最終章:The rose moon――女神の祈り


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 その言葉に膝が震えるのを、エリスは自覚した。
 違和感が強くなる。自身を二分するかのような、そんな感覚。感情の檻を突き破り、エリスの中に封じられていたもうひとつの感情が暴れだしそうな、そんな感触。
 紅色の月を見上げ、エリスは細く息を吐いた。その吐息にのせて別の感情を体外へ追い出すかのように。
「何だろうね、この感覚」
「エリスちゃん」
 呟きが震えていたのに気付いたのだろう。ゲイルが、エリスの左手を握って来た。その手を握り返し、震えを何とか止める。紅い瞳は、女神も同じだった。ふたつの視線が交差する。
 頭の中が割れるように、痛い。
 脳髄を引っ掻き回すような頭痛に、自然と眉が寄った。その痛みの中で、エリスは無理やり唇を薄く開いた。その痛みが何故か、理由は判っていた。
「――あんたに従わなきゃいけないって、そんな感じがするんだ」
 呟きに、目の前の女神の笑みがきつくなった。
 自己の中に膨れ上がる、自身のものとは別の感情。ふたつの感情がぶつかり合い、頭痛と言う形で外に噴出している。その事が、エリスには自然と理解できた。
 女神に跪きたくなる衝動。それに反発する感情。
 ――敬愛、尊敬、心酔、傾倒――憎悪、反発、怒り、殺意――それらの全てが、浮かんでは溢れ、弾け合い、壊れていき、また浮かんでは溢れていく。
 ふと気を緩めれば、跪き、頭をたれ、敬愛の口上を述べたくなる。理由など判らない。ないのかもしれない。
 だがひたすらに、心臓が軋む。
 エリスの手を握るゲイルの手に力がこもった。皮膚の硬さ。思ったよりも熱い体温。半ばそれにしがみ付くように強く握り返した。大丈夫、と口中で呟き、エリスは女神を睨み据える。
 また膨れ上がる傾倒の感情を押し殺していると、ふいに女神が口を開いた。
『それは汝が血の記憶』
「月の者として? 女神ルナの使者としてってことかな」
『そうだ』
「だったらなおさら」
 口内に溜まった苦々しい唾を吐いて、エリスは剣を引き抜いた。右肩にかかる馴染んだ重さ。指が柄の傷をなぞる。
「従いたくないね」
 ゲイルの手を離し、剣を構えた。暴れだす感情を制御することに成功している。その事実が、エリスの中に不思議と落ち着いた気持ちを生ませた。
 不安はない。恐怖すらも。
 目の前にあるその姿を見ても、萎縮することはない。禍々しいほどに美しい、白い肌の女神。今まで幾度か見た、夢の話ではない。呼びかける幻影ですらない。そこに存在するのは、確かに女神そのものだと――そう、エリスは理解していた。
 ただしそれは、実体ではない。肉をもった体ではなかった。
 小さなうめきが背後で聞こえた。振り返ることをせずとも、エリスには何故か判った。ミユナが頭を抑えている。法技に疎いエリスにすら、判る。肌がざわめくような悪寒は、女神と対峙したそれだけではない。精霊たちが、怯えている。
 怯えは、精霊だけではない。ゲイルも、ミユナも、そして恐らくはジークも。怯えているはずだ。恐れを覚えているはずだ。人間とは存在そのものが極端に違う女神と対峙して、怯えずにいられるはずがない。
 だが――エリスは違った。
 歓喜に近い何か、傾倒したくなる何かは感情の中にありはしても、それを押さえつけた現在の状況では、怯えに似たものは何もない。
 ただ、静かに女神と向かい合っていた。
 女神の塔の屋上は、天に伸びるかのようにその腕を広げている。中央に座した祭壇。夜空から降り注ぐ紅い月光に照らされた、同じ型の紅いレリーフ。そしてその前に立つ、女神。その『存在』。
 女神に肉体はない。ただ、『存在』として具現化している。
「――くそっ!」
 珍しく短気を起こしたのか、ゲイルが声を発した。その瞬間、空気が伸縮するような風の刃が、ルナに向かう。だが――それだけだ。髪の毛の一筋も揺らがせることなく、女神は冷たい瞳を据えた。
 続けざまに、ミユナの声。光が女神に収縮し、はじけた。だがそれも、同じ結果になる。何も変わらない。
 空気が灼熱するように吹き荒れた。その熱風を髪にうけ、エリスは微動だにしなかった。
「無駄だよ、ゲイル、ミユナ」
 静かに、呟く。その視線は、女神から外さずに。
