翌日、私は学校へ行った。練習は休みだったけれど、竹内先生に会いに行ったのだ。
私が制服のまま(つまり練習着に着替えずに)職員室に顔を出したとき、竹内先生は人のよさそうな顔をくしゃりと歪めた。
「杉原」
「竹内先生、あの」
「風岡だろう?」
判ってる、というように竹内先生は頷いた。後退しかけているおでこを撫でて、はぁとため息をひとつ。
「陽子ちゃん事故って、何があったんですか?」
「駅の階段から落ちたらしい」
「階段から……?」
陽子ちゃんらしくなかった。この時期に自分の体を気をつけないなんて、陽子ちゃんはそんなバカな子じゃない。
何が――あったんだろう?
「あの」
「ん?」
「今日、三浦くんって来てますか?」
竹内先生の小さな目がぱちくりと瞬きをした。突拍子もない名前を聞いた、と思っているんだろう。
「いや……さぁ、知らないなぁ。バスケ部だろ? 三浦がどうした?」
「いえ。何でもないです」
私はさっと首を振った。竹内先生はしばらく首を傾げていたけれど、続けざまに私が質問を投げかけたのでそれ以上気にすることはなかったみたいだ。
「先生、陽子ちゃんは今おうちですか?」
「だな。入院とかそういう事態にならなかったのだけ、不幸中の幸いか。――全中のことは、多分風岡が一番悔しがってるだろうけどな」
先生は少し寂しそうに目を伏せた。
竹内先生は、優しい人だと思う。陽子ちゃんにかかっている期待はとても大きくて、先生たちの中には陽子ちゃんの心配よりも先にそっちを残念がる人がいてもおかしくないのに、顧問である竹内先生はそんな様子はまったくない。ただ、純粋に陽子ちゃんを心配してるんだなぁとわかる。陽子ちゃんと竹内先生は実際仲も良くて、よくじゃれ合ってるし、友達みたいなところもある。だから、竹じいなんて呼ばれて慕われているんだろう。
でもきっと、竹内先生のそんな優しさは、今の陽子ちゃんには痛いんだろう。
「判りました。ありがとうございます。行ってみます」
私は竹内先生に頭を下げて、職員室の扉に手をかけた。
「杉原」
呼び止めの声は少しだけためらいの色があった。振り返ると、やっぱり同じ色を顔に浮かべた先生がこちらを見ていた。
「はい?」
「明日の練習……お前、どうする?」
――風岡が来なくても、お前は来るか?
言葉は全部じゃなかったけれど、先生の言いたいことは判った。先生は、生徒をよく見てるんだと他人事のように感心してしまう。私のことも、ちゃんと見ててくれたんだ。
でも、全部はやっぱり、判っちゃいない。
「先生、私確かに陽子ちゃんに誘われて陸上部に入りました」
でも、と私は続けた。
「三年間続けてられたのは、走るのが好きだからです」
先生の顔がふわっと嬉しそうに崩れた。それこそ、竹じいのあだ名の通り、孫を見るおじいちゃんみたいな目だと思った。
「それに、陽子ちゃんが回復したとき、私が走ってなかったら陽子ちゃんに怒られちゃうから」
「そうだな」
竹内先生は少しだけ安心したみたいに笑ってた。
「じゃあ、明日な。杉原」
「はい」
◆
学校を後にして陽子ちゃんの家へ向かう。いつもの歩道橋をわたり終えると、家に向かう左の道じゃなくて逆の右の道へ進む。何度か陽子ちゃんの家に行った事はあるので迷う心配はなかった。築十年少しのマンションの七階。インターホンを押して名前を告げると、化粧気のないおばさんが顔を出した。お見舞い、と告げるとおばさんは寂しそうに笑った。
陽子ちゃんの部屋に通してもらった。
陽子ちゃんはベッドの上で、頭から布団をかぶったまま動かなかった。私が声をかけても、何の反応も示さなかった。
「陽子ちゃん」
呼びかけても、布団はぴくりとも動かない。どうすればいいのか判らなくなって、私はじっと布団を見つめていた。
どれくらいそうしていたんだろう。不意にかすれた声が聞こえてきた。
「つきこ」
ざらざらの、弱い声だった。
「しばらく来ないで」
――頭を殴られたのかと思った。
私に背中を向けたまま、お布団のなかの陽子ちゃんはくぐもった声で言ってきた。
「陽子ちゃ……」
「見せたくないんだ」
ばさり、と布団がめくられた。上体をあげた陽子ちゃんが、泣きはらしたような赤い目で私を見た。動けなかった。
「走れないあたしを、あんたに見せたくないんだ。だから、ごめん」
――来ないで。
一言、告げ終えて。
