げた。
「家が近所って……何で判るんですか?」
「莫迦。君たちには考える脳は無いの?」
 莫迦呼ばわりされて、理沙が不服そうな顔をする。事実かどうかは固く唇を結んだ彼女からは窺い知れないが、何故時也がそう断言するのかも良く判らない。理沙がふん、と鼻を鳴らす。
「会長むかつく」
「ありがとう」
 にこりと微笑む時也からついと視線を外し、理沙は「あ」と声をあげた。
「もう九時じゃん。明日練習なのに」
「おや。僕もそろそろ帰りたいな。どうするの、松風?」
「え? どうするって」
「この子。外、放り出す? 警察呼ぶ?」
 時也の言葉に、また彼女が震えた。問われて、口篭もる。理沙に視線をやるが、首を傾げられるだけだ。亮はどうすることも出来ず、身じろぎした。尻ポケットに突っ込んだままの携帯電話を意識する。一一〇番を押せば、解決できるものなのだろうか。
「本気なの?」
 ふいに、理沙が口を開いていた。少女を正面から覗き込み、真剣な眼差しを送っている。
「その『殺す』とかって、何かの符号とかじゃなくて、言葉の意味としてそのまんまで? 本気で言ってるの?」
 一瞬の沈黙の後、こくんと首が縦に振られた。
「理由は? あるんでしょ?」
 今度は暫く待っても、動きも反応もない。ふう、と長い息が漏れる音がした。時也だ。
「埒があかない。お手上げだね。どうするのさ、松風。警察?」
「え、いや。それはちょっと……ええと、どう、しよう。先輩」
「はい? 何で僕に聞くの。自分で決めなよ、自分の事でしょ」
「そんなこと言われても」
 こんな時どう判断すればいいのかなんて判らない。習ったことも、経験したことも無いのだ。
「素直に外に放り出すか警察をお勧めするよ」
「何か酷くないですか、それ」
「あんだけビビっておいて、まだ同情するの? 莫迦だね」
 言葉に詰まる。時也の言うことは尤もだ。あのチャイムの時に感じた恐怖感は、まだ腹の底で渦を巻いている。それなのに、警察は躊躇っている。あの夜の瞳が、躊躇わせている。
「泊まれば?」
 唐突に、言葉は割り込んできた。理沙だ。
「……は?」
「お泊り。どうせ理由喋らない、警察行きたくない、動かない、じゃ埒があかないし。お泊りどう? この家、無駄に部屋はあるし」
「ちょ、ちょっと待て理沙」
「あ、いいね。そうしようか。明日学校休みだし、僕も泊まろうかな」
「えー、会長も泊まるんですか? じゃあ、あたしもー。着替えとか持ってこようっと」
「待て待て待て、待てこら理沙っ」
 立ち上がり掛けた理沙を慌てて引き止める。
「どういうつもりだよ」
「だってあんたに任せてたら本気で埒があかないんだもん」
 言い切られ、言葉に詰まる。優柔不断なのは昔からだ。高校だって、結局選んだのは理沙の誘いがあったからで、こういう事態にさくさくと道を示していくのは子供の頃から理沙の役目だった。その理沙が、ふっと顔を寄せてくる。囁き。
「本気だとは、あたしは思えない。思いつめた様子はあるけど、本気ならこんな愚かな方法は取らないでしょ。何か裏があると思うよ。大丈夫、あたしも会長もいるんだから」
 視線を時也に移すと、彼は微笑んでいた。余裕がたっぷりと含まれた微笑に、息を吐く。
 本気になればフォークでもあるいはボールペン一本でも凶器にはなるだろうが、さすがにそこまでは気にしていられない。理沙の本気じゃない気がする、と言うその勘に頼るしかない。あとはただ、腹をくくるだけだ。
「先輩、俺の部屋でいいですよね。着替え、どうします?」
「貸して。お風呂も」
「はいはい。理沙、着替え出来たら」
「うん、余分に持ってくるよ。すぐ帰ってくるね」
 理沙がぱたぱたと廊下を駆けて行く。時也が立ち上がって伸びをする。亮はまた一つため息を吐いて、食卓の上の食器をまとめ始めた。
「あ、あの」
 戸惑った声がかけられる。当然だろうな、と思いながら、亮は少女を見た。案の定、幼い顔立ちは戸惑いと困惑を存分に表していた。
「諦めてくれ。理沙がああなったら、俺には手がつけられない。先輩もだけどな」
 肯定するように、時也が満面の笑みを浮かべる。
 少女は自分の置かれた状況についていけないのか、ただぽかんと大きな口をあけていた。