「それから――ジーク。グローブ、ちゃんと着けてて。その『眼』は使えない」
「お嬢ちゃん……」
 声が僅かに戸惑いを含んでいる。ということは、事実ジークはグローブを外し『眼』を使おうとしていたということだろう。普段の彼なら、ここまで思慮が足りないことをしようとはしないはずだ。やはり、イヴのことが彼の中で大きな傷となっている。だからこそ、だろうか。
 見えない背後で、ジークが顔を歪めているのが判った。ゲイルも、ミユナの顔も、見えないのに見える気がする。
 エリスは静かな口調で続けた。
「消すことは、出来るだろうけどね。でも、もしそれをやったとしたら――世界のバランスが崩れかねないと思うよ」
 ジークが息を呑むのが判った。
「女神がひとり、いなくなったとしたら――違うね、いなかったとなったなら。どれだけ世界に弊害が出るか判らない。この大陸も存在するわけがない。ドゥールや、ダリードくんや、あたしみたいな月の者も生まれなかったことになると思う。何がどうなるか判らないよ。その『眼』は使えない。リスクがでかすぎる」
 女神は言葉を発することもなく、静かに佇んでいる。
「ミユナの能力は戦力にはならないしね。精霊と意思疎通を取れたところで、女神に対抗する術にはならない。それに、ルナには実体がないからね。ゲイルの風や魔導の中でも格下の法技――物理的なものはあんたには効かない」
 そこで一度言葉をきり、エリスは深く息をした。肺を満たすのは、夜の清涼な空気だ。それだけは、変わらない。
「そうだよね、ルナ?」
 女神の紅い瞳が細まる。
『ああ。我は物理などと言う法則に縛られることはない』
「だから」
 剣を構えたまま、エリスは足を引いた。身を低くし、戦闘態勢をとる。
「あんたを斬れるのは、その可能性があるのは、あたしの剣。――だよね」
『気づき始めているようだな。己の能力を』
「まぁ……何となくは、ね」
 言うと同時、エリスは床を強く蹴った。己の言葉――『物理的なものは女神には効かない』という言葉と相反する言葉を発していることは、判っている。だが、エリスには確信があった。
 ――斬れる。
 エリスの剣の問題ではない。エリスの扱う剣は、ただの剣にしか過ぎない。質は悪くないが、高価な剣でもない。それは剣を扱う担い手の、エリス自身の、問題だ。
 深く考えていたわけではない。そんな時間も余裕もエリスにはなかった。
 強く地面を蹴った次の瞬間には、眼前に迫っていた女神にむかい剣を振るった。
 ――何も考えず、ただ、振るった。


『なるほど』
 頷くような言葉を発し、女神は静かに佇んでいる。エリスの剣をその裸身にうけた姿のままで。
 血などは流れていない。だが、一瞬――ほんの一瞬だけ、女神の姿が透き通り揺れた。ただそれだけだったが。
『他のものたちほど愚かではないが――だが、まだだな。完全に覚醒したわけではないようだ』
 剣を突き出したその体勢のまま、エリスは呟く。
「アンジェラはどこ」
『あの魔女の娘か』
「アンジェラはどこ!」
 叫び声を叩きつけ、突き出していた剣を薙いだ。手ごたえは、ない。全くないわけではないが、ほとんどない。何枚か重ねた薄衣を薙いだ程度の手ごたえだけだ。また一瞬、女神の姿が揺れる。すぐに距離をとり、間合いを計る。
「――あんたが何のためにあたしをここに呼んだのか、そんなのは知らない。どうでもいい。ただ、アンジェラは――あたしの親友は、返してもらうよ。アンジェラはどこっ!」
『そこだ』
 あっさりと返事が返ってきた。
 白く細い、まるで芸術品か何かのような指が、ルナ自身の背後の空に向けられる。
 ルナから視線を外すことに躊躇いが無かったといえば嘘になる。だが、背後で上げられたジークの叫び声に、そんな考えも吹き飛んだ。
「アンジェラ!」
 その音に含まれる焦りや衝撃に、エリスは屋上に降り立ってからはじめて怯えを感じた。跳ね上げるように、顔をそちらに向ける。
 そして、見た。
 夜の中浮かぶ宝玉。ルビーかガーネットか、そんな色合いの赤い宝玉。宝玉と一口に言ったところで、エリスはそれほど大きなものを今まで見たことはなかった。否――自然なもののはずがない。何せ丸いそれは、一抱え以上ある。人間の少女を、その中に封じるほどの大きさだ。
 眠っているかのように、見えた。