陽子ちゃんはまたお布団を引っかぶって私に背を向けてしまった。
陽子ちゃんからは、いつものお日様みたいな光を感じることが出来なかった。私はしばらく俯いて、だけどきゅっと唇をかんだ。泣きたいのは私じゃなくて、陽子ちゃんなんだ。
陽子ちゃんが陽子ちゃんであるために必要なのは、走ること。だけどそれを絶たれた。目標にしていた最後の全中での優勝が、参加も出来ずに絶たれた。陽子ちゃんが泣きたくなるのは、あたりまえだと思った。何も出来ない自分が悔しかった。
立ち上がって部屋から出るときに、棚に飾られているビンが目に入った。可愛らしい形の、色とりどりの香水たち。ピンクの月を見つけて、それが陽子ちゃんの言っていた三浦くんにもらった香水だと気付く。
三浦くんなら――何か、知っているんだろうか。昨日は一緒にいたはずだから。
だけど、今はそれよりやらなきゃいけないことがあった。
「陽子ちゃん」
扉のノブに手をかけながら、私は言った。
「陽子ちゃんに走るのが必要なのと同じように、私には陽子ちゃんが必要なんだよ」
貴女は私の太陽だから。月の私を輝かせてくれる、唯一の存在だから。
「だから。待ってるね、陽子ちゃん」
貴女が走れる場所を。貴女が貴女でいられる場所を。陽の輝きが弱まっている今は。
月である私が、その場所を守るから。
◆
その足で、美容院に寄った。長い黒髪を切り落として、色を染めた。
制服のスカートはおなかのところで二回折った。
コスメショップに寄って、夏休みで使えるお小遣いをほとんどはたいて香水を買った。
ゴーストのシアサマー。
甘い甘い、月の香り。
陽子ちゃんの香りがした。
◆
他人が見れば、あたしの行動はキチガイじみて見えたかもしれない。だけど、他人の目なんてどうでもよかった。
あたしがすべきことは唯一つだけだ。
陽子ちゃんが戻るまでの二週間。
私はあたしであり続ける。
走る陽子ちゃんの居場所を、守り続ける。
それだけだった。
翌日、練習に顔を出したあたしを、竹じいは不安そうな目で見つめてきた。その竹じいに向かって、あたしはストップウォッチを投げた。
「竹じい。タイム計って」
「杉原……」
「頼んだよ」
陽子ちゃんみたいには速く走れない。だけど、走らなきゃ。あたしが今走ることは、陽子ちゃんの居場所を、今は走れない陽子ちゃんの代わりに、走る陽子ちゃんを守ることだから。他人になんて言われたっていい。自己満足だと言われてもかまわない。
走らなきゃいけない。
今、太陽は輝けないのなら。
月である私が、太陽の代わりに照らさなきゃいけない。
太陽がいつでも戻ってこられるように。
走るんだ。
スタートブロックに足をかけた。熱く焼けたトラックに指をつく。真夏の太陽が全身を舐めるように焼いていく。茶色に染めた前髪の間から、汗が一筋垂れた。スターターである竹じいが戸惑い顔のまま、けれどストップウォッチを握り締めて反対の手で首にかけてあったホイッスルに手を伸ばした。その様子を視界に入れた後、あたしは竹じいから目を離した。見つめるのはただ一点、100メートル先の白いゴールラインのみ。
腰を上げる。陽子ちゃんがいつもしていたようにあごをひく。風が前髪を揺らした。セミの鳴き声が遠く聞こえてくる。そして、竹じいのホイッスルが鳴った。
頭で考えるより先に体が跳ねるように動いていた。一歩を踏み出してからスタートが切られたことに気付く。
上体を低くしたままの一次加速。
出来るだけ速く上体を持ち上げることにした。陽子ちゃんが言っていたことを思い出す。
二次加速局面。風を全身で感じた。
トップスピード。上がり始めるあごを引いた。腕のふりを大きく。
そして、ゴールラインを踏んだ。
「13秒45」
遅い。
あたしはきゅっと唇を噛んだ。全中の標準記録(全中参加にはこの標準記録を県大会と通信大会でクリアしなければならない)にも全然足りない。月子としてはそこそこのタイムだけれど、でも、今あたしは陽子ちゃんの代わりに走っているのだから、こんなんじゃ遅すぎる。
上がった息を抑えながら、流れ出た汗をぬぐう。あたしの様子をじっと見詰めていた竹じいが、ぽそりと言った。
「杉原」
「はい」
「本気だな」
「はい」
竹じいは満足そうに笑った。あたしの様子を気味悪そうに見守っていたほかの部員たちを見渡して、ゆっくりと言ってくる。
「風岡みたいに、走るか」
「今は、あたしが走るんです。陽子ちゃんの代わりに」