 ◇

「あの子、結局何も喋らなかったですね」
 夜。蒲団の中で淡い橙の豆電球を眺めながら、亮はぽつりと呟いた。隣の蒲団で、もぞりと時也が寝返りを打つ。
「喋るわけ無いじゃない」
「そうですか?」
「簡単に口を割る程度の覚悟で、人を殺そうとなんてしないよ。もう寝なよ松風」
 くぐもった声は、眠いのだから喋りかけるなと抗議してきているようだった。諦めて、亮も体の向きを変えた。蒲団の感触はいつもと変わらないのに、昨日までとは決定的に違う現状を確かに感じる。客間では、理沙とあの少女が隣り合って眠っているはずだ。二人を一緒にするのはなんとなく嫌な気もしたのだが、理沙が強引に押し通した。客間と自室は、隣り合っている。壁のすぐ向こうには、あの少女が眠っていることになるのだ。
「隣にあの子がいるんですよ。殺人鬼と隣同士の部屋で素直に寝れるほど神経図太くないです」
「君は十二分にマイペースで図太い神経をしているから平気だよ。それにまだ誰も殺してないんだから、殺人鬼はおかしい」
「まだとか言わないで下さいよ」
 眠たそうにしながらもきっちり返事をしてくるあたり、時也も意外と律儀だなと感じる。
 再度身体の向きを変え、時也を見る。時也はこちらに背を向けたまま背中を丸くしていた。その背中が、言う。
「ある意味間違っちゃいないけどね」
「え、何がですか?」
「別に。何かあれば石川さんが声を出すだろうよ。いいから、寝なよ」
 あふ、と欠伸の音が闇に混じった。

 ◇

 翌日、空はどんよりと重く雲を広げ、梅雨寒の空気が家を冷やしていた。昨日のあの暑さは何処へ行ったのか、と恋しくなるほどだった。ほんの少し、空気が湿っている。もう暫くすると雨が降るかもしれない。
 朝食の卓には、四人全員が揃っていた。少女は亮と目が合うと、消え入りそうな声で「おはようございます」と呟いてきた。挨拶するのか、と拍子抜けしてしまった。時也は亮が貸したシャツとジーンズ、亮自身も同じで、理沙はこれから学校のためだろう、ジャージ姿だった。そして少女は理沙の服を着ていた。薄い山吹色のノースリーブパーカーに髑髏プリントの長袖シャツ、デニムのハーフパンツ。理沙が着ているのは何度か見たことがある。活発なイメージが良く似合っていた。だが、いや、だからこそ、だろうか。
「変なの」
 時也がぽつりと呟く。シャツを引っ張って黙らせようとはしてみたが、理沙も、恐らく少女自身も気付いているのだろう、曖昧な顔を浮かべている。正直、あまり似合ってはいない。
「良い色のパーカーなんだけどね。石川さんには似合いそうだけど」
「あたしのですし。あたしはこれから部活だけど」
 すでにしっかり髪も結ってある。理沙のジャージ姿はよく似合っていた。
「部活か。バスケ部、明日他校との練習試合だっけ」
「あら、良くご存知で」
「僕生徒会長だよ。知ってて当然でしょ」
 言葉を交わす二人の前に、よそったばかりの御飯を置く。隣の少女の前にも。
 驚いたような目が、向けられる。多少困ってしまう。それでも、昨日よりは恐怖心は薄れていた。単純だとは、自分でも思う。けれど、一晩理沙と過ごし、理沙には怪我一つ無かった。もちろん自分にも、だ。安心の材料にはなる。そして疑念を膨らます材料にも。
「さめないうちに食べろよ」
「味は保障するよ、亮、すっごい料理上手だからさ」
 理沙が微笑んでブイサインを出す。名前も知らない少女は、戸惑い顔のまま小さく頷いた。
 白御飯に味噌汁、だし焼き卵に煮豆。ひじきの煮物。煮豆を綺麗な箸使いで口に運んだ時也が、ふうん、と声を漏らす。
「全部松風が作ったの? 器用だね」
「今作ったのは卵と味噌汁だけで、あとは作り置きなんでちょい手抜きですけど」
「煮豆を作り置きしておいて、手抜きって言う男子高生もなかなかいないけどね」
「ほっといてください」
 理沙が軽く笑い声を漏らす。ちらりと視線をやると、少女も箸を握っていた。今日は昨日ほど頑なでもないらしい。少しだけほっとする。どうせなら諦めてくれればもっと楽なのだが。
「あ、そうだ」
 料理を口に運びながら、理沙が声をあげる。
「亮。あたし明日練習試合なんだから、絶対観に来なさいね」
 その言葉に御飯を飲み下して、思わず亮はぽつりと呟いた。
「この状況でその発言が出来るお前を尊敬するよ、理沙」
「あ、会長も、そっちの女の子もね」
「わ……わたしです、か?」
 箸を持ったまま、少女が目を丸くする。その隣で、時也が不服そうに鼻を鳴らした。
「何で僕まで付き合わなきゃいけないの」
「ごちゃごちゃ言わないで来るのよ」
 言い切ると、にっこりと少女に笑みを向ける。強い。茶碗を手にしたまま、うめく。
「いや……本気で尊敬するよ、理沙」
「ふふん。崇めなさい」
「却下」
 切り捨てた亮の言葉に、時也が小さく吹き出した。



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