 紅く浮かび上がる大きな宝玉の中、アンジェラ・ライジネスはただ静かに佇んでいた。
「アンジェラッ!」
 喉が裂けそうなほどに、エリスは声をあげた。次の瞬間には訳も判らずに床を蹴っていた。夢中で剣を振るった。あの宝玉を割らなければ――そんな確定事項のように浮かび上がってきた意思のままに、ただ剣を振るう。
 だが、甲高い音を立てて剣は弾かれた。勢いのまま床に転がったエリスを、ゲイルが慌てたように支える。
「エリスちゃん」
「あれを外して」
 ゲイルに支えられながら、だがエリスは女神を睨みつけたまま言葉を吐いた。
 痛みなど、何も感じなかった。肉体には痛みなど感じなかった。
 痛んだのは、もっと深いところだ。
「あれを外して! アンジェラを外に出しなさい!」
 見ていられなかった。あんな状態の彼女を直視できなかった。そうなる前に助けられなかった己への怒りやふがいなさが、津波のように押し寄せてくる。アンジェラは気を失っているのだろうか。目を開けてはいない。あのアメジストの瞳が見えない。そのことが、哀しい。
 何も考えられなかった。ただ、アンジェラが――親友がそんな状態でいるということだけが頭の中をしめていた。アンジェラを自由にしたかった。あの宝玉の中から出して、アメジストの瞳を見返したかった。皮肉に悪戯っぽく笑う唇と、薄く見えるえくぼが見たかった。その唇から漏れ出る悪態が聞きたかった。名前を呼んでほしかった。
 ――『エリス』と。
 咆哮のような叫びを上げながら、エリスは走り出していた。女神にむかって。
 あの宝玉を割ることが出来ないなら、女神を何とかすればいい。そうすれば、アンジェラはあそこから出られる筈だ。そんな確信に近い何かがエリスの中にはあった。
 無心の状態で幾度も剣を薙いだ。
 その中に、ふ――と小さな音が紛れ込んだ。
『くだらぬな』
 それが女神の言葉だと理解したその瞬間、光がはじけていた。視界を焼く痛みに悲鳴が搾り出される。鼓膜そのものが破裂したかのような錯覚を覚える音が響く。胸を圧迫する衝撃と、一瞬の浮遊感。そして、受け身を取り損ねたせいで背骨に直接響いた衝動と激痛。
 それらが一瞬にして巻き起こり、それが女神による攻撃だとエリスは瞬時に理解した。倒れた体を起こそうと上体を持ち上げ――そして、気付く。重い。
 何かが自分に被さっている。見下ろして、気付く。人だ。金色の髪に覆われた後頭部。さほど大きくはない背中には、火傷のような酷い怪我を負っている。滲んだ血が、エリスの服を濡らしていた。
 それが誰かを頭で理解するよりも早く、口が勝手に悲鳴を吐いていた。
「ゲイルッ!」
 叫んだはずの自分の声は、エリスの耳には届かなかった。キィン、と耳鳴りが響いている。顔に昇っていた血が、ざっと沈むのが自覚できた。
 ゲイルが、エリスに被さって倒れている。肩を揺さぶっても反応が少ない。状況は一瞬では理解できなかった。だが、想像は出来る。
 庇って――くれたのだろう。
「ゲイル、ゲイル!」
 ようやく、遠く自分の声が聞こえてきた。ゲイルの肩を強く揺さぶる。と、碧色の瞳が僅かに覗き見えた。
「エリスちゃん……無事かい?」
「なんでこんな」
「助けるんだろ、アンジェラちゃんを」
 弱い声で、微笑んでくる。
「エリスちゃんが、助けてやんなきゃいけないだろ、だから……」
 ふう、とゲイルが息を吐いた。その息は熱く、エリスの手にかかる。
 ゲイルはまぶたを下ろし、呟きを洩らした。
「嫌なんだ、もう。誰も……ぼくの目の前で死んでほしくない。ドゥールみたいに、冷たくなってほしくない。だから」
 だから。
 その言葉の続きは聞き取れなかった。荒かった呼吸が、すうっと落ち着いていく。その事実に、エリスは裏返った悲鳴を上げていた。縋るように、名を叫ぶ。
「ジーク……! ジークっ、ゲイルが、ゲイルが!」
「見せろっ!」
 ぐいっと肩を強く引かれた。恐怖に揺らぐ視界の中に、ワインレッドの色が広がる。その瞳に篭る強い意思に、混乱が収まっていく。
「ジーク」
「助ける」
 断言。
「生きろよ、ゲイル」
 囁くように、けれどはっきりとした強さをもって、ジークがゲイルに告げた。
 救う。
 その言葉は、揺ぎ無く未来を見据えている。
(大丈夫だ)
 ふいに、エリスは胸中で断言した。ゲイルの体を床に横たえ、法技をかけ始めるジークを見つめ、断言する。大丈夫だ、と。