夏の陽射しを浴びて、あたしは告げた。
「陽子ちゃんは、走ってこそ風岡陽子だと思ってる。走ることと陽子ちゃんが陽子ちゃんであることはイコールなんです。だけど今陽子ちゃんは走れない。だから陽子ちゃんは、風岡陽子であること自体が揺らいでいるんです。だったら、その場所をあたしが守る。走っている風岡陽子の居場所を、三週間だけでも、守るんです」
「全中に出られるわけじゃないぞ。そしてお前は、風岡じゃなくて杉原だ。それは変わらない。それでもか?」
「はい」
大きく頷いた。湿った風が前髪を揺らした。微かにシアサマーの甘い香りがした。
「自己満足だってことくらい、判ってますから」
竹じいはそれ以上何も言わなかった。
練習が再開された。
あたしは、あたしであるために、陽子ちゃんの居場所を守るために、ただ、走った。
次の日も、その次の日も。
全中までの二週間、走り続けた。
タイムは少しずつ、けれど確実に速まっていった。
◆
全中の日だけは練習を休んだ。
陽子ちゃんからは何の連絡もなかった。
あたしは、やめなかった。
陽子ちゃんの香りをつけて、陽子ちゃんのようにスカートを短くして、陽子ちゃんの居場所を守るために、走り続けた。
三浦くんのことは、忘れていた。
陽子ちゃんの代わりをし始めて、ちょうど二十日目。
練習を終えて帰り際、廊下で偶然出逢ったその日。
三浦くんの隣には、可愛い下級生の女の子がいた。
◆
「陽……?」
三浦くんの表情はまるでおばけか何かを見たように強張った。
あたしは思わず、黒い笑みが浮かんでくるのを止められなかった。
「よう、シン」
何も意図することもなく、あたしの唇はその言葉を発した。それこそ、陽子ちゃんのように。あたしが陽子ちゃんではないことを、三浦くんは理解していたはずだ。だけれどあたしを見つめるその顔は、杉原月子を見る三浦新一の顔ではなく、風岡陽子を見る三浦新一の顔だった。
「それってつまり、どーゆーこと?」
「すぎ……はら」
三階の廊下にはあまりひとはいない。この時間、部活の生徒が帰るこの時間だと、補講のための生徒はほとんどすでに帰ってしまっているからだ。まだ騒がしいのは校庭くらいで、校舎の中は静まり返っている。その無機質な廊下に、上ずったような三浦くんの声が響く。
三浦くんの隣にいる女の子は、多分二年生だろう。あたしを見て、怖がっているのかなんなのか、三浦くんの腕を握っていた。
「――そういえば、ねぇ。シン。あたし知りたいんだけど。あの日、あたしが事故った日。あんた、あたしと一緒にいたよね?」
頭で考えるより先に唇が音を紡いでいた。
あたしはもう、月子じゃなかった。二十日間のあたし自身のふりは、あたしの中にたしかに風岡陽子を産み付けていた。
シンは強張った顔のまま、嘲笑うかのように表情をゆがめた。滑稽だった。
「何やってんだ、杉原。相当キモイぞ、お前」
声が微かに震えていた。
「――なぁ、シン。あたしいまいち覚えてないんだけどさ。あの日のこと、教えてくんない?」
「すぎ……」
「ねぇ、その子だれ? つまりあんたは、あたしと別れたって、そういうこと?」
「やだ。三浦先輩、このひと怖い……」
小さく呟いた二年の女子をあたしは睨み付けた。彼女はひっと小さく声を上げて固まった。
シンはよろけるように数歩、後ろに下がっていた。
「やめろよ、杉原……」
「シン?」
「やめろ……!」
「説明してくれたって、いいんじゃない?」
「気もちわりぃんだよ!」
「説明しろよ、シン」
「やめろ、杉原っ!」
耳が痛くなるほどの叫び声をシンがあげた。
廊下にじんとこだましたひっくり返った声に、あたしは目を細めた。声が薄れて、聞こえなくなってから、あたしはにやりと唇をゆがめて見せた。
「――あたしが月子に見えるわけ?」
シンは青褪めた表情で、ただ「陽」と弱々しく呟いた。
数歩、シンとの距離を縮めた。あたしを見つめるシンの顔は、恐怖で歪んでいた。
この距離なら、香るだろう。
甘い月の香りを。
シンがあたしにくれた、あのシアサマーの香りを、確かに今シンは嗅いでいるはずだ。
「ねぇ。シン。――あの日いったい、何があったの?」
シンはもう何も言えなくなったように、ただ青褪めて小さく首を振った。
「そいつがあたしを突き落としたんだよ」
ずっとずっと聞きたかった声が聞こえたのは、そのときだった。