「お願いね、ジーク」
「ああ」
 頷きを背で聞き、エリスはゆるりと立ち上がった。衝撃に背中は僅かに痛んだが、それほどでもない。ゲイルが庇ってくれたおかげが大きいのだろう。
 すいっとミユナが隣に立つのが判った。静かな声で、告げてくる。
「援護が必要なら、言えよ」
 エリスは小さく首を振った。
「あたしはいい。それより、ジークとゲイルを、守ってて」
「エリス」
「ジークは、ゲイルにかかりきりだから。無防備だから、守ってあげて」
 いつのまにか床に落ちていた剣を広い、エリスは再度構えなおした。
 人差し指のはらで、柄の傷をゆっくりとなぞる。
「――判った」
 ミユナが少しの黙考の後、踵を返すのが判った。やはり静かなままの口調で、エリスの背に言葉が投げられる。
「死ぬなよ」
「死なないよ。こんなんで死んだら、アンジェラにまた怒られちゃう」
「また平手打ち喰らうな」
 くっと小さな笑いを残し、ミユナが離れていった。
 エリスは顎を上げた。紅い瞳が、すぐそこにある。
 女神が、薄く唇を開いた。
『――我が何故、このような遠回りをして汝等を集めたと思う? 月の者よ』
 月光が降り注ぐ。
「さあね」
『我の駒足りえる、より優れた能力者を呼ぶため。特に月の者は我が片腕と成り得る者を選ぶためだ』
 夜の闇を裂くように、紅い月明かりが降り注ぐ。その中に浮かび上がる、白い裸身の女神。そして、親友を封じた紅い宝玉。
 エリスはじっと、女神と対峙しつづけた。
『世に月の者がひとり以上同時に存在したためしなど、今までない。最も優れたものを選ぶため、我が汝等を生んだのだ』
 その言葉が意味するところは、エリスにも理解できた。知らずにほそまっていた目を向け、訊ねる。
「つまり、あたしが複数の月の者の中から、淘汰されて選ばれた、あんたの片腕足りえる存在――ってわけ?」
『そうだ』
「ダリードやドゥールの死は、アザレルにとっては予定外だったらしいけど。あんたにとっては、予定通りだった――って、わけ」
『あれらは失敗作だ』
 だんっ!
 気づくと、エリスは再度踏み込んでいた。薙いだ剣はやはり、若干女神の姿を揺るがせるだけに止まる。
 否――違う。
 女神がにやりと笑みをゆがめた。
『覚醒が始まっているな。良い――もっと、怒れ。魔法の原理は想いだ。感情はそれを助ける』
「うるさい!」
 薙いだ。右手が痺れを訴えかけてくるほどに、何度も、何度も。
 その度に女神の姿は一瞬薄れ、歪み、また復活し、そして歪む。それを繰り返す。その間隔が徐々に長くなっているのは、判った。
『汝の力は、我にとっても脅威に成り得る。だからこそ、欲しい。我に従え、月の者よ!』
 金属をこすり合わせたような――あるいは黒板に爪を立てたような、そんな不快な音が脳の中で響いた。膝が震え、エリスの中に沈んでいたもうひとつの感情が暴発しそうになる。
 だが、足の裏に力をこめ、エリスは叫んだ。
「い――やだっ!」
『疑問に思ったことはないか。何故ラボから抜け出せた能力者と、そうでない能力者がいる? 何故覚醒前に捕まった者がいて、覚醒後も放置されていた者がいる? 気付かぬか?』
 剣で斬り付けられ、その度に姿を揺るがせながら、しかし女神は朗々と語りを続けた。
『全てはアザレルに選ばせた。操ることで価値が強くなるもの。人に分け与えることが出来、なお有利になるもの。それらはラボに集めた。そうでなく、人として、人の中に置いておく事で楔になるものもいる。それらは監視しておいた。汝や、あの魔女の娘もそうだ』
「……っそっ」
 息が上がり、剣を振るえなくなった。呼吸を整えるために、エリスは一度間合いをはかり後退した。吹きだす汗が、夜風にさらされ体温も奪っていく。
 女神の紅い瞳を睨み上げる。
 エリス自身と同じ、紅い瞳を。
『人の世は、くだらぬだろう?』
「何を……」
『愚かしき人間どもは、汝等を受け入れたか? 人というものは、自身と違うものを排除しようとはしなかったか?』
 アグライア・カンポ(輝き乙女の広場)でアンジェラがされた行為。あの黒竜がみせた過去を思い出す。蹴られ蹲っていたアンジェラ。エリスに投げられた子供たちの残酷なまでの言葉。
 それだけではない。何度も口々に囁かれた言葉もある。エリス自身、数え切れないほどに。
 ――その血に濡れた目で、私を見るな!
 今でも時折夢に見る、実父の言葉。同時に投げられる暴力。傷跡としてうっすらと残った、左目のすぐわきにある過去。
 確かに、女神の言う通りだ。人は愚かで、自己勝手だ。人の中で人を淘汰して生きている。
 だが、それでも。
 アンジェラがいた。パズーがいた。カイリがいた。少数ではあったが、それでも確かに、エリスを受け入れてくれる人物は、いたのだ。
『人の世は常に同じだ。愚かな過ちを繰り返す。だが、そのようなものは、我が世界に相応しくない』
 金色の髪が、ふわりと空に揺れた。その瞳が、輝くほどに紅く空を映す。
『時が来たのだ! 我はずっと人の世を、この大陸を見つづけてきた。人が人の手で、更生するなら其れで良いとも思っていた。だが、其れは叶わないと結論した。だからこそ、我は汝等を呼んだ。時が来たのだよ。我が力をもって、くだらぬ世を再生する時が! 汝等はそのための駒と成る力がある。我と共にこの世を再生するその力がな!』
「そんなの誰も望んでない!」
 叩きつけるように、エリスは叫んでいた。
「人間って確かに馬鹿だし、愚かだし、くだらないかもしれないよ。セイドゥールだって戦争ばっかりしてるし、お父様もあたしを愛しては下さらなかった! けど、だからって、この世が全部駄目なんて思わない!」
 アンジェラがいた。いつも傍にいた。大切な親友。
 パズーやカイリもいた。セイドゥールにいた頃の、エリスの数少ない友人たち。
 ゲイルがいた。ドゥールがいた。ミユナがいた。ジークがいた。
 不思議な偶然が重なり、あるいはそれは必然だったのかもしれないが、とにかく出逢った、今では仲間といえる存在。
 いなかったことになるのかもしれない、だが、確かに存在した、イヴという少女。
 プレシアや桜春、ロジスタやエカテリーナ――四竜たちですらも。ゲイルの家族たちですらも。
 そして、ダリードも。あの少年も――この世に、いたのだ。そんな世が、全て駄目だとは思えなかった。
『我の世に、過ちは必要ない!』
「この世界も大陸もあんたのもんじゃない!」
 叫びながら――何故か視界が揺らいでいた。エリスはそれでも、口から漏れでる叫びを抑えることが出来なかった。
「誰もあんたに支配されることなんて望んでない! あたしも、アンジェラも、ゲイルやミユナやジークも! ドゥールもダリードくんも、イヴさんだって! あんたに統治された正しい世界なんて望んでない。誰も望んでない! あたしたちが望んでたのは、ただひとつだ! 自由になりたいだけなんだ!」
 あの、星祭の夜に――少年と交わした言葉が思い出される。
 あの時、思った。
 自由になりたい。ただ、それだけの望みは、それほど贅沢なのだろうかと。
 今なら判る。贅沢でも何でもない。それは、望んで当然のものだ。もっと言えば、望まずとも本来なら、誰もが手にしていて当然のものなのだ。
 そのために、人は生きているのだから。
「この世界を統べるのは確かにあんたかもしれない、女神ルナ! だけど、ここで生きているのがあたしたちである限り、生きているあたしたちの邪魔なんてされたくない!」
 感情そのものを叩きつけるように叫び、エリスは強く床を蹴った。
 一閃。
 右一文字に剣を薙ぐ。気合が喉を裂いた。
 女神は避けなかった。しかし、その目が見開かれる。姿が歪み――そして、一瞬、消えた。瞬きにして二度ほどのわずかな時間、完全に女神はそこにいなかった。再度瞬きをするときには、またそこに現れたが。
(……効いて、る?)
『ふむ……悪くない。覚醒が近い。後一歩だな』
 再度現れた女神は、歓喜に打ち震えたかのように言葉を零した。
『今のうちに、我に従え、月の者よ。汝の力は人の身で扱うには少々荷がかちすぎる。我に従わぬならば、汝は死ぬぞ』


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